龍と風船

芳岡 海

内側の白い龍

 墨入れるならやっぱ龍、という世界一安易な理由で琉は肩に龍のタトゥーを入れた。名前がリュウだからかと思ったけど、違うらしかった。琉は自分の名前の響きよりも、どちらかといえば漢字を気に入っている。

 彼の名前のリュウは「琉」で、あたしはそれを「流れる、のさんずいではなく王と書く琉」と覚えた。あとで何かのときに「琉球の琉です」って説明してるのを聞いて、なるほどそっちがわかりやすいかもと思った。でも沖縄出身でもないのに琉球なんて漢字、すぐ書けない。


 肩の前でも後ろでもなく、側面。予防注射されるあたりだ。琉の肩にはあたしの手のひらに納まるくらいの龍がいる。肩の上の方から身体をしなやかにくねらせて、鼻先を琉の肘に向けている。

 琉が龍だっていうからそう呼んでるけど、あたしはドラゴンなんじゃないかと思ってる。小さな羽もあるし、絵柄も、リアルでもなく和風でもない。どことなくポップなのだ。顔だって牙を剥き出したりせずにふにゃりと大人しく口を閉じていて、琉の肩でゆらゆら漂っている。

 そして白色の一色の線だけで描かれている。


 その白いタトゥーが琉には似合っていた。

 琉の肌はもともと色が白い。半袖焼けやタンクトップの日焼け跡もない。日に焼けても鼻の頭や頬の高いところが赤くなって皮が剥けて、それで終わってしまうのだ。

 ただ今年の夏に海に行ったときは、ヒリヒリするの嫌だから、と言ってあたしの日焼け止めを借りた。背中を塗るのはあたしに頼んできた。背中も白くて、意外と広かった。琉がタトゥーを入れたのは、その夏の後だ。


 白色の龍は、触れてみるとたしかに刺青だってわかる。

 目立たない色だけどちょっとこすったくらいでは絶対に消えそうにない。肌から浮かび上がって光るような真っ白ではなくて、少しクリーム色がかって肌に馴染んでいる。古い傷痕のようにも見えた。

 琉がタトゥーを入れるならきっとこういうのだって、最初から納得だったような気がした。


 琉が左肩にそのタトゥーを入れてから、今まであたしは琉の左隣にいることが多かったのだと気づいた。何気なく琉の隣にいるときにふと、自分のすぐ右隣にあるタトゥーの存在を意識した。

 琉がそれを考えて左肩にしたわけじゃないと思う。あたしがこんなふうにその左肩の龍を撫でたり眺めたり「前より色が薄くなった気がする」とか、逆に「前より濃くなってない?」なんて言うことを、琉も意外そうにしていたから。

 それともよく左隣にいたからこそ、左肩にいるこの龍が可愛く思えるんだろうか。

 そう、琉の左肩の龍があたしには可愛くて仕方なかった。


 オロナイン塗っとくといいらしい。

 タトゥーを入れて帰ってきた日、琉は駅の高架下に入っているサカキ薬局のビニール袋を提げて帰ってきた。十一gのチューブのオロナイン。ついでにレモンの缶チューハイ二本。

「見て」

「なに?」

 琉はビニール袋をごとりと床に置くと自分もその場に座り込み、缶チューハイの方を見ていたあたしに言った。

「刺青入れたよ」

 着ていたパーカーをすぽっと片腕だけ脱いで、Tシャツの袖を捲る。袖口からちょっと覗かせるようにして生まれたての龍をあたしに見せた。まるで道端で拾った小鳥のヒナを胸ポケットからそっと見せる仕草みたいだった。

 思わず、わ、と口をついて出る。入れたてのタトゥーはほとんどただの傷だった。周りが赤くなって、その上から白いラインがくっきり浮き上がって痛々しかった。テーピングかなにかの跡も残っていた。こわごわ手を近づけたけど直接触る気にはなれず、指先で一番外側を縁取るように琉の二の腕に触れた。彼の二の腕をそんなふうにして触ったのは初めてだったと思った。

 あたしがおそるおそるなのに対して琉はそこまで慎重ではなく、あたしに見せたあとは袖をぐいっと捲り上げた。腕を上げたり体をひねったりしてタトゥーをよく見ようとしていたが、思ったような角度からは見えなかったらしく、最終的に部屋に置かれた姿見の前に移動した。

「そうやって袖捲ると、ちょっとマッチョに見えるね」

 鏡を覗き込む琉に横からあたしが言うと

「ほんと。ついでに鍛えようかな」

 なんて言う。でも琉が部屋で腕立て伏せをしたり、ましてやジムに行ったりなんて、賭けてもいいけど絶対しないと思うね。

 琉は鍛えた人がするみたいに鏡の前で二の腕に力を込めた。それからちょっと腕の角度を変えたり肩を上げたりして、そのどれかのポーズで納得したのか鏡越しにスマホのカメラを向けた。

「撮ってあげよっか」

 声をかけると、いいよそんな、と琉は画面に集中したまま答える。一枚撮ってみると鏡の汚れが写り込みすぎてて「きったな」と呟いた。自分でも驚くことにあたしはそれを見て立ち上がり、ティッシュを一枚キッチンの蛇口で濡らしてきて、鏡を拭いてやった。琉の左肩の龍のために何かしてやりたくなっていたのだ。鏡には拭き跡がまあまあ残ったけど、もう一度撮ったのを見るとさっきよりはっきりと明瞭に写った。


 定着するまでオロナイン塗ってね、と言われていたらしいのに琉はそれをめんどうくさがり、それもあたしを喜ばせた。お風呂上がりの琉の左肩に、オロナインを塗るのはあたしの役目になった。

 蒸気とボディーソープの匂いのする琉が、あたしに左肩を明け渡す。右手はスマホを弄るか、肩にかけたタオルで頭を拭くか、そうでなければ軟膏を塗られるところを黙って見ている。

 塗ったら傷が治って消えちゃうんじゃない、とあたしが言うと「綺麗に治ることで綺麗に定着するんだと思う」と、めんどうくさがったわりに琉は答えてくれて、立派にそう答えるわりにやはりめんどうくさがった。


 痛々しかった赤みはほどなくして引いた。白い線がうっすら盛り上がって残り、それが剝がれ始めたことでかさぶたになっていたことがわかった。かさぶたまで取れてしまうと、左肩の龍は触っても完全に皮膚の一部になっていて、見た目の他にはわからなくなっていた。そういう変化を観察して、琉と共有できるのは嬉しかった。

 タトゥー、この龍で良かったね。あたしが言うと「別に何でも良かったけど」と言い、他にも入れるのと聞くと「これだけでいい」と言った。

 白いタトゥーは琉に似合っていた。


 何しろ入れたのが秋だったから、龍の姿を見るのは部屋の中でばかりだった。

 まあ二人とも出不精で、一年近く一緒にいてもレジャーらしいレジャーは夏の海くらいだけど。海はあたしがどうしても行きたがって付き合わせた。夏は夏だ。

 たまにどっちかを駅まで迎えに行って、夜ご飯の買い物をして帰るときなんかに龍のことを意識する。

 琉はバイト帰りでも家からあたしを迎えに来てくれるときでも、たいていパーカーを着てる。寒くなってからはその上に黒いダウンだ。

 駅の人並みの中、琉が券売機の前に立っている。大体下を向いて携帯を弄っている。前髪が落ちて目元が隠れている。片手はポケット。毎日一緒にいると、顔を見ても「会いたかったよ」とか「お待たせ」なんてないし、「じゃ、行くか」なんていう程度の合流。

 そうやって歩き出したときにふと、琉の左肩にいる龍を意識する。この世で彼の龍のことはあたししか知らないんじゃないかって気分になる。本当にそうかは知らないし、たぶんそんなことはないはずだけど。寒い。琉が肩をすぼめて呟く。もうマフラーないと寒いよ。あたしが答える。毎日一緒にいるもんで、どうしても会話は天気や季節の話題になる。琉は寒がり。


「今日着替えてたとき、遂に先輩が一人、刺青気づいた」

 バイト帰りの琉が言った。気づかれて嬉しかったのか焦ったのか、というよりも窓の外に来る鳥にでも気づいたみたいな言い方だ。

「なんか言われた?」

「目立たねーなって言われた」

 それもいい意味なのか悪い意味なのかわからない。きっと琉もどっちつかずのまま言っている。白黒つけたくないのだ。

 平和主義者の皮をかぶっためんどうくさがり。そのあまりにどっちつかずな態度で、いつか先輩にキレられたことがあったらしいけど、それくらいじゃ琉に刻み込まれた態度は変わらないだろう。琉は自分でその気にならないと動かない。頑固といえば頑固なのかもしれない。その気になったら墨だって入れるけど。


 ぶかっとしたダウンの上から琉の腕に触れる。ぶ厚い服の生地の向こうに、琉の肘や二の腕の骨ばったところを感じる。そこを漂う白色の龍を撫でたいと思う。


 また電気つけっぱなしで寝落ちしてしまった。光熱費高騰してんのにさ、と他人事のように思ってから、琉がテレビだけ消してくれたんだと気づいた。

 クッションを枕にして寝ていた。一緒にテレビを見ていた琉はいつの間にかベッド。見ると両手で枕を抱え、うつ伏せになった背中が毛布の中ですやすや上下している。テレビの前のローテーブルに缶チューハイの空き缶。さっきまで観ていた歌番組の騒がしさがまだ部屋に残っている気がする。日付が変わるカウントダウンをして、二人で乾杯して、それからもう六時間も経っているのか。

 そこまで思って、あ、と気づいた。

「琉、初日の出見よう」

 うつ伏せの背中を叩いて言った。起きそうにないから、狭いシングルのベッドにあたしも上がって背中を揺すった。狭いっていっても、もともとあたしのベッドだ。ここのワンルームに転がり込んできたのは琉。

 何度か揺さぶると琉は一応目を覚ました。一瞬顔を上げて、起きたくなさそうに枕に顔を押し付ける。寝息とは違う琉の息遣いが聞こえて、あたしは起きている琉の存在を感じる。

「初日の出見ようってば」

 ぼさぼさの頭を撫でて言った。黒くて少し癖のある琉の髪が指を通る。ベランダの向こうで空は見事なグラデーションになっていた。


 窓を開けたら「さむっ」ってなって、二人とも一回上着取りに戻ってからベランダに出た。上着を着てもスウェットと靴下の隙間から入る空気が冷たい。

「日の出って何時なの?」

「わかんない。でももうすぐじゃない」

 話すと息が白かった。

 キンキンに冷えていたベランダの手すりを、スウェットの袖を指先まで伸ばした上からつかむ。

 藍色の空の裾が濃いオレンジ色になっていた。反対側の空はまだまだ夜中だった。道路の向かいに並ぶアパートと三階建ての一軒家がシルエットになっている。あの家の人たちはみんなまだ深い眠りの中だろう。

 日の出までは実際結構あった。琉は途中で電気ケトルでお湯を沸かして、焼酎のお湯割りを持ってきた。あたしは煙草を三本吸った。

 たぶんあたしも琉も、初日の出ってことで富士山の頂上のご来光みたいなのを想像してたはずなんだけど、こんな住宅地のアパートの二階から見える日の出はちょっと違った。

 まず建物に隠れて太陽はなかなか見えない。その前に空が明るくなってしまう。もはやただの曇りの昼間くらいになった外を見ながら、もしかして別の方角見てた? 日の出終わった? って不安になり始めた頃にようやくだった。


 ぴんと高音を鳴らす細い糸のように光が張り詰めて、一直線にあたしと琉をさした。白い空に、オレンジの光がひたひたと景色を塗りかえていく。南向きのベランダの左側から。琉はあたしの右隣にいた。

 色の白い琉の顔がオレンジ色の陰影でくっきりしていた。眩しそうに細める目が光を通して茶色く透ける。部屋着のスウェットの上に黒いダウンを羽織って、手すりに肘をついて琉は日を眺めている。慣れたのかお湯割りのおかげか、寒そうにはしていなかった。

 ごそごそしたダウンの上から琉の腕を掴んだ。

 それから思い立って、ちょっと腕出して、と言った。

「なんで。寒い」

 急にダウンを脱がされようとする琉は不服そう。

「タトゥーの龍にも初日の出見せてあげよう」

「なんでよ」

 琉が声をあげて笑った。それでもあたしの言う通りにダウンとその下のスウェットの片腕を脱ぎ、Tシャツの袖を捲った。

 左肩の白い龍にオレンジ色の日があたった。

 龍に日の光が直接あたるのをたぶん初めて見た。

 あたしがずっと琉の左隣にいれば、琉の左肩は日陰になって龍はずっと白いままだろうか。琉の肩を、上の少しだけ筋肉質なところから二の腕のまっすぐな骨、そして肘の骨の出っ張りまで感触を確かめるように撫で、そこに漂う龍を撫でた。

 琉は黙っていたけど、二の腕は外の空気で鳥肌が立っていた。あたしの方がたまらなくなって、「寒そう」とその腕をごしごしさする。そりゃ寒いよと、琉は肩をすぼめてまた笑う。最初に赤く浮かび上がっていた痛々しい龍を思い出した。きっと痛かっただろうなと思った。今、白い龍は肌の内側に大人しく身を潜め、さらさらした琉の肌の感触しかなかった。

 白い肌の上で白い刺青は違う光のあたり方をしていた。琉の皮膚の内側から透かして見えているようだった。龍そのものが透けてるみたいだ。

 白い龍。ふにゃりと口を閉じた顔は全然恐くなくて、目立つ気もなく周りと馴染んでいる。あたしの心を軽くしてくれる。そして簡単に消えたりしない頑固さもある。最初に会ったときの琉みたい。飲み会の席で全然喋っていないで、それなのにずっと楽しそうに笑ってて、飲まされようとすると断るけど、よく見たら自分で飲むスピードはかなり早かった。話しかけたら、あたしに向かってふわっと笑った。

「部屋戻ろう」

 スウェットとダウンに再び袖を通した琉が言った。建物の上から物々しく出てきた太陽はすっかり昇りきって、いつもの通りの朝の明るさだった。

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