第7話

翌日、理人は早く目を覚まし、先ずは顔を洗おうとしたところで、チラシがドアに挟まっているのを見た。水樹が亡くなったうえ、遺体が見つからないことで、またレストランは閉鎖になったとのこと。食事は軽食のみの提供で、部屋まで運んでくれるそうだ。理人としては動きやすくなった。

それから着替えた。黒いジャケットにグレーのスキニーパンツと黒い靴。ジャケットの中には、黄色いニットを合わせた。今日も陽希は寝坊をしている。ベッドの上で小さく丸くなってシャムネコのように寝ている。そのうちに、朝食を注文。カレー風味のスクランブルエッグと、濃い目のコーヒー。陽希の分も、同じものと、ちょっと食いしん坊な彼のためにチョコレートとバナナのオートミールも追加しておいた。コーヒーが大好きだった水樹を、また思い出した。

それを理人が半分くらい食べ終えたころ、ようやっと陽希が起きて、着替え始めた。陽希の今日の服装は、黒いニットにカーキのチノパン、ブラウンのブーツ、白いストール。隣り合って座って食事を摂りながら、今日の計画について軽く打ち合わせる。矢張り先ずは、一度水樹の遺体が見つかった、水樹の客室に向かうべきという結論に達した。

***

そうして訪れた水樹の部屋。テーブルの上も、床の上も、軽く荒らされている。そして、矢張り大量の血痕が残っていた。

「やっぱり、水樹ちゃんの遺体だけがいねぇんだよな」

陽希が、そんな風に呟きながら、部屋をうろついている間に、理人は、じっとテーブルの上を見ていた。コーヒーについて書かれた本、今回の本来の依頼であった標的の写真、それと、仕事用の、何のケースも被せていないスマートフォンが一台。

理人は血痕の前に屈んで、その膝の上に手を置き、じっと血痕を見詰めていた。それから少し唸って、

「一度、友香理さんのご遺体がある部屋にも、足を運んでみましょう」

と、仕事用のスマートフォンを手に取ってポケットに入れてから、腰を上げた。

***

理人と陽希は、すぐさま小野坂のところへ向かい、友香理の遺体を見せてくれないか頼んだが、丁寧に断られてしまった。死因が爆死であり、損傷が激しいという理由だ。

友香理の遺体があるのは、使用されていない客室とのことだ。

「では、その部屋の前まで案内していただけますか」

「いや、しかし……」

理人が妙にこだわるのも気になったが、小野坂が妙に口ごもるのも気になる。陽希は彼らの少し後ろに立って、喋る二人を互いに見比べた。

「どうしてですか? 中には決して入りません。案内するのが億劫ならば、場所を教えてくださるだけでも結構です」

「いえ……どうしても、ちょっと」

「もしかして、ですが」

 理人が口元に手をやって、首を傾げる。

「扉が壊されたりしましたか?」

その質問を口にした瞬間、小野坂の表情が凍り付いた。

「……どうして、それを……?」

「矢張り、壊されていたのですね。ふふ。私も、曲がりにも探偵ですから。しかし、喜んでいる場合ではありません」

理人はすっと目を逸らし、柳眉を歪めた。

「今、私の考えている最も危険な方向に、この船は進んでいるのですから」

***

小野坂との会話の後、理人と陽希は今一度、水樹の宿泊していた部屋へ向かう。そしてそこで、理人は改めて血痕をじっと睨んだ。

「……友香理さんについて調べてみましょう」

陽希は頷き、インターネットで彼女について検索した。

友香理が作曲したという曲名が出て来た。

***

「海のエレジー」

曲調:悲しげな雰囲気のメランコリックな曲

解説:ピアノとストリングスによる美しい旋律が、聴く人に哀愁漂う気持ちを呼び起こします。この曲は、海洋汚染や環境問題といった現代的なテーマにもマッチした楽曲でもあります。

「夕間暮れ」

曲調:メランコリックなワルツ

解説:この曲は、夕暮れ時の静けさと哀愁をイメージして作曲されました。作曲当時の彼女のボーイフレンドが「夕間暮れ」という名前を与えたという逸話も。この曲を聴くと、自然と心が落ち着くような感覚を覚えることができます。

「愛猫と風のメヌエット」

曲調:穏やかなメロディが印象的なピアノ曲

解説:この曲は、愛猫との何気ない日常や自然の美しさを表現した楽曲です。ペット愛好家たちにとっても人気があります。

……

***

パッと見ただけで十はあるだろう。これほどの才能が、この世から奪われたことが悔やまれる。

水樹の情報は、当然のことながら書かれていない。

それを見計らったかのように、水樹の仕事用のスマートフォンが、着信音を響かせた。理人と陽希は思わず瞠目する。理人はその目で陽希を見てから、泣き喚くスマートフォンを、そっと手に取って耳に当てた。

「――……もしもし」

 陽希も、そのスマートフォンに耳を押し当てる。

「もしもし。理人ですか」

聞き慣れた声がして、陽希の心臓が、はっきりとひっくり返るのが分かった。理人も、ぎゅっと眉を顰める。

「水樹……」

死んだはずの水樹からの電話であった。

理人は表情こそ激しく変えなかったものの、端末を取り落としそうになったのを、持ち直したのが分かった。

「ほんの少し会わなかっただけですが、懐かしいですね。理人」

受話器から響いてくる水樹の声が、余りにも落ち着いていて、背筋が更に寒くなる。

「陽希もそこにいるのでしょう? この電話に出るということは、大凡僕の行いについても見当がついているはず」

「水樹は友香理さんの血を盗み出して、自分が宿泊している部屋に蒔き、その上に寝転がって、人が駆けつけてくるのを待った。ドアが開かない状態で中を覗くという状況ならば、充分に騙すことが出来る」

「正解です。それでこそ僕の誇る『探偵社アネモネ』のメンバーだ」

 軽やかな拍手が聴こえる。

「――……まぁ、その洞察力を活かす機会も、もうないでしょうけれど

 理人が目を閉じる。

「……水樹。何故、こんなことをしたのですか」

 声の端々が震えていた。水樹が鼻から息を吐き出す音がする。

「論理的な推理はできたとしても、理人たちには僕の気持ちまでは分からないでしょう。説明をしたところで分かるのやら」

 直接会話していない陽希ですらはっきりと分かるくらい、投げやりな気配が突如として見られ、理人は目を見開いて食い気味に言葉を続けた。数秒前までの機嫌と違いすぎる、情緒不安定は危険だ。

「その自暴自棄な態度、恐れを感じない自白……この事件には裏がある」

「ええ。木を隠すには森の中。事件を隠すには事件の中です。僕がこんなことをした本当の目的、こんなおしゃべりをしている意味、お分かりになりますか?」

 理人が再び目を閉じてしまう横で、陽希は閃くものがあり、衝動的にスマートフォンを奪ってしまった。

「――……時間稼ぎ。そうだね? 水樹ちゃん」

水樹の言葉が止む。

「ねぇ、水樹ちゃん。何でこんなことしたの。時間稼ぎして、これから何しようとしてるの。時間を稼ぎたいっていうなら、話してよ」

「陽希たちに話したって理解できないに決まってるって言っただろ」

「動機のことになったら急に動揺するじゃん。子供みたいだね」

「煽ったって無駄ですよ。僕は話す気なんかない」

「俺たち今までずっと仲間でやってきたでしょ。俺、水樹ちゃんの過去、知ってるよ」

 また、水樹の言葉が止む。先と違ったのは、荒い息遣いが併せて聴こえるということだけだ。

「俺は水樹ちゃんの過去知ってた。知ってたけどずっと仲間でやってた。別に負担だと思った覚えもねぇし、あれだけのこと知ってた上で仲間やってたんだからさ、これからだって何も変わんないじゃん」

 理人は真剣な面持ちで、陽希の横顔を見詰めてくる。

「……もう手遅れなんですよ」

「手遅れ? 何が。生きてんの分かって嬉しいよ、俺は。もう一回、一緒に『探偵社アネモネ』やろうよ」

「僕は、忘れたかった過去を全部思い出してしまったんです」

「過去は過去だろ。いつまでも縛られてたってしょうがない。聞いて、水樹ちゃん。水樹ちゃんはただ、運が悪かっただけだよ。誰よりも優しくて、正義感が強くて、素直な人じゃん。だから、もう自分を責めないでよ。水樹ちゃんにはまだ、夢を叶えるチャンスがある。まだ、幸せになる権利があるんんだって」

「彼女は死んでしまいました。僕が記憶を取り返す前に。僕が彼女の悲しみを理解してあげる前に一人で死んでしまったんですよ」

「水樹ちゃん、笑って。水樹ちゃんの笑顔が、俺の力になるんだ」

「陽希は優しいですね」

 水樹が本気で優しい声で笑うのを聞いて、陽希は一気に泣きそうなほど、切なくなるのを感じた。そんな気持ちを知ってか知らずか、水樹は静かに、こう告げた。

「この船に、爆弾を仕掛けました」

「爆弾?」

「僕は、もうたくさんなんです。彼女は死んでしまった。僕との過去のせいで。僕の過去は仲間に知れてしまった。この爆弾が爆発すれば、もう、僕の過去を知っているものは誰もいない。あと一時間でこの船は木っ端みじんです。僕自身もね」

此処で電話が切れた。理人と陽希は目を見合わせて、それから頷いた。

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