第3話 衝撃

 玄関から母の声が聞こえた。酒に酔って上機嫌な様子の声と、軽い調子の足音が重なっていた。

 それを耳にした瞬間、ジュールの体は強ばり、血の気が引く思いがした。荒らされた部屋に飛び散る赤、床に広がった水や吐瀉物に、そして、なにより、頭を殴られ力尽きるトビ。この光景を見られたくない。しかし、今から片付けられるものでもない。

 どうしよう、どうしよう、見られてしまう、どうしよう……そう混乱するもなにも行動を起こせないジュールを尻目に、リュカは無言で台所に向かっていた。しかし、ジュールには見えていないし、見えたところでそんなことを気にしている余裕はなかった。

 ただトビから少し離れたところで立ち尽くすしかできなかったジュールは、絹を裂くような母親の声でやっと現実に戻ってきた。

 我に返った己が向けた目線の先では、口を押さえガタガタと体を震わせた母親が、トビの傍らに膝をついていた。


「トビ! トビ!? なんなのこれ! え、死んでるの、死んでるの!? ちょっと……!」


 動揺する母親は彼の体を揺すり、叩き、何とか起こそうと試みるが、どうにもならないであろうことを朧気ながら理解したのだろう。甲高い絶叫をあげて絶命しているトビを呆然と見つめた後、突然ギッと力強くジュールを睨みつけた。


「あんたがやったんやろ!?」

「えっ、え、それは……」

「あんたがやったんやろ!? なによなんなんよトビにこんなんして! あんた頭おかしいんちゃうん!?」

「そ、それは……」


 母親は、ジュールへの心配や質問等を一切せぬまま、ジュールを犯人と決めつけて掴みかかる。肩を掴んで体を揺さぶり、まるで尋問のようにジュールを追い詰めた。

 確かに、ジュールがやったことに間違いはない。そうでなくても、何者かに殴られて絶命している夫と、その傍らにいる息子を見たものだからつい犯人だと思ったのだろう。しかし、その息子は明らかに顔や体を殴られ怪我をしているし、部屋も荒れている。それなのに、何があったのか聞きもせずジュールを責める母親に、ジュール本人の心は深く傷ついた。

――なんで、せめて、なにがあったんって、聞いてくれやんのやろう……?

 自分が殺したくせに何をぬかすのか、という指摘を受けても仕方のない思考ではある。しかしそれでも、結局責められるなら、せめて、自分で打ち明けてから責められたかったという気持ちがジュールにはあったのだ。

 それに、間髪入れずにお前がやったのだろうと決めつけられては、まるで、自分が普段から素行の悪い人間だと言われているようで、少し嫌な気持ちにもなった。自分は普段から両親のために弟のために身を粉にする思いで頑張っているというのに、結局、母親からすれば、自分はこんなふうに暴れるような人間に見えていたのかと。

 結局それは言葉のあやと言うやつだろうし、倒れているトビの近くに居たから真っ先に疑いを向けただけだろう。しかし、言葉にしづらい違和感を覚えたのも事実である。

 だが、ジュールにそれを口にできる訳もなく、彼はただか細い呻き声を上げるのみだった。

 一方で母親は、ジュールのそのハッキリせぬ態度に更に苛立ちを覚えたのだろう。彼の胸倉を掴み上げ、揺さぶり、激しく問い詰める。首を絞めるような動きに冷たい恐怖感を抱きながら、床より僅かに浮いた足をふらふらさせて、息がつまりそうになりながら、なんとか必死に頭を働かせた。

 目の前には怒り狂う母の顔、首元も苦しく、部屋の中の嫌な匂いもあってか頭もなにも上手く働かない。また吐き戻しそうになってきたが、その間にも母の怒りは溜まり、怒号が耳を貫く。


「はよなんとか言いさぁ! 分かっとんのジュール! あんたがやったんやろ!? ねぇ! このクズ! 何考えてんのよ! ふざけないでよこの親殺しがぁああぁ――……ぁ、ああ……?」


 その時だった。母親の怒りの形相が、何か違和感に気づくような驚いたような面持ちに変わった。そこから、違和感の元の確認に振り返った彼女は、更に目を丸くした後、どっと青ざめ、一気に叫び声を上げた。同時に、ジュールを締め上げようとしていた手から力が抜けた。辛うじて解放されたロッドは、バランスを崩して尻もちをつく。腰や尻を擦りつつジュールが見たものは、想像だにしていなかった光景だった。


「――……っ、ぐ、ぎゃああああああ! ぁああぁあああ!!」


 母親が叫んだ理由、それは、己の体が刺されて大きな傷を負ったことと、その要因となった包丁を持つ人物がリュカだったことだ。

 突然、リュカから明確な攻撃を受けた母親は、青い顔を晒して汗を流し、床に蹲る。


「っ、なにすんのリュカ……こんなんして、タダで済むと思って……ぁああ……! まっ、まちなさい、やめ、やめなさっ……っああぁ!」


 リュカは、母親の絶叫を聞き流しながら、まるでままごとをしているかのような雰囲気で包丁を振り上げる。手袋をはめた手で、いつものような淡々とした顔つきで、顔を顰めもせずにいるものだから、その光景は異様でしかなかった。

 ジュールの目の前で、リュカはとにかく母親の体に刃物を突き立てる。止めなくては――そうも思ったが、体が動かなかった。何の躊躇いもなく刃物を振るうリュカが恐ろしかったというのもある。だが、それだけではなく、ここで身を呈して母親を助けなくてはいけない理由が見つからなかったのだ。

 ジュールは、母親が何度も離婚と再婚を繰り返すせいで苦労を強いられた。プロスペールにずっと父親でいてほしかったのにそれが母親のせいでできなくなった。新しい父親もろくな男がいなかった。トビも、『デュポン』のときの男も、『ルソー』のときの男もそうだった。それに今、ジュールは母親に殺されそうになっていたが、リュカのおかげで助かったのだ。そう、目の前で包丁を振るうリュカのおかげで。

 そう思えてしまった以上、もう、どうでもよくなってしまった。


 ふと気づくと、母親の悲鳴は聞こえなくなっており、丁度疲れた様子のリュカが乱雑に包丁を床に投げ捨てたところだった。

 床に転がった包丁は、血だらけで白目を剥く母親であった肉塊の横に転がる。体を滅多刺しにされた彼女は、もうすっかり動かなくなっていた。さっき迄あんなにうるさく喚いていたのに、もう、部屋は静まり返っていた。

 リュカは、ふぅと長く息を吐いてから、冷たい眼差しをジュールに向ける。その色は、普段と変わらぬトパーズを思わせるものなのに、凍えるような冷たさが宿っていた。彼は、続けて薄く口を開いてぽつぽつと言葉をこぼす。


「…………あんた、ぶじ? けが、してない?」

「え、あ、うん……あ、ありがと……」

「……なら、いい」


 心配の言葉を向けられて、ジュールは体が強ばった。まさかリュカがそんなことを言うなんて……そういう驚きがジュールの中にあった。彼がしたことはよくないことではあるが、もしかして、一応ジュールを助けるためにやったことなのだろうか。だとしたら、一言礼を述べたのも決して悪いことではないだろう。

 混乱するジュールの視線の先で、リュカは、己の胸元あたりをぎゅうと掴んでから、長く息を吐き、また言葉をこぼす。


「…………なんか、よていが、くるった。けど、まだ、なんとかなる。……やから、つじつまを、あわせよう」

「え、予定? つじつま?」

「……うん、とりあえず、ジュール、うごける?」

「……え、あ……」

「……たてへん?  ならええで、そのままで。でも、ぼく、これから、やることがある。だから、ジュールも、いちおうきいて」

「…………うん」


 ジュールは、よく分からないままに、リュカのゆったりとした言葉に耳を傾けた。トラブルに直面して弟にこんなふうに言われるなんて変だと考えつつも、とりあえず静かにすることにした。

 ジュールの沈黙を理解したリュカは、徐に『やること』について話し始める。


「……とりあえず、いまからぼくはそとにいって、ゲランおじさんをよんでくるで、すこしまってて」

「…………えっ?」

「……そのひとに、ぜんぶまかしたら……だんないから大丈夫だから。そのあとの、ことは、ゲランおじさんに、きけばええ」

「あ、え、ゲランおじさんって、だれ?」

「……このあと、ここのおかたづけを、してくれるひと」

「は? え? ……おまわりさん、のとこ、は?」

「……え、そんなとこ、いかんし、よばんよ?」

「なんで!? ちゃんと、よばな、ちゃんと、ごめんなさいって、いわな」


 リュカが言うことは、ジュールには信じ難い事だった。知らない人の名前を出されただけでなく、まさか警察を呼ぶこともしないとは。こんなこと許されるはずがない。それに、片付けるだなんて、母親とトビをどうするのか。ジュールはリュカの言うことを何も理解できずなんとかして抵抗し、警察を呼びに行こうと立ち上がったが、リュカは服の裾を掴みジュールを引き止める。


「なんっやねんな!」

「……おとなっていうのは、こどもがひとをころしたっていっても、しんじてくれんよ」

「はぁ?」


 妙に純真な丸い瞳でジュールを見上げるリュカに対して、奇妙な違和感を抱きながら、彼は、静かに紡がれる弟の言葉に耳を傾けた。


「……おとなはね、こどもは、すなおで、ええこで、うそをつかものっておもってんねん。しかも、そんな、だれかをわるういうような、えげつないうそはいわんって、おもうんやって。へんやんな」

「…………っ、あ、あぁ……」

「……しかも、な、ぼくは5さい、ジュールは9さい。ぼくたちが、おとうさんとおかあさんをころしたっていったって、しんじてくれんよ。おとなに、いわされてるって、おもうで」

「……そんな、こと、あらへんやろ……」

「……まぁ、そんなこと、あらへんかもしれんね。やけど、ね、ええんよ、むりして、いわんでも」


 リュカの言っていることはジュールにも理解できた。確かに、自分たちのような子供が出頭なり自首なりしたところで警察に信じてもらえるわけがないとは思う。9歳と5歳の子供が親を殺すなんて、物理的にも心情的にも不可能と思われるからだろう。しかし、現に、自分たちはやってしまったのだ。ならば、信じてもらえるか否かは置いておいて、一旦言うべきではないのか? その信念の元、ジュールはリュカの説得を試みた。だが、結局リュカの気持ちは何も変わらず、彼は『ゲランおじさん』とやらを呼びに行ってしまった。


 床に血が広がり、血の匂いが充満し、母親とトビが白目を向いて横たわる部屋の中。ジュールは、弟に強く言うことも、弟を無視して行動することもできない自分を情けなく思いながら、ただ、静かに涙を流していた。

 そして、1人で神様に対して謝罪を繰り返していた。

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