第12話 Bridge Over Troubled Water

 電話で心臓をやぶられるのはこれが何度目だろう。

 

 僕はすぐに「分かりました」と返事をして電話を切った。見上げると、エレベーターの階を示すランプがちょうど到着を知らせていた。

 僕は慌てて賢一を振り返る。

 

「夏香のおばさんからだった。病院に運ばれたって」 

「病院?」到着した誰もいないエレベーターに、ふたりで慌てて駆け込んだ。「軽いインフルなんじゃ」

「そのはず。でもなんか、吐いたって……」

 

 僕は震える唇でそう伝えながら、一階のボタンを何度も連打した。

 ドアが閉まり、一度は動き出したエレベーターが、すぐ下の階で止まる。僕は思わず「くそっ!」と叫び、床を蹴った。

 乗り込もうとしていたベビーカーの親子に驚かれて我にかえったが、賢一が「落ち着け」と肩を掴むまで、焦りと恐怖とで心臓が破裂しそうなほど鳴っていることに気づかなかった。

 

 どういうことだよ。本当に、ただのインフルだって、元気そうだったし、でも、吐いたって、それは──

 

 背中に氷の杭を差し込まれたみたいだった。ベッドの上で嘔吐し、気を失っている夏香を想像して、息を思い切り吸いこんだ。そのまま吐けなくなり、歯を食いしばって天井を見上げる。

 僕の行動を奇異の目で見る他の客に、賢一が丁寧に謝っている。その間も、僕は賢一に肩をかかえられたままだった。そうでなければ座り込んでしまいそうだった。

 

 賢一は僕の身体を揺さぶりながら「病院の場所は?」と言った。

 

「聞いた。階段から落ちたときのあの病院」僕はちいさな声で答えた。

「わかった。あとから追うから、お前は先にチャリで向かえ」

「賢一は……」

「俺は村山に電話してから追いかける」そう言いながら賢一はスマホを取り出し、LINEの画面を開く。「うわ、でもあいつ、選抜の練習あるって言ってたかも知れない。なんとか剣道部のとこに直接行けそうな奴に連絡とるわ」

 

 僕は髪を手でぐしゃりと掴みながらうつむいて、「頼む」と伝えた。自分でも引くほど情けない声だった。

 

 賢一を館内に残して外に飛び出し、駐輪場にとめてあった自転車の前かごにチョコのバケツを放りこんだ。

 そのまま跨いで漕ぎ出そうとして、鍵でタイヤが動かずつんのめり、泣きそうになりながらポケットに入れた自転車の鍵を探した。

 たったこれだけのことで、今までに覚えがないほど動揺していた。


 鍵のあいた自転車を漕ぎ出し、病院のある南側へまっすぐくだった。モールから駅までは五分とかからない。全力疾走だったらもっと短い。

 尻をサドルから浮かせて力任せに漕いだ。最短距離を一直線に。

 

 ──行かなくちゃいけない。

 たとえ君の隣にいても許される日々が、すでに終わってしまっていても。

 

 病院に到着するやいなや、僕は自転車を駐輪場の壁に立てかけて中に入った。窓口で場所をたずね、階段を三段飛ばしでかけあがる。

 病院らしい真っ白で明るい廊下で、隅のベンチに腰かけていた夏香の両親に、挨拶よりも真っ先に「夏香は」と声をかける。

 一度も休まずに走ってきたせいで息がすっかりあがっている。

 

 うつむいている母親に代わり、眉をひそめて動かない父親から事情を聞く。

 

「昼間なんだけどな、夏香が急に吐いて気を失ったんだ。救急車でここまで来て、今はそこで診てもらってるところだ」

 

 彼は目の前のドアを目線で示した。無言のままぴたりと閉められたドアの向こうからは、何も聴こえない。

 全身の血液が一瞬でプールの水に変わったような感覚だった。カルキが入った水が脳髄を犯し、倒れそうになったのをこらえて「原因は」と聞いた。

 

「インフルが悪化したとか」

「それが分からないって言われたんだよ」彼はいらついたように吐き捨てた。「頭部外傷の既往歴と嘔吐が重なったから、脳出血の前兆じゃないかと言われていて。だけど、症状が似ているのにCTの結果を見ると違うらしい」

 

「そんな」僕は声が震えるのを止められなかった。「だって、インフル陽性だって言ってたのに、そこから脳がどうとかって……」

「インフルって一応人を殺せるウイルスらしいぞ。さっきネットで見た」

 

 背後から突然別の声が響き、僕は「うわっ」と大きな声をあげてしまう。

 

 すぐ後ろに立っていたのは息があがった賢一で、髪がすっかりぼさぼさになっていた。

 彼は一連の会話を聞いていたようで、腰に手をあててふうとため息をついた。

 

「村山はやっぱ部活中っぽいから、学校に残ってた奴が道場に知らせに行ってくれることになった。それより、まさかインフルひとつでこんなことになるなんて」

「病名は分からないけど」夏香の父親がさらに説明を重ねる。「血液検査が終わったら集中治療室に移動するらしい。そのあいだに少し面会ができるかも知れないから、ここで待とう」

 

 彼はベンチに座りなおして沈黙した。

 ふたたび静かになってようやく、僕は自分の手の震えに気がついた。心臓が暴れて、視界がぼんやりする。

 

 なぜだ。

 なぜ、どうして? どうして夏香が何度もこんな目に遭うんだ?

 記憶喪失の次は原因不明の病気かよ。彼女が何をしたっていうんだ。何も悪いことなんてしてないだろう。

 ただ必死に生きて、記憶喪失になってもまっすぐに生きて、泣きたいのを我慢しながら一生懸命走ってるじゃないか。

 どうしてあんなに強くていい子がこんな仕打ちを受けなきゃならないんだ。むしろ僕が受けるべき罰だろう。どうして僕が肩代わりできないんだ。理不尽すぎる。

 すばらしい未来のために必要な犠牲だとでも言うのか。そんな未来のどこがすばらしいのか。

 その犠牲の末に手に入れた未来を僕に生きろと言うのか。

 

 何より、苦しんでいる夏香がうわごとで僕の名前を呼んでいたと考えると、そのときそばにいてやれなかった自分に腹がたった。憎らしかった。

 

 ちくしょう、夏香をかえせ、もといたしあわせな場所へかえしやがれ!

 

 奥歯がぎりりと鳴る音は、脳天をノコギリでけずられるほど不快だった。僕の肩に乗せられた賢一の手が「冷静になれ」と語っていた。

 だけど、何も分からなかった。彼女の両親も、賢一も、もちろん僕も、夏香が今戦っている病魔の流れ弾を受けとめて傷ついていた。

 

 僕らは立ったまま壁に背をあずけ、ひらかないドアをひたすら見つめた。誰も出てこないそれを、目を閉じることで拒絶し、代わりに病院の窓から外を見あげた。

 さっき見たときと変わらない青空なのに、ずっとずっと曇って見えた。空が落っこちてきたら、僕は真っ先に夏香をかかえて逃げ出すのに。

 

 そうして時間が過ぎてゆく苦痛に耐えていると、ドアのむこうから担当医が出てきた。二ヶ月前、記憶喪失になった夏香を看た脳外科医も一緒だった。

 僕の混乱を黙らせる白衣をまとった彼らの姿をみとめると、にわかに僕の背筋が伸びた。

 そして、医者の口からすべての検査の終了が告げられる。

 

「やはり脳に出血は見られません。血圧も正常で、本人の意識も戻りました」

 

 最後の言葉だけが理解できて、その場に座り込みそうになった。

 あれこれと病状を解説されたが、僕にはほとんど理解できなかった。

 

「片岡夏香さんは先月、頭部に外傷を受けて記憶障害を起こしていますね」「関連している可能性は捨てきれません」「記憶喪失は脳の損傷ですから、何らかの合併症が出てもおかしくありません」「さらに詳しい検査と治療を行いますので、これから脳外科の集中治療室にお嬢さんを移送します」

 

 脳の中であらゆる仮説や結果が、大量のピンポン玉のように飛び交い、エラーを起こしかけていた。

 僕は額を片手の平で押さえた。


 映画じゃない、現実で起きていることなのに、物語じみた言葉と空気が理解できなかった。

 後遺症が残るのか、半身不随になるのか、また記憶をなくすのか、死ぬのか……。

 

 集中治療室、という言葉は映画でこそ何度も聞いたことがあるが、生で、現役の医者の口から聞いたのはこれが初めてだ。

 聞き慣れたはずなのにずしんと重みがあり、緊迫感を一気に耳穴へ流しこむその言葉に、僕は貧血になりそうだった。数人の医者が集まって夏香の命を救うために尽力する光景を思い描いてしまう。

 

 そうしなければ生きられない。彼女は今、そんな場面に立っている。

 

 治療室に運ばれる前、少しだけ面会を許された。僕らは検査室のドアをあけた医者に案内され、ベッドで横たわっている夏香と対面した。

 残酷な、ギリギリで生きている人間を見ているような気分で、僕はベッドに一歩ずつ近づいた。

 

 夏香の顔は血の気を失い、陶器のようになっていた。傍目には眠っているようだったが、衰弱しているように見えた。

 僕らの気配に気づくとすぐに瞼がひらいた。意識がある。それを見て僕はまた、全身の力が抜けそうになる。

 ベッドのまわりには点滴がぶらさがり、それらが夏香の腕とつながっていた。夏香の悲鳴を代弁しているように見えた。

 

 生きているというより、生かされている。

 階段から落ちたあの日から今日まで。

 

 夏香の両親が声をかけると、夏香がゆっくりと返事をした。まだ夢見心地の、ぼんやりした表情。

 ふたりは「夏香、大丈夫、すぐに元気になるから」と彼女の手をにぎってはげましている。

 夏香はその呼びかけに「うん」「平気だよ」「痛くない」とちいさな声で答えている。


 賢一が声をかけても笑って受け答えしていた。つらそうに眉をひそめてはいたが、痙攣はおさまっているらしい、落ちついていた。

 

 僕は両親と賢一が夏香をはげましているのを、少し離れたところで見ていた。だが、やがて夏香が「彰」と小さくつぶやいた。賢一がふりむき「こっちへ来い」と目線でうながす。

 僕は、行ってもいいんだろうか、という怖さで思うようにすんなり動けず、ゆっくりとベッドの脇まで歩いていった。スリッパの底が床と擦れる音が大きく響く。

 ベッドが近づくごと、夏香が枕の上で首を倒して僕を見ているのがわかる。

 

 その穏やかな表情を見て、急に怖くなった。

 すぐにでも手を伸ばして、そこにいるか確かめたかった。

 

 ここにいる夏香は、僕と同じ時間を過ごした恋人であり、僕の元恋人でもあり、村山の現彼女であり、賢一や瞳の友人だ。

 そして同時にそのどれでもない、ただここにいる「片岡夏香」という名前の女の子だ。

 僕の知らない夏香。知っている夏香。そのどれもが真実で、ただの夢で、ただの夏香で。

 

 その女の子とずっと一緒にいたなんて、奇跡だ。

 

 僕はベッドの脇にしゃがみ、「夏香」と声をかけた。

 

「夏香、俺はここにいるよ」

 

 彼女は僕を見て、ゆっくりとほほ笑んだ。半開きの瞳が細められる。

 ついこのあいだまで元気いっぱいで、今の姿からは想像もつかないほど明るかったのに。

 

 僕は布団の中から、点滴の針が刺さった彼女の左手をとり、両手でにぎった。どこまで強くにぎればいいのか分からず、優しく、そっと。

 ぐったりと力の抜けたそれは、重く、命がまだそこにあることを示していた。

 

「来週から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の三作目が上映されるから」

 

 小さい子に話しかけるような声で言う。「早く治して、一緒に行こうよ」

 

 笑いかけてあげた。つもりだった。うまくできた気がしなかった。

 

 三作目は、主人公のマーティが親友のドクを西部開拓時代に残し、元いた時代へ帰る物語だ、ということを思い出したからだ。

 

 一度、夏香はわずかに目を見開いた。そして、ほっとしたように微笑んで、そっと目を閉じた。長いまつ毛が頬に影を落とす。

 一瞬、彼女の姿が透けてしまう気がして、彼女の左手を握っていないほうの手で頭を優しく撫でてやった。

 大好きな彼女の髪は、ここ数日の闘病期間ですっかり痛み、からまっていた。

 

 僕は夏香の手を強くにぎった。

 かえってこい、という願いを込めて。

 

 しばらく目を伏せていた夏香だったが、やがてちいさな声で「ごめんね」とつぶやいた。

 

「一緒にいられなくて」

 

 おそれるように震える、彼女のちいさな唇。

 

「そんなこと」僕ははじかれたように顔をあげる。


「謝るなよ、夏香。大丈夫だよ。何もかもうまくいくよ。俺がいるから。だから笑っていてくれ。俺のいる世界から消えたりしないで。ずっと一緒にいようって言ったじゃないか。

 退院したら、映画を見に行こうよ。春になったらお花見も行こう。夏休みには旅行して、海へ泳ぎに行こう。秋は一緒に勉強して、頑張って受験を乗り越えよう。次のクリスマスには、夏香に指輪を買ってあげる。もちろんおそろいだ。

 大学に進学したら、ふたりで勉強しながら一緒に暮らそう。社会人になったら、結婚しよう。俺たち、新しい家族になるんだ。

 一生しあわせにする。もう二度と、君に悲しい思いはさせない。

 君がくじけそうになったら、ずっとそばで励ましてあげる。理不尽な目にあったら、俺の一生分の幸福を全部君にさしだしてもいい。何かを頑張るなら、俺はどこまでも味方する。

 だから、大丈夫なんだ。全部全部、大丈夫だ。

 安心して、これから君はずっとしあわせな人生を送れるんだ。俺にまかせて、俺が必ず……」

 

 何ひとつ叶えてやれない僕は、世界でただひとり、片岡夏香だけを愛した。

 

 僕は笑った。せいいっぱい、笑った。笑いながら、泣いていた。勝手に涙がせきをきってあふれてきた。嗚咽を止められなかった。

 夏香の手を引き寄せて、額に押し付けた。涙がシーツの上に落ちて、溶けてゆく。

 

 僕の震える手を、夏香がほんの少し、弱々しい力で僕の手をにぎりかえした。

 ちいさくてあたたかい、夏香の手。こわれもののような手。

 

 離したくなかった。

 離してしまえば、もう、戻らないと思った。

 

 僕は顔をあげて、つかんだ夏香の手の甲を優しく撫でた。

 彼女が安心するように。不安なく眠れるように。あるいは、眠らずにいてくれるように。

 

「夏香をまた好きになることができて、うれしかったよ」

 

 そうつぶやいたとたんに、夏香の目から涙がこぼれた。

 細く頬を伝う涙を、僕はしゃくりあげて泣きながら指でぬぐった。夏香の頬は冷たく、肌が乾燥していた。

 

 泣いているのに、彼女の表情はおだやかだった。苦しみも、恐怖も、何もない。ただただ優しい笑顔。

 過去からやってきたような子。僕が愛した子。強くて、優しくて、友達思いで、だけど少し怖がりで、少し変わっていて、たまに甘える女の子。

 僕を本気で怒ってくれた、いつも僕と正面から向き合ってくれた子。

 

 離れてしまってから気がついた、自分の愚かさ。情けなさ。不甲斐なさ。それらとまた対峙することができた、夏香との二度目の恋。

 向き合って、また苦しんで、それでも自分の気持ちが耐えられなくて、ようやく理解できた自分の本心。

 

 ほんの少しだけ戻ってきた甘い日々。つかの間ふさがった傷。

 再び訪れるであろう日々が怖かった。だけど、あらがえなかった。

 

「夏香」

 

 僕の呼びかけに、夏香が一度だけまばたきをした。そして、さらに強く、だけど弱い力で僕の手をにぎりかえした。

 ひび割れた唇がかすれた声を出す。

 

「あきら」

 

 名前を呼ばれた。呼んでくれた。

 僕は彼女の手を両手でにぎりしめて、もう一度「夏香」と呼んだ。

 

 雪が空へ舞ってゆく。

 

 どうすればそれを、たった一粒でもいいから、僕の手で引きとめられるのか。

 

 消えていってほしくない。僕のそばでずっと笑っていてほしい。

 

 やっと君に僕の気持ちが伝わったのに。

 やっと君の痛みがわかるようになったのに。

 

「彰、私ね、そんな彰のことが大好きなの」

 

 夢のような笑顔と、デジャ・ヴュ。

 

「優しい、優しい、彰」

 

 ゆっくり、ゆっくりと言葉をつむぐ。

 

「だから好きになったの。わかった?」

 

 困ったように笑って、指先で僕の手をとんとんと叩く。

 僕は涙で汚れているだろう顔をあげた。

 何もわからなかった。夏香を助けることもできないのに、素直にそう思えなかった。


 だけど、僕は何度も頷いた。何度も、何度も。彼女がそう思ってくれたことを、守りたいと思った。

 

 夏香がそう言ってくれることが嬉しかった。

 

 難しいと知ってるのに、優しくありたいと思った。

 

 彼女が僕を優しい人だと言うのなら、僕はそうなりたいと思った。

 

 だから、何度も、何度も頷いた。

 

「彰の彼女になれてよかった。好きでいてくれてありがとう。しあわせだったよ。この思い出は宝物だよ。この思い出だけは、私を裏切らないから」

 

 まるで、悲しいハッピーエンドだと夏香が話していた、運命に引き裂かれた王女と新聞記者のように言う。

 

「どうかその優しい愛を、いつか将来を誓う女の子のために大切にとっておいて。しあわせになってね」

 

 僕は彼女の手をつかんで、手の甲にキスをした。

 

 ずっと、涙を止められなかった。

 

 おだやかに笑う夏香が、流れ続ける僕の涙を、指を伸ばして受け止めてくれた。


 


 ────さようなら、彰。



 

 深い眠りに落ちた夏香を、誰も止めなかった。

 彼女を乗せたストレッチャーが廊下へ押し出されてゆくのを、僕は立ちつくして見ていた。

 

 異常がないまま、快復すれば一般病棟にすぐ戻ってくる。その医者の言葉を信じた。

 だけど、僕はいつまでもその場に立ったままでいた。消えてしまった幻を前に、網膜に残像を焼きつけようとして。

 

 彼女の輪郭を、少しでも覚えていられるように。

 

 廊下を進むストレッチャーを見送っていると、背後から凄まじい速さの足音が聞こえた。

 振り返ると、剣道の袴を着たままの村山が、こちらを目がけて廊下を走ってきていた。彼はそのまま僕の横を全速力で駆け抜けていった。僕のことなど見ていなかった。

 

 彼は髪を乱したまま夏香のストレッチャーに駆け寄ると、必死の形相で「夏香!」と名前を呼んだ。

 ガードを掴んで手を伸ばす彼を、看護師が止めていた。僕はそれを、少し離れたところから見ていた。

 

「夏香、なんでだよ! なあ! 目を覚ましてくれ!」

 

 村山の悲痛な叫び声が、真っ白な廊下に響く。引き剥がそうとする看護師の声に、村上が揺らしたストレッチャーの金属音が重なる。

 看護師に宥められて夏香から離れた村山は、項垂れたまま頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。

 

 彼の横をストレッチャーが通り過ぎたとき、村山が顔をあげて、怒りの形相で僕を睨みつけた。

 そして動物じみた俊敏さで立ち上がると、袴の裾を翻しながら僕の目の前まで走ってきた。

 肩を掴まれ、揺さぶられる。

 

「どういうことだよ、立浪!」

 

 初めて聞く、残酷なまでに掠れた村山の声。

 

「お前がいるから夏香は大丈夫だと思ってたのに!!」

 

 折れるほど肩を掴まれて、唾が顔に飛ぶほど目の前でがなりたてられて、それでも僕は呆然としたまま、何も言えなかった。

 赤く充血した彼の目を、力なく見返すことしかできなかった。

 

 僕は黙って、ただ、泣くのを耐えていた。村山の前で泣くのは失礼だと思ったからだ。

 やがて村山の目から一筋の涙があふれ、頬を伝った。冗談かと思うほど顔をぐしゃりと歪ませた彼は、俯いて、僕の肩から腕へ手を滑らせながらしゃがみこんだ。

 看護師が駆けつけ、「お静かに」と囁いていった。

 

 静かに嗚咽を繰り返す彼は、やがて尻を床におろして、両手で頭を抱えた。何度も鼻をすすりあげながら、ガラスに亀裂が入るようなちいさな声で泣いていた。

 賢一が村山の肩を手で叩きながら、「きっと無事だ、あんなにいい子じゃないか」と言った。

 僕はすぐに目をそらした。賢一も泣きだしそうだったからだ。

 

 村山の背後で、夏香を飲みこんだ治療室のドアが、世界を区切るような硬質の音を立てて閉じられた。



   ・ ・ ・



 聖ヴァレンティヌスの骸骨がローマにある。 

 それは中学の時、夏香から聞いた話だった。バレンタインデーの由来になった聖人のことだ。

 

 中学二年の、初めてバレンタインを迎えた時のことだった。「ローマの休日」で、真実の口の中に手を入れる有名なシーンをさして、「この真実の口のすぐ右横が教会に繋がってるの。そこの祭壇に骸骨がどんって置かれてるらしくて」と言われ、ネットの画像を見せてもらった時は驚いた。

 あのシーンが撮影された数メートル横に人骨が飾られているという衝撃と、楽しいイベントの元になった人の人骨を誰にでも見られる場所に置くというイタリア人の理解しがたさとで、アジア人は何を呑気にチョコなんか買ってるのか、と愕然とした。

 

 博識な夏香が教えてくれた、バレンタインの怖い話。僕は夏香のために買ったバケツチョコを持って、ふたたび片岡家をおとずれた。

 手に持った紙袋を見て、骸骨の話を思いかえしていた。そんな些細なことをふと思い出すくらいには、僕は夏香との会話をいつまでも覚えているし、映画と彼女と僕を三角形につないでさまざまな知識を身につけていた。

 

「これは冷蔵庫に。あと、少しでいいので、夏香の部屋のDVDの棚を見てもいいですか」

 

 僕は玄関で出迎えてくれた夏香の母親にそう伝えた。彼女はチョコを受け取ると、すんなり中にあげてくれた。

 僕は夏香の部屋のドアを開けて、誰もいない室内をかるく見渡した。いつもなら、中央のローテーブルで映画を見ていたり、鏡で身だしなみを整えているところだったりして、僕を見ると笑顔で出迎えてくれたのに。

 夏香がいない夏香の部屋で、僕は窓から入る冬の日差しに目を細めた。

 

 例えネットで配信されていても、特に大好きな映画はDVDやブルーレイを買っていた夏香。

 そのお気に入りたちがきちんと居住まいを正して、僕の腰と同じくらいの高さの三段の棚におさまっている。

 

 どういう順番で並べられているのか、まったくわからなかった。タイトル順でも、監督順でもない。

 好きな作品順か、そのとき戻しやすい場所に戻した順だろうと思った。夏香が手に取りやすい上段に、彼女の好きなクリント・イーストウッドとリドリー・スコットの監督作が集められているからだ。

 だが、モニターに最も近くて取りやすいであろう左上の一番端に、僕があげた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のDVDがあった。

 

 僕はそのとき、一作目の隣に第二作目と第三作目のDVDが並んでいることに、初めて気づいた。おそらく、僕が買った一作目から続けて夏香が買い足したのだろう。

 それを見てまたすこし、涙ぐんでしまいそうになる。

 僕は一作目のDVDを手に取り、そして、一瞬ためらった。が、ごめんなさい、と内心夏香に謝りながら、ケースをひらいた。

 

 右側にディスク、左側にチラシや薄いブックレット。そのブックレットをめくったさらに内側、プラスチックケースの表紙の裏部分。

 夏香は倒れる前、ここにペンで何かを書いていた。

 そこには油性ペンで、ケースのでこぼこした部分に翻弄された夏香の筆跡があった。


【十七歳かそれ以上の年になった私へ

過去の幼い私を許してください

立浪彰の罪と後悔は私が聞いて

それを半分背負いました

どうか彰や和久井さんのためにも

自分を苦しめる役目を捨てて

あなただけの未来を作ってください

彰もきっと勝手にそうすると思います

十四歳の片岡夏香より】


 自分から、自分へ。

 翻弄された未来の自分に向けて、何も知らない自分から。

 

 ケースを持つ手が一瞬、跳ねた。夏香らしい丸い字体に込められた願いを、祈りを、闇を照らす光を、僕は一粒たりとも逃したくなかった。

 

 夏香が許せなかったのは──僕だけじゃなかったんだ。

 

 あの夏香だからこそ、僕以上に、自分のことをずっと悔やんでいたんだ。

 

 それに気づいた途端、どっと後悔が押し寄せた。

 だけど、もうどうすることもできなかった。

 思わずその場にしゃがみこんで、強い呼吸をくりかえした。

 

 僕がいることで夏香が二年前の自分を責め立て、苦しめ、痛めつけていたというなら、本当に僕たちが自由を手にするのはいつになるのだろう。

 

 違う、僕が正面から向き合えるようになったのは、過去の夏香だけであって、高校生の夏香とは今でもほとんど何も話せていないままだ。

 

 顔じゅうの筋肉が震えた。僕はDVDに額を押しつけて、目を閉じた。

 思いだすのは、夏香が雪の中ではしゃぎ、僕が彼女を抱きしめ、永遠を誓ったあの瞬間。

 僕はパッケージを持つ手に力を込めた。僕は最後まで自分のことばかりだと、後悔するたび頭が拒否したけれど、考えなければいけなかった。



   ・ ・ ・



 冬休み、男子たちのカラオケや買い物や食事の誘いも断って、連日、自宅で何本も映画を見た。夏香に振られたときのように、手当たり次第に。

 

 配信アプリのリストに残っていたのは、夏香と一緒に見た映画ばかりだった。


「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ペイチェック」「ボーン・アイデンティティー」「スター・ウォーズ」「時計じかけのオレンジ」「ターミネーター」「沈まぬ太陽」「ローマの休日」「タイタニック」「理由なき反抗」「フォードVSフェラーリ」「ハドソン川の奇跡」「フォレスト・ガンプ」「ティファニーで朝食を」「マイ・フレンド・フォーエバー」「レインマン」「アポロ13」「英国王のスピーチ」「運び屋」「おくりびと」「タワーリング・インフェルノ」「九人の翻訳家」「ラ・ラ・ランド」「バニラ・スカイ」──

 

 こぼれたクッキーのかけらみたいな記憶を辿りながら、僕は映画を見続けた。夏香が大好きな映画も、僕が気に入って彼女に勧めた映画もある。

 ひとつひとつを覚えていて、忘れられなくて、それぞれの物語に没頭していた僕たちふたり。見る映画を決めて、予定を立てて、二時間近くその世界に入り込んで、そこから数時間は現実に戻ってこれないまま、感想や意見を語りあう。


 ロマンチックなラブストーリーで雰囲気を作ることも、おぞましいホラー映画で吊り橋効果を狙うこともなかった。

 ただ、僕たちは同じ方向を向いて、同じものを見ていた。

 

 今の僕は、自分の部屋で、飲み物とお菓子を用意して、部屋を暗くして、ひとりで見ている。

 

 夏香に振られた時のように、物語の世界に逃げ込むような、鬱屈とした気分で見ていたわけじゃなかった。かといって、夏香との楽しい日々を懐かしんだり、惜しんだりするためでもなかった。

 どちらかというと、一緒に見た映画の思い出を清算し、綺麗に収納するため、という感じだった。

 瞳の「男の恋は名前をつけて保存式」という言葉を思い出して、本当にそうだ、と思った。

 

 だから、ただただ楽しめた。結末までわかっている映画ばかりなのに、吹き出し笑いをしたり、泣きそうになったり、思わず目を瞑ってしまったりした。

 そして、見終わったそれらをひとつずつ、アプリのリストから消してゆく。トップページのおすすめ映画欄が、育ったアルゴリズムによってどんどん充実してゆく。まるで夏香の怒涛のマシンガントークのように。

 

 たくさんの映画を見たあと、僕はふと思い出して、物置の奥底に眠らせたダンボールを引っ張り出してきた。ガムテープを剥がす音が、僕を叱咤している気がした。

 小学校の時に使っていたおもちゃやカードのデッキや勉強道具の上に、ぽつんと、呼ばれるのを待っていたように「15時17分 パリ行き」のDVDが乗っていた。


 ずっと、二年と少しのあいだ、夏香の優しい記憶と共に忘れようと努力した、彼女からもらったDVD。

 

 僕は久しぶりにその固いケースに触れた。

 テロリストを捕まえた青年三人の後ろ姿が印象的な、モノクロのジャケット。夏香が好きだった、クリント・イーストウッド監督作品。


 しばらく放置していたそれは、冷え切ったわけでも、劣化するでもなく、何も変わらない。

 忘れなければいけないものでも、残さなくてはいけないものでもなくなり、別にいつでも見てくれていいよ、とばかりにあっさりと僕の手におさまった。

 

 妙な安心感と落胆と、解放感。

 

 失敗ばかり、失望されてばかり、周りから見放されてばかりの主人公でも、地道に積み上げてきた武道の心得やさまざまな知識や「誰かの役に立ちたい」という思いが、パリ行きの列車の中で起こったテロ事件を未然に防いだ物語。

 何も取り柄がない役立たずだと言われ続けた主人公が、知らず手に持っていたもので人の命を救い、感謝され、人生を好転させた。

 これが実話だとは初見では信じられなかったが、今になって少しの親しみを持つ。

 

 彰も勝手にそうすると思います、という夏香の言葉が、ずっと僕の背中を叩いている。

 

 僕は細く息を吐いた。そして、DVDのケースをひらきながらテレビのある部屋に行き、プレイヤーの電源を入れた。



   ・ ・ ・



 学年末テストに向けてそろそろ動き出そうかという時期に、和久井美優からLINEがきた。

 丸ごと試験範囲になる教科書を前に自分の部屋で腕を組み、どう勉強の計画を立てようかと思っていたときだった。

 

 嫌な予感と諦めと面倒臭くて寝そうになる気持ちとで混乱している頭に、LINEのかろやかな通知音が届けられる。

 

『ごめん連絡するの忘れてた。うち年賀状じまいし始めてるから。元気にしてる? 私は学校に大学決めろーって超言われまくってて、大変だけど楽しいよ。去年は夏休みに友達と沖縄行ったりしたんだ。今年も立浪くんにとってすてきな年になりますように』

 

 直後に送られてきたあけおめスタンプ。

 細切れではなく、一度で全ての文を送ってくるあたりが和久井らしい。

 

 明るい文章を見ながら、夏香のことをどこまで話すか迷った。

 だけど、彼女が記憶喪失で、自分と別れる前の記憶しかなくて、しかも入院中だなんて言えなかった。和久井があまりにも楽しそうだったから、場違いな話で上塗りしたくなかった。

 

 話すかどうか迷った、というのは、少しでもこの気分を分かちあえる友達を増やしたかった、ということなのだろうか。

 

 僕は自分の机に座って、時間をかけて返事を送った。

 

『あけおめっす。去年はあれこれと大変なことに巻きこまれたよ。でも大丈夫、決着がついた気がするし、結構楽しかったから。和久井も元気そうで何より。いろいろ話したいから、今年は会えるといいな』

 

 アプリを消して、ホーム画面のアイコン群を眺める。やがてそれらが消え、真っ暗になった画面に自分の顔がうつるまで、僕はぼんやりしていた。

 このタイミングで和久井から連絡が来るのが不思議だった。つい数日前、彼女と夏香と僕が中心にいた事件を回顧し、自分でつけた傷をえぐりかえし、そこから流れる血を眺めるのをやめようと思った矢先だったから。

 

 LINEがブロックされないことに安堵する。

 だけど、その立場に甘んじて二年間何もしようとしていなかったのは、僕だ。

 

 もう一度スマホをひらき、LINEで続けてメッセージを打つ。

 

『こっちに遊びに来ることがあったら会おう』『賢一も誘うし』

 

 会えたらいいな、からの、会おう、とは藪から棒すぎると思い、頭を掻いた。

 削除して送りなおすか、と考えているうちに既読になり、数秒もしないうちに、いいね! というかわいいキャラクターのスタンプが送られてきた。

 

『会おう会おう! 試験休みあるし』

 

 端的に、だが嬉しそうに。すぐに返事が返ってきたことが妙にうれしくて、口の端が自然と持ち上がる。

 試験休みの日程を言い合って日時を決めると、スタンプだけを送ってもう一度スマホを消した。

 懐かしい友人にまた会えるのが楽しみで、笑みがこぼれた。

 

 和久井はもう大学のことを考え始めている。

 僕はぼんやりと、日本に輸入される洋画と付き合っていく仕事がしたいとは思っているが、志望校はまだ決めていない。三学期の三者面談の時も、洋画にかかわれたら、としか答えられなかった。

 映画を作るんじゃないかといろんな人に言われたけれど、それは夏香の夢だ。彼女もきっと、迷いながら、探しながら進路を決めてゆくのだろう。

 僕も得意な英語力を伸ばしながら、道々で何かを考えていくのが合う気がする。

 

 僕が優柔不断なのは、もともと、時間をかけて考えるのが好きな性格なのだろう。

 

 記憶と闘いながらも勉強を続けて、みんなと同じようにしたいとはりきっていた夏香を思い出す。

 僕は机の前に座って教科書を広げ、シャーペンを振って芯を出した。



   ・ ・ ・



 記憶を失った夏香とのキスを思い出した。

 

 冷たい雪の中であたたかい口づけをかわしたことは、忘れられそうになかった。

 壊れてしまいそうな夏香を、そのときの全力を出して、ただ必死に守りたかったのだ。

 

 それが、僕のすごした十七歳。

 

 十四歳の甘い思い出をしゃぶって、それで生きながらえてきた十七歳。

 

 時間はそれでも流れつづける。一度だって戻らない。

 だけどふりかえる勇気ぐらいは、ある。

 

 僕は、夏香を全力で愛していた。

 それだけは真実だった。

 

 それがわかった僕は、前に進むしかない。

 

 一回きりの十七歳の終わりに接して、二度と後戻りできない過去をいつまでも惜しみながら、留まり続けることはできないのだ。

 誰かに背をおされたら、きっとあとでいくらでも言い訳や責任転嫁ができるようになってしまうから、自力で足を踏み出さなければならない。

 踏み出したことに間違いはなかったと、笑って誰かに話せるように。


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