勿忘草(わすれなぐさ) 2024/02/02

「こっちを向け、くそ親父」

 社長室に行こうとしたとき、後の方から呼び止められる。

 振り向くと、中学生くらいの女の子がいた。 


「誰だ?」

 私は彼女に答えることなく、近くの警備員に問う。

「社長の娘と名乗っています」

「娘だと!?」

 私が聞き返すと、警備員は怯えたように縮こまる。


「私に娘はいない。

 なぜそんな人間を通した?」

「私が許可しました」

 答えたのは警備員ではなく秘書だった。

 彼とは長い付き合いで、信頼できる数少ない人間である。

 だがなぜ彼がそんなことをしたのか?


 秘書を睨みつけるが、秘書は怯むことなく言葉を続ける。

「旦那様、過去に向き合う時が来たのです」

「黙れ、娘などいないと言っているだろう」

「社長!」

「黙れ!」

 私は秘書を怒鳴りつけ社長室に入る。

「おい、こっちを向け、無視すんな」


「今から目を通さねばならん書類がある。それが終わるまでにその娘を追い返せ!

 いいな!」

 そういって、部屋の扉を閉め、鍵も閉める。

 これで入ってこれまい。


 しかし娘、娘か……

 そうだ、私には娘がいた。

 今まで忘れていた。

 なぜ忘れて――いや忘れようとして忘れたのだったな。


 私はひどい父親だ。

 彼女の母親が病気で入院したと聞いたとき、私は仕事をしていた。

 見舞いに行くこともなく、そのまま仕事を優先した。

 娘を車から庇って死んだと聞いたとき、私は仕事をしていた。

 葬式に出ることもなく、そのまま仕事を優先した。


 私はどこへでも行った。

 仕事の話があれば、どこへだって行った。

 だが、彼女の母親の元だけにはいかなかった。

 きっと恨まれているはずだ。


 家族よりも仕事を優先した私。

 そんな父親はいないも同然。

 だから秘書に頼んで、娘に父親は死んだことにしてもらった。

 彼女にとっても、そんなひどい父親はいない方がいいだろうと思ったからだ。

 今では秘書が父親代わりだ。


 それ以来、私は娘はいないものとして働いた。

 そしていつしか娘がいることも忘れた。

 だから、私に娘はいないし、娘に父親はいない。

 

 だが、娘は私の元に来た。

 なぜだ?

 恨んでいるだろうに。

 そんな考えが頭のなかをぐるぐる回る。

 私は書類を読む気もせず、その場で立ち尽くす。


 どれくらい経ったのか、後ろの方でカチャリと鍵の開く音がする。

 私が驚いて振り向くと同時に、顔に何か物を投げつけられる。

「おら、誕生日プレゼントだ!」

 娘はそう言うとそのまま帰っていった。


 娘が去った後、ぶつけられたものを拾い上げると、それは花を模したアクセアサリーだった。

「これは何の花だ?」

「勿忘草です」

 声の主は秘書だった。

 その手には鍵が握られている。

 色々問い詰めたい気持ちをぐっと抑えて、聞きたいことを聞く。


「なぜ、アクセサリーを?」

「今日は旦那様の誕生日です」

「それは知ってる。なぜこの花なのだ」

「おや、旦那様。花言葉をご存じないので?」

「知っている。『私を忘れないで』。そのままだからな」

 それを聞くと秘書は大きくため息をついた。


「そこまで分かっておいででなのに、まだ分からないのですか?」

「分からん。認知か?」

「……では野暮を承知で言いますね」

 秘書は大きく深呼吸した。


「忘れないで欲しいだけですよ。

 家族に忘れられるのは、それだけで悲しいですから」


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