中篇

 その日から、彼と私の奇妙な逢瀬おうせが始まった。


 講義が終わった後、私は彼の研究室を訪れる。

 彼は何も言わず、私に珈琲ではない何かを差し出す。

 そして特に何を話すわけでもなく、互いが互いのマグカップの中身を飲み干すのを見届けた後、私は部屋を出て行く。


 いつもそのような形なので、一度挨拶すらも交わさず飲み物だけ飲んで帰ったことがあった。

 さすがにその翌週、彼はいつものように珈琲ではない何かを差し出しながら「もう来ないかと思った」と呟いた。

 その言葉から感じたほんの僅かな体温に、私の心は小さく揺れる。会話を拒否されているわけではないとわかったので、それ以降私から話しかけるようになった。


 彼は私の問いに対して、決して多くはない言葉で回答する。

 それは会話下手であるとかコミュニケーションが億劫であるというわけではなく、自らが発する言葉を大切に選んでいるからなのだろうと、次第に感じるようになった。



「――何故、私に声をかけたのですか」


 それは、逢瀬が始まって一ヶ月程が経過した日のことだった。

 私にとってずっと疑問だったことを問うと、彼はいつものように目を閉じる。そのまま、彼は暫く動かなかった。

 この部屋ではゆったりとした時間が流れている。それに慣れた私は、珈琲ではない何かを啜りながら待った。特に急ぐ必要などない。夜にはサークルの飲み会があると同期に声をかけられたが、既に幽霊部員である私には関係のないことだった。


 ふと、窓の外から木々がこすれ合うような音が鳴る。

 視線を向けると、窓ガラスに水滴が浮かんだ。静寂を割ったのは、雨音だったようだ。

 その瞬間、彼がゆっくりと瞼を開く。


「――『時雨しぐれ』」

「……しぐれ?」


 彼の瞳が私を捉える。やはりその色からは、温度が感じられなかった。


「時雨は晩秋から初冬にかけて降る、一時的な通り雨のことだ」

「……そうなんですか。知りませんでした」


 ふっと彼の視線が外れる。

 こうしてふたりで会話していても、目が合うことはそこまで多くない。

 彼の瞳はいつも行き先を求めて彷徨さまよっているようで、その定まらない様子が私にとっては心地良かった。


「知らなくとも、生きていくことはできる。あなたの目から見れば、あれはただの雨だ。しかし――知っている私の目には、あれは『時雨』として映る。言葉を知れば、世界が変わる」


 そこまで言って、彼は口をつぐむ。

 ぱたぱたぱたと水を弾く音が今更のようによみがえった。

 窓の外では何人かの学生達が鞄を頭に乗せ、雨を避けるように慌てて駆け出していく。「雨だ雨だ!」という声が硝子がらすを通り抜けてぼやりとした輪郭になり、室内に小さくこだました。


 彼らの目には、『時雨』はえない。

 ――そう、ここにいる私と同じように。


 紡ぐ言葉を見付けられずにもう一口飲み物を啜ろうとして、私はマグカップが空であることに気付く。

 私はどこかほっとして、机の上に空のマグカップを置いた。それが、逢瀬の終わる合図だ。


 ――少なくとも、これまでは。


 しかし、今日はいつもと様子が違った。

 彼の視線は、私の置いたマグカップに注がれている。その眼差しはマグカップを貫いて私の指をも机に縫い付けるようだった。


「――あなたを初めて見たのは、今年度の初回の講義の時だ」


 彼もマグカップを机に置く。私も彼のマグカップを見つめた。私のものと同じ色のマグカップには、黒い液体がまだ半分以上残っている。


「私は毎年多くの新入生に出逢う。大半は希望に満ちた表情をしている。怠惰な香りのする者も一部いる。しかし――あなたはそのいずれでもなかった」


 彼は小さく息を吸った。


「あなたは、ただまどっていた――帰り道を忘れたまよい子のように。その一方で、瞳の奥には強い意志の色が在る。私の目には、あなたはひどくアンバランスに映った。それ故に、興味を惹かれた」


 一息にそこまで言う。こんなに彼が話すのは、初めてのことだ。

 私はそれこそ惑いながら、思わず視線を上げる。

 その瞬間、はっきりと彼の眼差しに捉えられた。


「――あなたには、一体どんな世界が視えるのか。それが、知りたかった」


 そこで、彼の言葉が途切れる。

 鈍い雨の音だけが、私達の間を繋いでいた。

 まばたきを忘れて、見つめ合う。しかし、その時間は永くは続かなかった。

 私は白旗を揚げて彼に背中を向ける。これ以上見つめ合っていたら、恥ずかしさでおかしくなりそうだった。


 ――彼はあのほんの一瞬ひととき視線が合った中で、私という人間を見透かしてしまったのだ。居場所を見付けられず、寄るもなく彷徨っている存在だと。

 そんなことをわかっていながら、どんな世界が視えるかなんて――随分と意地の悪いことを訊く。



 視えないのだ。何も視えていないから、私はいまだにここにいる。



 そのまま部屋を出ようとする私に、彼が「傘を持って行きなさい。入口に緑色のものがあるだろう」と声をかけた。

 確かに入口の小さな傘立てには、傘が居心地悪そうに一本だけ刺さっている。

 ――その色を見た時、私の口から、言葉がこぼれ落ちた。


「――ビリジアン」


 瞬間、ふっと心が軽くなる。

 それは、絵を描かなくなって以来、思考の外に追いやってしまっていた単語だった。その青みがかったグリーンは、私にはたまらなく懐かしい色だ。

 子どもの頃、祖母に買ってもらった絵の具のセット、その中に一本だけあった聞き慣れない名前の色。


『なんでみどりがないの?』


 そう問う私に、絵を描くのが趣味だった祖母は穏やかな笑顔で答えた。


『未咲の思うみどりって、どんな色?』

『……はっぱの色』

『そう。未咲のみどりは、はっぱの色なのね。私のみどりは、すいかの色よ』

『えーっ、ちょっとちがう』

『そうね、ちょっとちがう。この世界には沢山のみどりがあるわね。ほとんどのみどりは、ここにある十二の色で作ることができるの。でも、ビリジアンは他の色と混ぜて作ることができない、特別な色』

『とくべつ?』

『そう、特別。ビリジアンは自然から生まれた色、選ばれた特別な色なのよ』


「――ビリジアン?」


 背後から響いた声に、振り返る。

 そこには、目をしばたたかせている彼がいた。私の発した言葉の意味が理解できていないようだ。

 私は視線を机の上のマグカップに向け、今度は意図的に言葉を発した。


「バーミリオン」

 

 そのまま、私は彼を見ずに部屋を飛び出す。


 雨の世界に足を踏み入れ、借りた傘を差した。強くなった雨は、刻一刻とビリジアンの色を濃くしていく。周囲から人の気配は既になくなっていた。

 リズミカルに跳ねる雨音の中で、私は傘をそっと傾け、目を凝らす。私にはどうしてもそれはただの雨にしか見えない。


 ふと足を止め、研究室の方を振り返ると、彼はこちらを――いや、私ではなく『時雨』を眺めている。

 私達の視線はいつも絶妙に交わらない。

 私の世界には、彼と雨とビリジアンの傘を差す私がいて。

 彼の世界には、『時雨』とそれを見つめる彼しか存在しない。


 ――そう、私達は、それぞれ違う世界の入口に立っている。

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