第五話 雨宿りの庭





その日、私はFと一緒にバスに乗っていた。

Fの家が駅からバスに乗らないと帰れない場所にあるため、あの当時はよくバスに乗った記憶がある。

その日は大雨で、二人ともビニール傘を雑に丸めて持ち、その傘の先から垂れる雫がバスの床をツーっと流れるのを見ていた。


Fの使うバス停までは駅前からバスに乗って十分足らずだが、その十分でバスに酔う。

その線の運転手は皆、運転が荒い。

慣れているFは平気そうに音楽を聴きながら目を閉じている。

当時はカセットテープが主流で、私もFも色々な音楽をカセットで聴いていた。


バス停に着くと、Fと私は急いでバスを降りて、近くの家の軒下に走る。

その間に既にビショビショになる。


「何か酸性雨とかで、雨に濡れると禿げるらしいで」


なんてFは言っていた。


そこから傘を差して、Fの家まで坂を下る事になる。

コンビニなども今程は無く、途中の自動販売機で缶ジュースを買い、それを飲みながらFの家まで歩いていた。


ビニール傘をバチバチと叩く雨音がうるさく、Fとの会話もままならない状態だった。


ふと、私は古い家の低い庭木の向こうに人影が見えた気がして立ち止まった。


「何や…」


とFが引き返して来た。


その庭には上半身裸で、パッチ姿の爺さんが立っていた。


「おいおい、爺さん風邪ひくで…」


とFがその老人に声を掛ける。

すると、その爺さんは私とFの方を睨む様に見て、


「鍛えとるからこんなモンで風邪なんてひかんわ」


と言いながら、自分の身体をパンパンと叩いていた。


違う…。

私が感じたのはその爺さんじゃない…。


その家の中を見ると、割烹着姿の老婆が座っていて何かをやっているのが見えた。


あれ…。


私がその老婆に目をやると、直ぐにFも気付いた様で、私の肩を掴んだ。

よく見ると、毛糸で編んだモノを解き、その糸を巻き直している様だった。


Fは私に頷くと、その家の庭に入って行く。


「何かの健康法かいな…」


Fはそう言って老人に訊いた。


「わしらは雨の中でも行軍したんや。こんな雨、屁でも無いわ」


どうやら戦争の経験者の様だった。

私も一緒に庭に入り、扉の開いた縁側に立った。


やっぱり…。


さっき表から見えていた老婆の姿は無い。


「お前らも若いうちから鍛えとけよ」


老人は背中が赤くなる程にパンパンと叩いていた。


「ところで、婆さんはどないしたん」


Fは突然、その老人に訊く。

老人は私たちの方を見て、


「婆さんが死んでもう六年経つわ。なんや、うちの婆さん知ってるんか」


老人も軒下に入って来て、置いてあったタオルで濡れた髪を拭く。


「ああ、昔な、こんな雨の日に雨宿りさせてもらった事あってん」


Fはそう言うと手に持ったジュースを飲む。


「そうか…。なら結構前の事やな…」


老人はそう言って縁側から家の中に入る。


「ちょっと待っとけ、着替えて来るから」


そう言って奥の部屋に入って行った。


少しすると老人はお茶とお菓子を持ってやって来て、私たちの前に座った。


「こんなモンしか無いけど、食うか…」


そう言うと硬そうな煎餅を持って来た。

あまり食べたい気分ではなかったが、とりあえず一枚もらった。


そして部屋の中を覗き込むと遺影が掛けられていた。

さっき見た老婆に似ている遺影だった。


雷が鳴り始め、更に雨脚は強くなった。


「お前ら中に入れ。そこに居ったら濡れるやろ…」


そう言われ、玄関から入り、その縁側で老人と話をした。


「まあ、よう出来た婆さんやったな。何一つ不満も無かったわ…」


と老人は遺影を見た。


「お前らも女はちゃんと見極めて、嫁にもらわなあかんで」


と高校生の二人を捕まえて老人は言った。


Fはじっと部屋の中を見渡して、


「けど、婆さんは不満あるみたいやで…」


と言う。

老人は首を傾げて、


「わしにか…」


と訊いた。

Fはうんうんと頷く。


「婆さん成仏してないしな…」


とFは畳をポンポンと叩いた。


「そんな訳ないやろう…。もう七回忌もやったのに…」


Fは立ち上がって、仏壇の前に座る。


「線香あげさせてもらうわ…」


と言うと枕机に置いてあった数珠を手に取り、蝋燭に火を点けた。

私もFの後ろに座り手を合わせた。


不良男子高校生の読経が始まる。

それを聞いて老人は驚いた表情で私の横に座り手を合わせた。


短い読経だったが、お鈴を鳴らすと深く頭を下げた。


「何や、お寺さんの子か」


と、老人は訊いた。


「いや、爺さんはお寺やってるけどな」


とFは振り返って座り直す。


「わかったで…。婆さん、何が不満か…」


「何や…」


老人は脚を崩して座り、身を乗り出した。


「梅酒、婆さん漬けてるやろ…。何で飲まへんのやって言ってるわ…」


老人はふと思い出したかの様に立ち上がり、台所から梅酒の瓶を出して来た。

赤い蓋に雑にガムテープが貼られ、そこに漬けた日付が書いてあった。


「これか…」


と老人はその瓶をじっと見ていた。


「それから…」


とFは庭の梅の木を指差す。


「何で梅、漬けへんのかって言うてる」


老人は言うにはあまり大きな梅の木ではないが、毎年沢山の実を付けるらしい。

それを婆さんが亡くなってから一度も取らず、欲しいという近所の人に取ってもらっていたらしい。


老人はお茶を飲みながら話を始める。


「あの梅の木は婆さんが嫁いで来た時に持って来たんや。婆さんは和歌山の生まれでな。嫁入り道具の一つやって、その梅の苗木を持って来た。まあ、実が成るまで結構掛かった気がするけど、梅干しも梅酒も婆さんが毎年漬けとったな…」


Fはその話を聞いて頷いていた。

そして目を閉じてじっと動かなくなった。


「今度は何や…」


と老人は私に訊くが、私には何をやっているのかわからなかった。


ふとFは顔を上げて、


「婆さんの実家ってまだあるん…」


老人は、


「ああ、死んだ婆さんの弟夫婦が暮らしている筈やからあるな…」


Fは小さく頷く。


「その梅の木の親木、どうも枯れてなくなってるみたいやな…。その木、絶やさんといて欲しいみたいやで」


不思議そうな表情で、老人は立ちあがり、電話を掛けていた。

しばらくすると戻って来て、


「確かに枯れてるみたいやな…」


Fは二枚目の煎餅を手に取り、


「その木を挿し木で和歌山に持って行って欲しいらしいわ」


そう言う。


老人は頷いて、


「そうか…。じゃあ今度持って行くわ…」


そう言ってた。


その日は、戦時中の話なんかを聞いて、小降りになったところでFの家に向かった様な記憶がある。






しばらくして、梅雨も明けた夏だったと思うが、その家の前を通りかかった。

するとあの老人が居て、庭の木の剪定をしていた。


「おお、お前らか、入りや…」


と庭先から呼ばれ、普通に中に入った。


老人は私たちに麦茶を出してくれて、また縁側に座った。


「どないや…。婆さん成仏したんか…」


と笑いながら老人は訊いた。


私は隣に座るFの表情をじっと見る。

しかし、どうもFの様子がおかしい。

パッとしない表情で家の中を見ている。


「この家、空気が澱んでるな…」


と言い出す。


空気が澱む。

何となく私にもそれはわかった。

縁側に居るのに、風も通らない。

勿論、家の中に風なんて通らない場所だった。


「爺さん、梅の木、持って行ったんか」


とFは訊く。


「ああ、あれな、どうも春先にやらなあかんみたいで、まだやってないねん。来年やな…」


と老人は言う。


Fは俯いて頷く。


「それなら、ちょっと庭、いじらせてもらってええかな」


とFは立ち上がった。


「ああ、ええけど…何するんや…」


と老人も立ち上がる。


私たちは庭に出て、梅の木の周囲を見るFの背中をじっと見ていた。


「爺さん、スコップあるか」


Fが言うと老人は家の裏に回り、スコップを持って来た。

するとFが梅の木の横を掘り始める。

そして盛り土を幾つか作った。


老人は不思議そうにそれを見て、


「こんなんしてどうするんや…」


と首を傾げている。


「空気の逃げ道作ってるねん…」


とFは言う。


空気の逃げ道…。

平らな土地程、空気は澱み、同じ風がその場所で回るらしく、その空気が悪い気を含み、さらに悪いモノになる。

そんな事らしい。

その空気の循環を変えるために盛り土をする。

所謂、人工の山を作るようなモノらしい。

その場所はちょうど坂の途中で、坂の下から吹き上げる風と上から下る風がぶつかり、どうしても澱んでしまう場所になるらしく、よく山の中腹に作られる墓地などがそんな場所に当たるらしい。


「何でも知ってるねんな…。ただのヤンキー高校生やのに…」


老人はそう言うと大声で笑っていた。


「後な…。こんなモンじゃ婆さんは成仏出来んのよ…。ちゃんとやる必要あるわ…」


Fはそう言って縁側に座る。


「ちゃんとって何やねん…。うちもちゃんとお寺さん呼んでやってもろてるけどな」


Fが寺の名前を言うと、老人は頷いた。


「あそこって息子さんに代替わりしたやろ…」


どうやらそうだったらしく、老人は頷いていた。


「婆さんはどうも、大住職に来て欲しかったんやろうな…」


すると老人は、


「俳句の会とかで大住職と一緒やったからな。何でも大住職に頼んでたもんな…」


後から聞くと、老夫婦は息子さんを早くに亡くされたらしく、その供養も大住職に頼んでたらしい。

その大住職がバイクでこけて怪我をされ、バイクに乗るのを止めたという。

その後は車で移動されていて、車の入れないその家には息子がやって来る様になったそうだ。


「そんなに違うモンなんか…。人によって…」


老人は麦茶を飲みながら訊いた。


「思い入れの無い人達には関係ない話やけどな…。死んだ婆さんは思い入れがあったんやろうな…。お経読むなんて一生完成せんらしいから、十年やれば十年の、五十年やれば五十年のモンしかないんやで…」


私は妙に納得したのを覚えている。


その日、Fはまた仏壇の前で読経を始めた。

結構長い読経だった。


そして帰る事になり、私とFはその家を出た。

しかし、Fはじっと梅の木を見ている。


「どうした…」


私はFに訊いた。


「うん…。どうもおかしいねんな…。この木の周囲…」


とFは言う。縁側に立つ老人が、


「どうしたんや…。なんかあるんか…」


と声を掛ける。


Fは老人に、


「いや、また近いうちに来るわ…」


と言ってその庭を出た。


「何がおかしいの…」


私は坂を下りながらFに訊いた。


「空気の澱みがな…。この坂のせいじゃない気がしてな…。盛り土やってもあんまり変わらんのよな…」


Fも首を捻りながら言った。






当時は私も、頻繁にFと会っていたので、どの位経ってからの事かわからないのだが、また夏の雨の日にその家の前を通りかかった。

すると縁側の窓も閉められて、少し暗いイメージがした。


「あれ、爺さんおらんのかな…」


とFはその家の玄関のチャイムを鳴らした。

しばらくすると少しげっそりした老人が出て来た。


「おお、お前らか…。すまんの…。ちょっと風邪ひいたみたいで…。何十年と風邪なんてひいた事なかってんけどな」


と咳込みながら老人は言う。

Fはじっとその老人を見て、


「それ風邪ちゃうわ…」


そう言うとそのまま老人の家に上がり込んだ。

訳がわからず、私も一緒に家に入ったのだが…。


そして、仏壇のある部屋に入った時に、夏という事もあったのだろうが、何か妙な熱気の様なモノを感じた。

ふと仏壇の前を見ると遺影の老婆が座っていて、こっちをじっと見ている。

私に見えているのだがら、Fにも見えていたのだろう。

Fはその仏壇の前に座り、蝋燭と線香をつけた。


「ちょっと窓開けて…」


確かに匂いと熱気が凄い。

私は縁側の窓を開け、風が通る様に、台所の窓も開けた。

しかし、いつもの様に風が抜ける事は無く、激しい雨音だけが聞こえて来る。

蛍光灯をつけると、老婆の姿は見えなくなったが、温い大気がまとわりつく様に重く沈んでいた。


Fは読経を始めた。

風もないのに、蝋燭の火が前後左右に揺れる。

そして線香の煙が部屋の中に充満し始める。

白く煙った部屋の中でFと私と老人は仏壇の前に座った。


いつも思うが、高校生が見事な読経を行う。

これは異様な光景に映る筈だった。

すると、縁側に老婆が立つのが見えた。

そしてじっと梅の木を見つめている。


梅の木に何かあるのか…。


私は一人立ち上がり、老婆が見ている方向に目をやった。


Fの読経が終わり、Fも縁側に立つ。


「爺さん。梅の木の手入れってしてるんか」


すると老人は、


「下手に切って実が付かん様になると困るからしてないな…。婆さんが生きてる時は婆さんがやってたけど…」


Fは老婆が立っていた場所を見つめる。

既に老婆の姿は無く、ただ何となくそこに居た様な空気だけが残っていた。


「ほったらかしにするんやったら切った方がええんかもな…」


とFは呟く。


「死んだ婆さんが望んでるのはそれかな…」


そう言うと私に微笑んだ。






翌日、Fは庭師をやっている友人の父と、友人を連れてその家に行くという。

私はその日、別の用事があり同行しなかった気がする。


するとまたその数日後にFから電話があった。


「仕上げやるから来い」


と言う話だった。


仕上げって何だろうか…。


私はそんな事を考えながら、その日、朝からFの家へと向かった。

するとFの家の前には庭師の友人の父親と友人、お寺の大住職とその息子。

庭師の友人の家で働く人などが集まっていた。

私一人、場違いな気がした。


「あそこの澱みを全部取っ払おうと思う…」


とFが言う。

庭師の親父の車に皆乗り込んで、老人の家に向かった。


私とFともう一人の友人は歩いて、老人の家に向かった。


何が始まるのかもわからなかった。


老人の家に着くと、老人は庭に出て梅の木をじっと眺めていた。


「爺さん。もう皆来るで…」


とFが言うと手を上げて微笑んでいた。


すると、老人は台所から梅干しの入った壺を持って来た。


「梅干し食べるか…。もうかなり前に婆さんが漬けたやつやけど…」


見ただけで唾液が出る。

そんな梅干しだった。

老人は箸でその梅干しを取り、皿に載せる。


「婆さんの漬けた梅干し食べると、店で買った梅干しなんて食えん…。わしはこれで焼酎飲んでたからな…」


そう言うと笑っていた。


梅酒に手を付けてなかった老人。

実は婆さんが亡くなった後、お酒を止めたらしく、一滴も飲んでいないらしい。

勿論、梅干しも焼酎に入れる事が無いので減りが少なかったのだろう。


「梅干しを漬けるの失敗すると不幸事があるって言うやん…。あれってホンマなん」


庭師の友人が訊く。

Fはそれに首を横に振る。


「あれは手を抜かずにちゃんと梅干し漬けろっていう話から始まってるねん。それは嘘やな。ただ不思議と体調悪い時なんかに漬けた梅干しには黴が生えたりするって訊くな」


その話に老人が割って入る。


「婆さんが死んだ年に漬けた梅干しは黴が生えてアカンかったから捨てたわ」


「寺には梅の木って必ず植えるのよ。その梅で毎年梅干しを漬ける。それで飯を食うらしい。まあ、今の寺はそんなんも無いやろうけどな。レトルトカレーも食うし」


Fがそう言うと皆で笑った。


細い道を、一輪車を押しながら友人の父がやって来た。

その後ろに大住職がゆっくりと歩いて来ているのが見えた。

ふと、気が付くと、仏壇の前に老婆の姿がある。

私はFに目配せすると、Fも気付いている様子で、頷いている。


「今日は何を…」


私はFに訊いた。


「ん、ああ、梅の木をお寺に移すんや…」


お寺に梅の木を…。


「死んだ婆さんが言うとったんや。トシ取って手入れ出来ん様になったらお寺に木をあげようって…」


なるほど…。


「もう、わしも手入れは出来んやろうしな…。それなら木の事考えたらお寺で面倒見てもらう方がええなって」


私は仏壇の前の老婆を見ながら頷いた。

老婆もこっちを見て笑っている様な気がした。


早速作業が始まり、庭師の友人も手伝いに入る。

大住職と息子は仏壇の前に座り、読経を始めた。


「わしが酒飲んで帰って来たら婆さんが倒れとってな…。病院に運んだけど、そのまま死んでしもうてな」


老人は、掘り返される梅の木を見ながら話し始める。


「酒飲まんと帰って来たら、気付いてやれとったんかもしれんな…」


私は黙って老人の話を聞いた。


「そんなんもあって酒止めたんやけどな。婆さんはわしのために梅酒漬けたり、梅干し漬けたりしてくれてたんやろうけどな」


私とFは皿に載せられた梅干しを一つ摘まんで口に入れた。

絶妙な塩加減の梅干しだった。


「これは飯進むわ」


とFは酸っぱそうに顔を歪めていた。


思ったよりも梅の木は大きく、


「少し枝を落しても良いかな…」


と庭師が訊いて来る。

あまり実を付けない枝を落す事になり、それを鋸で切っていた。

薦を幹に巻いて、木を引きながら掘って行く。

六十年程育った梅で、立派な木だった。


「あと、どれくらい持つかわからんけど、これで毎年、梅の実が受け継がれて行けば、婆さんも喜ぶやろう…」


一時間程掘ってただろうか、やっと梅の木は引っ張り出され。

根を守る様に薦が巻かれる。


住職の読経も終わった様で、皆、縁側に集まり、麦茶を飲みながら婆さんの漬けた梅干しを食べていた。

しかし、Fだけが梅の木を彫り返した跡を見ていた。

私はFが気になり、傍に行くと、穴の中に手を伸ばして何かを拾い上げた。

そして丁寧に泥を取って行く。


仏像だった。


Fはその仏像を庭の水道で綺麗に洗うと、縁側に持って行った。


「これ、木の下から出て来たんやけど…」


そう言うとFは大住職にその仏像を渡した。


「ある地域では植樹する時に仏像を一緒に埋めるところがあるって訊いたことあるな…」


とその仏像を見ている。


「仏像に悪いモンなんて無いから、この家に置いててもえんちゃうかな…」


と大住職はその仏像を老人に渡した。

すると老人はその仏像を大住職に渡す。


「あの梅の木の下にまた埋めてやって…」


そう言った。


私も何故かそれが正解の様な気がした。


私は庭と家の中を見回す。

さっきまで感じていた老婆の気配がまったくなかった。


「婆さん、成仏出来たんだろうか…」


私はFに訊く。


「さあな…。しばらくはお寺で梅の木見てるかもな」


Fはそう言って笑っていた。






それから数年して久しぶりにその道を通った事があった。

すると家が開け放され、中に人が居る様だったので、私は少し様子を見ていた。


中から中年の男性が顔を出して、荷物をまとめている様子だった。

その男性は私に気付き、会釈した。


「あのお爺さんは」


と私が訊くと、その男性は、


「あ、爺さんの知り合いですか」


と言う。


「先月亡くなりまして、この家の遺品を処分しようと思って…」


と言いながら表に出て来た。

その時に私は以前にあった事を説明した。

男性は息子さんだという事で、無くなってたのは長男で、この中年男性は次男だったようだ。


結構、寒い日で、庭で色々と燃やしながら話をした。

普段は息子さんは福岡に住んでいるらしく、片付けに数日こっちに来ているという事。

そして梅の木の事をご存知で、お寺に梅の木を見に行ったという話も聞いた。


「親父が電話で言うのよ。変な高校生たちに助けられたって。坊主よりうまくお経あげる高校生とか想像出来るかって」


確かにFの読経は、その辺の僧侶には負けないかもしれない。


「あ、お婆さんが漬けたっていう美味しい梅干し戴きましたよ」


私がそう言うと、男性は手を叩いて、台所から梅干しの壺を持って来た。


「これでしょ…。母の漬けた梅干し、これを食べると店で買う梅干しなんて食べれなくなるんですよ」


と壺を開けると、まだ梅干しが入っていた。


「親父がね、あの後お寺から梅を分けてもらって何年か漬けていたみたいです。だからこれは親父の梅干しかな」


そう言うと箸で一粒私にくれた。


私はその梅干しを口に入れた。

美味しい梅干しだった。


「この壺は持って帰って、これからは私が漬けようと思ってます」


男性はそう言うと笑っていた。

その笑顔があの老人そっくりだったのを今も覚えている。






一度、寺の梅の木をFと見に行った事があった。

あの家にあった時よりも大きく育っていた。

住職はもう息子さんに代替わりしていたが、その住職に寺で漬けた梅干しを戴いた記憶がある。

しかし、あの家の梅干しには遠く及ばなかった気がしている。







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