橙の幻想

不知火白夜

1.ジュール

第1話 新たな父

 8歳の夏の日。とある少年は母親にとある男を紹介された。

 体が大きくて、髪色は自分とも弟とも母親とも異なる茶色。小さい目を細くしてヘラヘラと笑う男。彼は、自らを『トビ』と名乗った。

 この人物は、どうやら新しい『お父さん』であるらしく、ニコニコと微笑んだ母親は新たな夫のいい所を並べ、幼い息子2人の警戒心を解こうと試みる。紹介されている男の方も、少々恥じらい謙遜する様子を見せてはいるが、満更でもないようだ。

 男は、幼い少年とその弟の前にしゃがみこみ、それぞれに目を向けて口を開く。


「初めまして。君達がジュールくんとリュカくんだなぁ」

「……はい」

「今日から、僕は、君たちのお父さんになるんよ。よろしゅう」

「……はい」


 無口な弟の傍らに立つジュールと呼ばれた背の高い少年は、オレンジ色の鮮やかで明るい髪を揺らして静かに頷く。目の前で知らない男が『お父さん』だと口にするのが何とも気持ち悪くて、その顔を叩きたくなったが、それを堪えて、シャツの裾をぎゅぅと掴んだ。そして、その男の言うことにただ返事をする。


「……すぐには無理やと思うけど、君達のお父さんになれるよう頑張るから、仲良うしてくれると嬉しいな」


 目を細める男の前で素直に返事をしながら、ジュールはこんなことを思っていた。

――この人は、いつまで『お父さん』でいるんやろ。

――いや、この人は僕のお父さんやないんだから、別に、なんでもええ。

 ……と。



 ジュール・ロドリグ。彼は、これまで何度も『新しい父親』を紹介され、その度に苗字も変えてきた。

 最初、ジュールにとっての『父親』である実父プロスペールといた時は良かった。父親はとても優しく穏やかな人で、高圧的な所はまるでなくそれでいてとても頼りになる人だった。しかし気性が荒く精神が不安定な母親と上手くいかなったのだろう、プロスペールと離婚し、暫くの期間を空けてから母親は別の人と再婚した。ジュールの苗字は『デュポン』になり、知らない人が自分の父親を自称した。せめてこれで上手くいけば良かったのだが、その後また何年かしてから母親は離婚し、独り身だったプロスペールと再会し暫し経ってから再婚し、弟のリュカが生まれた。

 ジュールは、今度こそプロスペールと共にいたいと考え両親の仲を取り持ち弟の面倒も積極的に見た。だが何故か両親はまた離婚し、自分と弟は母親に引き取られ、別の男性を父親として紹介された。ジュールとリュカの苗字は『ルソー』になった。

 それでも、ジュールはこっそりプロスペールと手紙のやり取りはしていたし、時々会うこともできた。プロスペールはロッドとリュカを平等に可愛がってくれた。

 ジュールは、幼いながらに何故この人がずっとお父さんでいてくれないのか不思議で仕方なかった。こんなにも優しく頼もしい人になんの不満があるのか。息子の視点と妻の視点では異なると言えど、まだまだ子供のジュールにはなにも分からない。というか、何度も別れても同じ人と再婚するなら、下手に離婚なんてせずずっと一緒にいればいいのにとも思っていた。

 ジュールは、この地域に根付く宗教において『離婚』がどのような扱いになるのかはまだそこまで理解していなかった。母親が何回も離婚を経験していることから禁止されているだとか大罪だとかいう訳では無いだろうが、いくらかの手間はかかるはずだ。それなのに、何回も離婚と再婚を繰り返し、『父親』である男性が何回も変わるというのは子供にとっても非常に迷惑で、形容しがたい違和感を抱えていた。

 そのため、ジュールは思い切ってプロスペールに聞いてみた。『なんで、お父さんとお母さんはずっと一緒に暮らせんの?』その問いに、父はどこか悲しそうな顔をしてこう答えた。


「……お母さんはね、ちょっと、病気なんやんね。やで僕とずっと居るのも難しいんよ……」


 ジュールには、その答えはよく理解できなかった。病気とはいうが、母親が医者にかかっている所なんて見たことがないし――いや、これは貧しくて医者に行けないだけかもしれないが――それに病気なら、尚更誰か大人が傍に居なきゃいけないのではないだろうか。

 そう伝えると、そうなんやけどね、難しくてね、とハッキリしない返答がきた。

 結局、ジュールにはよく分からないことではあったが、その話はジュールに新たに『母親が病気なら、自分がそれを何とかしよう』『そしてまたお父さんと一緒に生活してもらえるようにしよう』と使命感を植え付けることになった。

 それから暫くしてまた母親と義父が離婚し、彼女はプロスペールと再婚した。プロスペール本人はうんざりしていた様子でもあったが、ジュールは2人の再婚を嬉しく思った。今度こそこの2人に仲良くしてもらい、自分はそのために力を尽くそうと考えたのだ。

 そのため、やがて2人目の弟のイヴォンが生まれた時は相当喜んだし、ジュールが気合いを入れる要因にもなった。

 まだまだ幼い子供にできることなんて限られているけれど、父親が困っているならその支えになるべくして動いたし、母親が精神の不安定さから喚いているならそれを宥めた。自分のやりたいことは二の次三の次にし、感情が読めないリュカを気にかけたし、まだまだ赤ん坊のイヴォンをの世話をした。辛い時もあったが、親や弟たちの為に身を削るのは当然と思っていたし、近所の子供たちも弟妹の世話に追われている子は多かったから、気にしたことなかった。

 両親に感謝される度に、ジュールは報われたような気持ちになった。自分は両親の役に立っている! こうして自分が頑張ることで母親は離婚を選ばず、プロスペールがずっと父親でいてくれる! そう思うと、ジュールはやり甲斐というものも感じていた。


――だが、それも結局は幻想でしかなかった。

 ある時から母親はますます精神を乱し、不規則な生活をするようにもなり、よく分からないことを言う機会が増えた。プロスペール以外の男性とよくいるようになったくせに、プロスペールを『他の女とおった』『浮気者』と詰り頭の中に声が……だの、隣家の住人が私を殺そうとしている……だのよく分からないことを口にするようになった。両親は何度も話し合い――いや、喧嘩を繰り返し、やがて、また別々に暮らすようになった。

『失敗した』――ジュールは、当然のようにそう考えた。自分がもっと気を配っていれば、母親の面倒を見ていれば、2人の仲を上手く取りもてていたのでは無いかと己を責めた。実際は、ジュールにはどうしようも無い事だったのだが、そんなことは関係なかった。ただただ、自分が両親の仲を壊したのではという疑惑と罪悪感を多分に含んだ黒い雲が、ジュールの心を覆っていた。

 だが、ジュールの心はまだ折れていなかった。両親の心を繋ぎ合わせられなかったならもう仕方ない。なら、せめて自分は、少しでも心が楽で居られる道を選ぼうと、弟2人と共に父親について行こうと考えた。母親といては、また違う男を父と呼ぶ羽目になる。女性が1人で生きていくのは厳しい世の中とはいえ、何度も何度も父親が変わるのは勘弁願いたい。だから、せめて、敬愛するプロスペールについて行き、彼の為に頑張りたいと純粋にそう思っていた。

 その気持ちはプロスペールには受け入れられたが、その一方で、母親には衝撃を与えた。そのため何度も母親から殴打を受けた上に『酷い子』『なんてことを言うんや』『お母さんを見捨てるんか』など相当泣かれたものだが、それでも、ジュールの意思は変わらなかった。

 しかしその後――ジュールにとって、最悪のことが起きる。

 それは、両親が子供の引き取りについて話し合った結果、ジュールとリュカを母親が引き取り、イヴォンを父親が引き取るということになったという現実だった。

 子供たちの考えを無視して行われる兄弟の分断にジュールは驚き、焦り、声を荒らげて反抗した。そして、兄弟全員ではなく乳幼児ののみ父親に託すというのも、やや違和感のあることであった。普段から無口で何を考えているか全く分からないリュカも、これには疑問を呈したほどであった。『流石にこの分断はないだろう。何故兄弟を分断するのか』『決して父親の育児が不安なわけではないが、乳幼児のみ父親に任せるのは大丈夫なのか』――おおよそこういった意味合いのことを母親にぶつけた。

 しかし、母から返ってくるのはよく分からない理由のみ。『3人も面倒を見れない』『1人くらいプロスペールに任せた方がいい』『あの子は可愛くない』『これ以上あんな赤ん坊の面倒を見ていたらおかしくなりそう』――母親が吐き出した言葉は、ジュールには納得できないものだった。しかし、言葉の裏に彼女の限界が見え隠れしたことにより、ジュールはそれ以上意見を主張することは出来なかった。『子供の面倒が見れないなら、何故3人ともプロスペールに任せないのか?』という疑問は残り続けたが、それを言おうものなら母親が暴れることはよく分かっていたためもう何も言えなくなった。


 ジュールがリュカや母親と共に家を出ることになったその日。プロスペールは最後までジュールとリュカを心配していた。


「またいつでもおいで。君たちは僕の子供で、イヴォンのお兄ちゃんたちなんやで」

「うん」

「手紙もまた書くよ。写真も、撮影できたら送るからねぇ」

「うん、待ってる……」


 最後の日、プロスペールは家を出ようとしていた2人を玄関で引き止めた。赤い髪の幼児イヴォンを抱きながら、彼は悲しげな顔でジュールとリュカを見つめ、その頭を撫でた。

 ジュールはその手つき、あたたかさ、優しさをずっと覚えている。この人だけを自分の父親だと認識している。そして、まだ幼い弟のイヴォンの姿もずっと覚えている。だからこそ――目の前にいるトビとかいう名前の男を、父親とは、どうしても、認識したくなかったのだ。



 ジュールのフルネームが『ジュール・ロドリグ・ペルグラン』になってから数週間が経過した。

 新たな父親であるトビは、日に日に息子たちへの苛立ちを募らせているということが傍目に見てよく分かっていた。

――随分、気が短い人なんやなあ……。

 ジュールは、そんなことを思いながら日々トビの怒りを爆発させないよう慎重に行動していた。

 何故トビが怒りを募らせているのか。それは、息子たちであるジュールとリュカの態度にあるとジュール本人は考えた。

 ジュールは、できるだけ相手を怒らせないように用心しながら行動し、形容しがたい不快感を押し込みつつ出来るだけ早くトビを『お父さん』と呼んだ。

 トビは、『お父さん』と呼んだこと自体は喜んでくれたが、その他の用心深い行動――例えば、過剰に気をつかったり顔色をうかがったりするような――そういった行動を『子供らしくない』と嫌った。ジュールが気遣う度に出来るだけ優しく指摘していたのだが、最近はその指摘も乱暴になりつつあった。態度が気に入らないと暴言を吐くだけでなく、殴る蹴るの暴行が加えられることもあった。

 ジュール本人としては元々相手の逆鱗に触れないようにと考えての行動だったが、その気遣いを指摘されては仕方ない。そのためジュールなりに考え極力子供らしく振る舞うように心がけていた。そのくせ、その『子供らしさ』のせいで時々トビを苛立たせ結局暴力を振るわれていたため、ジュールは己の行動の正解がよく分からず苦痛だったのだが。

 また、リュカの態度もトビの機嫌に悪影響を及ぼしていた。

 感情表現に乏しく冷めた顔つきで口数も少ない弟、リュカ。彼は、4歳ながら一般的な子供らしさから乖離した性質を宿していた。

 一日のうち一言二言話せば良い方で、何がしたくて何をしたくなくて、何が好きなのかも嫌いなのかも分からない。また、危なっかしいことにトビの葉巻に興味を示す始末。

 ちなみに、リュカがあまりにも話さないものだから、かつてのプロスペールは息子を唖者なのではないかと心配していたほどだった。

 母親とトビがリュカをどのように見ていたか、ジュールには分からない。ただ、ほとんど話さないリュカを母親が殴打し、『お父さん』と呼ばれないことに不満を持つトビに暴言を吐かれているその様は、何とも痛ましく思えて辛かったのだった。


 そんなただでさえ精神的苦痛が傍らにある中、ジュールは多くの身体的負担を強いられていた。決して裕福とは言えない家計を支えるために、彼は幼くして労働に準じ、不安定な母親の面倒を見て、トビの荒れた態度と理不尽な暴力に晒されるといった過酷な状況に心身を疲弊させていた。外では農具を手にひたすら仕事をし、家では本来は母親が引き受けている内職の洋裁をし、その他の家事も多く担当していた。

 せめて家事や仕事に集中できれば良かったが、情緒が安定しない母親相手ではそうはいかない。気づけば、労働に家事に弟と母親の世話に……数多くのことをジュールが多く担っていた。

 まだ幼い弟、リュカに文句を言うつもりはないが、母親とトビにはとにかく文句を言いたい気持ちが募っていた。言ってどうするのかと問われたら、答えられないのだが。

 そんなジュールにも、癒しの時間はあった。

 それが、部屋でプロスペールからの手紙を読んでいる時間だった。

 ジュールとリュカへそれぞれ宛てた手紙は、まだ子供の彼等に合わせたやさしい表現で書かれいた。内容は、日常のことやイヴォンのこと、近所に住んでいる人たちの事が主で、ジュールにとって癒しや心の支えとなり、学校へ行けない彼にとっては非常にいい教材にもなった。

 ただ、この手紙はジュールきり、1人きり、もしくはリュカといる時のみ読める代物だった。

 というのも、プロスペールからの手紙は母が見つければ泣き喚き破り捨てられ、トビが見つければ怒って暖炉にくべてしまうからだった。

 義父と母親からすれば、プロスペールからの手紙なんて不愉快なものであることはジュールにもなんとなく理解出来ることではあったが、勝手に捨てられてしまうのはなんとも悲しかった。

 ジュールは心身ともに負担を背負いすぎているからか体調を悪化させることもあった。常に頭と体が重く、高熱が出る時もあり、更に暴力のせいで怪我をすることもあったが、まともに医者にかかれる訳も休める訳もなく、辛い時もあった。

 それでも、家の外に出れば、勤め先に交友出来る相手がいる分、ジュールは自分を幸運な方だと思っていた。似た境遇にいる子供達と辛さを分かち合えるのは良かったことであろう。『親に殴られた』『蹴られた』『自分も』『嫌になるなぁ』――そう言い合えるだけで、きっとマシなのだ。


 自分はマシ、周りにはもっと苦労してる人がいる、親と弟のためにも自分が頑張らなくては……そんなふうに言い聞かせながら、必死に動いていたジュールだっだが、遂に限界が来た。自分の中でハッキリとした感覚があった訳では無い。しかし、これ以上は無理だと何となく思ってしまったのだろう。ジュールは、ほぼ無意識に、プロスペールに助けを求める手紙を書いていたのだ。

『お父さんへ。お願いがあります。難しいことだと分かっていますが、ぼくとリュカを引き取ってくれませんか。もう一度、ぼくたちのお父さんになってくれませんか』

 それは、トビが来てから半年ほど経過した1月頃のある日のことだった。今日も今日とてトビに理不尽に殴られたジュールは、リュカと共同で使っている部屋の片隅で、寒さに震えながら必死にそんなことを書いた。

 この頼みが、プロスペールにとって負担となることはよく分かっている。しかし、もう母親といるのもトビといるのも苦痛だったため、本当の父に縋りたかった。病気であるらしい母親を気遣う余裕ももうなかった。

 それからジュールは、朝方に隙を見て1人で手紙を出しに行き、次の日からはとにかくプロスペールからの返事を待った。1日2日で来るものではないことは理解しているが、それでも毎日毎日ポストを確認した。朝でも、昼でも、夜でも、タイミングがあれば必ず確認し、郵便物があれば喜び、その中にプロスペールからの手紙がないことに悲しんだ。

 それでもいつか届くだろうと現環境に耐えながら待ち続け、数日、数週間、1ヶ月、1ヶ月半が経過した。マイナスを下回ることが通常の気温の日々の中、辛抱強く手紙を待ち続けたが、プロスペールからの返事は無かった。

――いつもなら、おそくても1ヶ月後くらいには返事がきていたのに、なんでこんなにおそいの……?

 寒い日の夜、子供部屋の机に向かい薄暗い明かりの元で今までの手紙を読み返していたジュールは、そう疑問に思い頭をひねる。そしてひとつの可能性を思いついた。それは、母親かトビのどちらか、もしくはその両方が、ロッドが出したはずの手紙、又はプロスペールから返ってきた手紙を捨てた可能性である。

 それに気づいた時、ジュールは背筋が凍るような思いがした。両親がプロスペールからの手紙を嫌悪していることなんてとっくに知っているはずなのに、それなのに、何故その可能性を考えず呑気に待ち続けたのか。自分の愚かさに腹が立ち反射的に椅子から勢いよく立ち上がったロッドは、己を罰するように自分の頬を全力で殴りつけた。続けて、冷静さを取り戻そうと机に手を置いて深呼吸をする。

『そんな当然のことに気づかないくらい、自分の心はやつれていたのだろう』――そう思いもしたが、だからといってジュールは己のことを許せなかったのである。

 息を吸って、吐いてを繰り返し、何度目かの深呼吸で己を落ち着かせたジュールは、ベッドでリュカが眠っていることを確認してから、親を問いただそうと手燭てしょくを携えて部屋を出た。時刻はもう深夜と言って差し支えない頃合いだが、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。

 まさかこの行動が、己の道が大きく外れるきっかけになろうとは、夢にも思っていなかった。

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