第9話 Don't Look Back In Anger
『デートに行こう』
三が日がすぎる頃、夏香からそんなLINEがきた。
夕方四時に家の前で、という指定だったので僕は時間をかけて服を選び、スマホと財布だけを持って家を出た。
片岡家のインターホンを押すと、すぐに夏香が出てきた。もう靴をはいて玄関口にスタンバイしていたのかも知れない。
「中学に行きたい」
門をあけるなり夏香はそう言った。遠出ではないと思っていたが、まさかの出身中学とは。だから夕方だったのか。
僕が「そこでいいのかよ」と言うと、夏香は少しだけ眉をしかめて首をかしげた。
「中学のほうが、なんかしっくりくる。高校は本当に、ちょっと未来で行く学校って感覚だった。だから、自分がいた場所を見てみたいなって」
言い終わるより早く夏香は僕の手をとり、中学への道をずんずん進んでいった。
住宅街の、似たりよったりな屋根の隙間から、鋭い西日が僕たちを刺していた。
僕にとって中学は苦い思い出の場所だ。夏香に告白し、つきあい、手をつなぎ、キスをし、殴られ、見下され、別れた場所。
思い出すだに身の毛がよだつ。
が、僕の手をつかんで離さない夏香を見ているうちに、全身の鳥肌がおさまってきた。不安は拭えないが、夏香が行きたいなら、という気持ちが先行した。
ここから中学まではさほど遠くない。夏香の自宅からなら徒歩十分で行ける。
つきあっていたときは、よく僕が夏香の家の前で待っていて、一緒に登校したものだ。人が多くなる通りに出るまで、手をつないで。
その道を今、夏香に手首をつかまれて歩いているという状況がどうも不思議でならず、僕は彼女の手を軽くふりほどくと、自然に手をつなぎなおした。
「こっちのが歩きやすいだろ」
笑いかけると、夏香が一瞬照れたように赤くなった。
直後に大爆笑に変わった。なんで笑われなきゃならないんだ。
僕の手が、赤いコートの裾から出たちいさな手を握っている。
それがどれだけあたたかく、優しく、奇跡のようなことか。
僕らの出身中学は住宅街の奥に追いやられるように建てられていて、大きな校舎がひとつとちいさな別館がふたつ、汚いプール、さほど広くないグラウンドとその隅の体育館で敷地を陣どっている。
僕たちはジャージを着た運動部員たちがちらほらと出てくる正門をくぐって、正面玄関から入った。私服の僕たちをいぶかしげに見てくる在校生と、慣れたようすで歩く夏香。
僕は彼女のぶんの来客用スリッパも出し、手をとってブーツをぬぐのを手伝った。
職員室に入ると、一年と二年の担任をしてくれていた女性の先生が以前と違う席に座っていて、おそらく冬休み明けの実力テストだろう問題をパソコンで作っていた。
「うわ、片岡さんと立浪くんか。どしたの急に」
「どしたのって、単なる母校参り」僕はこたえながら笑った。「なつかしくなって遊びに来た。元気?」
「そりゃ私は元気だけどさ。なんだ、君たちまた仲よしになったんだ」
彼女は三年の担任ではなかったが、先生は僕と夏香がつきあい、別れたことを嫌というほど知っている。それほど夏香は中学時代からかがやいていて、そんなお姫様を恋人にした僕とセットで目立っていた。
夏香は隣で困ったように苦笑していたが、知っている先生だからか、その態度に緊張の色はない。
僕たちは学校内を見学する許可をもらった。当時の担任に話すのはおかしいと少し思ったが、他によく見知った先生がいないのでしかたない。
職員室を出るとき、僕は二年のときに使っていた教室の鍵をこっそり持ち出した。
僕と夏香は思いつくかぎり、思い出の場所に手当たりしだい足を運んでみた。
体育館の裏。まだつきあっていなかった二年の夏、合唱コンの打ちあげ前にみんなで集まって騒いでいた。夏香はすぐ後ろの立ち位置で歌っていた僕を指さして「立浪くんの声が一番よく聴こえてた!」と笑っていた。めちゃくちゃ恥ずかしかった。
別館と本館をつなぐ連絡通路。いつだったか放課後、ここで風にあたりながらふたりのスマホに入っている画像を見せあっていた。気にいったものはコンビニでプリントして交換しあった。夏香はかわいらしい花柄の袋に入れて持ってきてくれた。
彼女がくれたのは、広島に修学旅行に行ったときの写真と、机の上に飾ってあるぬいぐるみを撮った写真と、ふたりで撮ったツーショット写真の三枚だった。僕がどんな写真をあげたか、もう覚えていない。
一階の保健室。鍵が閉まっていて入れなかった。僕が仮病を使って寝ていると、夏香も仮病をわずらって入ってきた。並んだベッドにそれぞれもぐりこんで、保健医の先生の目を盗み、一枚のルーズリーフにシャーペンで文字を書いてこっそりやりとりをしていた。「なんて言って保健室に来たの」「とりあえず腹痛」「私は生理痛」「ひどいほう?」「薬飲んだから今はマシ」「女子って大変だよなあ」
そんなことを書きながら、ベッドのあいだで交換していた。夏香が「結局サボリじゃん」と書いてよこしたときは、ふたりで枕に顔を押しつけて笑いを堪えた。
一階から二階へあがる階段。付き合ってしばらく経った頃、小学生のように手すりをすべる僕を見て、夏香が「男子がクソガキすぎる」と笑っていた。やってみろと言うとひとこと「パンツが見えるから嫌だ」と言われた。
俺だけが見えてるから大丈夫と言うと、彼女は一気に手すりを滑ってそのまま僕にタックルをかました。死ぬかと思った。夏香は「初めて手すり滑った」と笑っていた。
いろいろなことを思い出しながら本館の二階にあがると、廊下のほとんどの電気が落とされ、窓から差し込む街灯の明かりだけが廊下を海の底のように照らしていた。
ちょっとホラーだな、と僕が考えていると、隣から夏香の楽しそうな声が聞こえてきた。
「めっちゃいい」興奮する夏香は映画好きの眼差しで廊下を見ている。「『ターミネーター2』の、液体型ターミネーターが病院の廊下に現れるシーンみたい。ほら、鉄格子を抜けようとして、拳銃だけ引っかかったとこ」
ひとりではしゃぐ夏香を見て、僕はやれやれと肩を落とした。呆れはしたけど、そんなところが昔と変わらなかった。
二階のトイレ。僕は思わず「あ」と言ったが、そこから先は何も言えなかった。
ここで和久井が女子たちに水をかけられているのを見た。笑われた夏香が、ずぶ濡れになりながら「へえそんなに楽しいなら私もやってみようかな!」と言って同じように水道の水をバケツでかけようとしていたので、僕が必死に止めた。
そういったことを、夏香はすべて覚えていた。僕も覚えていた。
楽しかったことも、つらかったことも、たくさんの思い出話をしながら、僕らは母校の敷地を歩いた。
「そういえばあそこで」「ここで確か」「最初にここに来たとき」「冬にこのへんで」「始業式のあとに」
滝のように記憶があふれてくる。
彼女が覚えているのは中二の冬までだが、それだけでもじゅうぶん宝箱のような記憶がたくさんあった。
毎年何百という生徒が入れかわっているのに、卒業生である僕らの手でこの校舎はいつでも過去にタイムスリップできるんだと、天井をあおぎながら思った。壊れかけた電灯も、当時のままだ。上の階からひびいてくる、吹奏楽部の練習の音も。
たくさんのものが変わったけれど、変わらないものも必ずあるのだと、僕ははしゃぐ夏香の背中を見ながら思った。
・ ・ ・
三階にあがり、僕は二年四組の教室の鍵をあけた。夏香と僕が一年間すごした教室だ。
僕は二年に進級したときに夏香とこの教室で一緒になり、「あれが噂の片岡夏香か」と遠目にかの美少女を見ていた。
まさか彼女が数ヶ月後、恋人になるとは当時、考えもしなかった。男子勢にとって彼女はお姫様で、自分は路傍の砂だった。
夕闇せまる教室は、部活組のためにまだ暖房がついたままで、寒くはなかった。
四十個の机がならぶあいだをぬけて、僕は二学期に使っていた、特に気に入っていた窓際の机に座った。少し身長が伸びたのか、当時よりも机に座るのが楽に思えた。
ここには誰もいないのに、机の横にかかっている置き勉のトートバッグや体育館シューズの袋、掃除用具入れのロッカーからあふれているモップ、前の授業が数学だったとすぐに分かる黒板の乱雑な消しかたなどから、人の活気をいくらでもうかがうことができた。
一年のうちに何度も席替えがあったが、思い入れがあるのは窓際の後ろから四番目の席だった。
空が見える窓際が好きだったし、すぐ斜め後ろが賢一で、夏香の背中が見える、僕にとってはベストポジションだった。
今、その机の横には知らない生徒の体育館シューズがかかっていた。引き出しから小テストの問題用紙がはみだしていた。今の自分なら楽に分かる問題に、シャーペンで薄く途中式が書きこまれてある。
不思議だ。人の歩み、営み、雑多な感情。
夏香は僕が窓際の机に座っているのを見て、その時自分がいた席を見つけて駆け寄った。二列隣の、前から三番目。僕の席から見てちょうど斜め向かいだ。
彼女はよく、授業中にこちらを振り返って、笑いかけてくれた。その時のように、夏香は椅子に座ると、僕を振り返って見せた。
楽しそうに笑う彼女を見て、僕もつい、中学生の時のような気分に浸る。
改めて僕の前にある椅子に座った夏香は、「急にしっくりきた」と言って笑った。
「私はまだここの生徒のつもりなんだけどなあ。いつのまにか高校生になってるなんて、授業中にここで居眠りして、夢でも見てたみたい。今寝たら起きるかな」
そう言って彼女は机に伏したが、少ししてひとりで笑いだした。無邪気で楽しそうな夏香を見て、僕も肩を震わせて笑う。
まだかすかに地平線にしがみついている太陽を、僕は夏香と一緒に見ていた。建物の谷間から悪あがきのように伸ばしてくる光の筋が、教室にほんの少しの明るさをもたらしている。
電気をつけるほど暗くもないが、本を読むには適さない。それが余計に夏香との距離を埋めているような気がして、僕は急に恥ずかしくなり、肩をすくめた。顔が赤くなっていないことを願いながら。
「一ヶ月前まで、この教室に彰と一緒にいたのに」
夏香が立ちあがりながら言った。「でも、私も彰も、もうここにはいないんだよね。明日からふたりでここに登校するってことは、できないんだよね」
ゆっくりと窓際に歩みよる夏香の足取りは重く、枷をつけられているようだった。
僕は何も言わず彼女の背中を見つめる。
「私と彰が別れちゃったの、三年生のときだって言うから、この教室じゃないんだろうけど。でも、なつかしいな、この教室で私は彰を好きになって、彰も私を好きになってくれて、つきあうことになってっていうの。こうやってすぐに思い出せるのに、別れたなんて、馬鹿みたい。作り話でも聞いてる気分」
ふりかえった夏香の笑顔は、少し寂しげで、けれど嬉しそうだった。
そう見えたのは、僕の自己満足だろうか。
夕日が逆光になって、彼女の顔の半分が薄暗く見える。はかなくて、繊細で、消えてしまいそうで、怖かった。
「覚えてる? 私がはじめて彰と話をしたときのこと」
僕は頷いた。忘れられるわけがない。
すべての男子があこがれる女子に、小心者の僕が話しかけられるはずもなかった。ただ、教室のどこかから彼女を眺めてはため息をつき、かわいいなとか、髪きれいだなとか、そんなふうに内心思うだけの日々を送っていた。
が、一年のゴールデンウィークがあけてすぐのころ、夏香が職員室から持ってきた大量のプリントをかかえて廊下を歩いていたら、一番上のプリントが床に落ち、あろうことかそれをふんづけた夏香が転んだのだった。
偶然近くにいた僕はすぐに駆け寄り、「大丈夫?」なんてありきたりなことを言いながらあたふたして、あちこちにぶちまけられたプリントを一緒にかき集めたのだった。
「うわーもうほんとごめん大丈夫ごめんごめん」と言いながらプリントを集めて床でならす夏香を見て、つい「半分持とうか」と声をかけたのだった。
それだけで一生分の緊張と後悔が押し寄せ、全身の穴という穴から汗が滝のように吹き出ていた。
だが夏香はそれに対し、花のような笑顔を顔いっぱいに浮かべて言った。
──私が頼まれたことだから、私がやらなきゃ。ありがとう、立浪くん。
夏香のイメージが変わった最初の瞬間だった。
それ以来、よく言葉を交わすようになったのだった。最初は話しかけるのも怖いと思っていたのに、夏香から何かにつけて声をかけられ、話題に混ざるよう誘われているうちに、自然と会話できるようになった。
いつしか賢一も加わって一緒に行動する中で、僕たち男子が勝手に大きなフリルやリボンで飾っていた夏香のイメージがなくなり、遠くからは見えなかった本質が見えてくる。
傍目には夏香は背が低く、華奢な体つきで、女子たちと楽しそうに話していることが多かった。白いワンピースを着て、背景に花を散らしながら本を読んでいそうな雰囲気があった。
弱々しく、男の本能で守ってあげたくなるような子だと、理想たっぷりに勝手に妄想していた。
だけどその小さな身体は、男の弱さが浮き彫りになってしまうほど意志が強く、負けず嫌いで、きらりと輝く気高さを内に秘めている。
純粋で無邪気な少女のようにふるまうが、賢く真面目で語彙力が高い。自分の意見をしっかり持っているが、他人の話も必ず聞くし、否定しない。からかわれると大声で喧嘩を売り返すくらいだ。
そして何より、たくさんの映画を見ている。ティーカップ片手に読書をするより、大袋のポテトチップスを頬張りながら画面に食らいついている子だった。
今思えば、夏香がプリントを落としたあの日、理想が崩れ、そういった強さや意外さが垣間見えたことで、さらに夏香を好きになってしまったのかも知れない。
僕は机からおりて、「多分そのときだな」と言った。
「ああ、この子めっちゃいいなって思ったの」
「プリントを拾ってくれたときのこと?」
「そうそう。なんだこの子、ちゃんとしてんじゃんって思った。もっと繊細で甘えたがりのお嬢様だと思ってたのに、実際はアクション映画大好き女子だもんな」
「何それ、褒められてるのか逆なのか」
僕は肩を震わせて笑った。どうしようもなくおかしくって、僕は笑い続けた。
つられて夏香も「なんなの」と言いながら笑う。
少しずつ暗くなってゆく教室で、電気もつけず、僕らふたりはただ、笑っていた。
何もかもを忘れてしまっても、きっと、僕らは本能のままにここへ戻ってくるのだろう。
どんなに遠まわりをしても、昨日がすっかり遠くなってしまっても、疲れた足をひきずってふたたび思い出し、笑うのだろう。
この場所で、和久井が笑っていたことが忘れられないように。
夏香の姿が、僕への見せしめのように暗く逆光になっている。
あの頃とはあらゆるものが変わってしまったけれど、彼女が僕に笑いかけてくれる瞬間の喜びや嬉しさは、これからも決して変わらない。そう願いたい。
だから僕は、思いきって口をひらいた。
「俺と夏香が別れたのは」
彼女の身体がこわばった。
「君の大切なものを傷つけたからだって、前に話したよな」
光のさす処刑台にあがる気分だった。
長い間があき、建物の間から差し込む太陽の光が一瞬で細くなった。そして、それが完全に地平線へ吸い込まれてしまったころ、夏香がうなずいた。
覚悟はしていたのだろう、彼女の目は思っていたよりしっかりと焦点をむすんでいた。
僕と彼女は並んで、出窓のスペースに座った。教室の床の影が徐々に夜闇に溶けこんでいくのを、じっと見つめている夏香。
夜につつまれる街に背を向け、僕らはかつて恋人同士として過ごした教室を、少し高い場所から見ている。
何も変わらないはずなのに、何かが変わっていた。それは単に机の数が変わっているとか、黒板の落書きが違うとか、そんなものじゃない。
二年間で変わるわずかなものは、世界を変える。
まるで映画の脚本ようだ。
僕は夏香の顔をのぞきこんだ。許可を求めるように。
夏香は僕の目を見つめかえして、少し考えるそぶりを見せたあと、ちいさく二度うなずいた。
また床を見つめる彼女に、僕は深呼吸をしてから話しはじめた。
「君が聞いたら、納得のいかない事件だと思う。誰だってたぶんそう。こんなことぐらいで夏香が俺を無視してるの、信じられないと思う。だけど、な、言い訳にしたくないけど、年齢不相応にガキだったんだよな、俺」
夏香が覚悟を決めたように僕を見た。彼女の髪を少し撫でて、ため息をつき、僕は後ろに手をついて、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
思い出すたびにフィルムが眼球を切り裂いていくとわかっていたけれど、たとえ視力を失ってでも、話さなければいけないと思った。
・ ・ ・
ひどくいじめられていた、夏香の友達。
僕のところにも「彼女と口をきいたやつは無視」といった内容のグループLINEが女子から届いたことがあった。
中三で初めて同じクラスになったからそれまで知らなかったが、彼女がいじめられている理由は単に上級生の彼氏がいたというだけであり、僕はそれに最後まで納得できなかった。
同時に、そんな簡単なことでいじめる女子の性分を心底怖いと思った。
一歩間違えれば、僕を彼氏にしたせいで夏香がいじめられていたかも知れない、と考えると、優しい和久井を守らなければならない、と半ば直感のような騎士道精神がはたらいた。
いじめられている和久井に、同情でもなんでもなく友達になりたがった夏香。大好きな本や映画の話ができる相手は、当時の和久井にとって救いだったろう。
すぐに仲よくなったふたりだったが、和久井と話しているだけで夏香もいじめの標的になったことは当然の帰結だった。それは僕や賢一も同じで、夏香と和久井以外の女子全員から相手にされなかったこともある。
男子の何人かも和久井をいじめていたが、そういうタイプの男子とは最初から交流がなかったから気にならなかった。
抵抗すれば次は自分がいじめの対象になる。そんな女子たちの事なかれ主義文化が心底苦手だったが、女子同士だけのいじめと違い僕と賢一が和久井側にいたから、おそらくそれでも程度が軽くて済んだのだろう。貧弱な僕はともかく、サッカー部で多少影響力のあった賢一の存在が大きい。
それでもいじめを止められなかったから、和久井の嫌われぶりを思い知る。
優しくて、成績が良くて、穏やかに話す和久井。
眼鏡の奥で細められる目はいつも穏やかで、誰かを睨んだりすることを知らない瞳をしていた。
僕たち三人が彼女の味方をしないわけがなかった。女子の問題だからと和久井を放置する他の男子たちの代わりに、友達を守る味方でい続けたかった。
和久井の机にマジックで暴言を書かれたとき、僕は授業が始まる前に百円ショップに走って、落書き消しスプレーを買い、夏香たちと一緒にメラミンスポンジで擦って消したこともあった。
移動教室はいつも一緒だったし、体育の時のふたりの荷物は先生に断って体育館まで持ち込んで見張った。
夏香のしたたかで徹底した予防策、そしていざとなれば動画を撮ってでも証拠を残して吊るし上げてやるという気概が、いじめる側の女子たちにとって大きな牽制になっていた。
和久井はいつも「ごめんね」「立浪くんや古田くんにまで迷惑を」と半泣きで謝っていたが、その背中を叩いて笑顔で励ました。
夏香と僕と賢一と和久井、四人ならいずれ乗り越えられる。本気でそう思っていた。
だが、主犯格の女子のある行動をきっかけに、僕が四人の仲を引き裂いてしまった。
他人に責任転嫁するつもりなんてない、すべて僕のせいだ。
中学三年生の、朝夕の暑さがやわらぎはじめた九月のことだった。文化祭の出し物を決める前で、学校が祭りへの期待に浮かれている頃だ。
ある日、女子トイレの前を通り過ぎたとき、いじめっこたちの胡乱な会話が漏れ聞こえた。
すべて聞こえたわけではないが「明日の朝」「和久井の机」などという物騒な単語に、僕は心臓に重りをぶらさげられた気分だった。
和久井に話せず、かといって夏香に相談もできず、煩悶したまま僕は翌朝、緊張からか妙な気分のまま早起きしてしまって、そのまま登校した。
七時半前、職員室に鍵を取りに行くと、教室のものはすでに誰かが持ち去っていた。
まさかと思って教室に入ろうとしたとき、窓に貼られたポスターの隙間から見えたのは、いつも和久井を姑息にいじめている派手な一軍の女子たちだった。
彼女らは雑談をかわしながら和久井の席を囲み、太字のポスカを手にして机に何かを描いている。見なくてもわかる。ろくな内容ではない。大きな絵をぐるりと描いたり、文字を書き込んだりしている。
僕は一瞬ひいたものの、すぐに彼女たちの新しい遊びだと分かり、猛烈に怒りがこみあげてきた。
そして、スマホのカメラを起動すると、窓越しにその様子を動画におさめた。
下卑た笑い声が響く。悔しくて、悔しくて、脳天をノコギリでけずられるような音をたてて歯ぎしりをした。
僕の友達を、夏香が守ろうとしている友達を、こんなに楽しそうに傷つけるなんて。
その時、証拠の動画を撮ったなら、そこで引けばよかった。少し大人になった今ならわかることだった。
だけど、僕はいつも痛めつけられ、泣きそうになりながら耐える友達のことを考えて、ドアにかける手に込められた力を抑えられなかった。
僕は自分でもやりすぎだと思うほど強くドアをひらいた。ガラスが割れるかと思った。
楽しそうに笑いながら机に落書きしていた女子たちが、ちいさな悲鳴をあげてこちらをいっせいに振り向く。その目は一瞬恐怖に見開かれ、みるみる青ざめていく。
彼女たちのもとへがつがつと大股で歩いてゆくと、その中で一番性格のきつそうな女子の胸倉をつかんだ。
悲鳴があがり、他の女子たちはいっせいに後ずさる。
「どういうことだ、説明しろ」
顔が一気に熱くなる。沸点はとうに超えている。
急にちいさな女の子のように怯えて涙目になる女子だったが、僕はかまわずセーラー服の襟をさらに強く引っぱった。真ん中の襟を止めているボタンがはずれる。
「説明しろって言ってんだよ! なんなんだよ、あの机は!」
「痛いよ、離してってば」
「ちょっと立浪、何すんだよ」
他の子たちがおっかなびっくり僕から女子をひきはがし、守るように前に立ちふさがった。
慌ててセーラー服の襟をなおす彼女に「大丈夫?」と声をかける子をかばうように立った女子が、「なんなんだよ立浪」と僕を睨みつけた。
僕よりも背が低いのに妙に迫力があって、化粧で偽装された目がアイスピックのようなするどさをもって僕を睨みつける。
僕は一ミリたりともひかず、むしろ一歩前に出て彼女に食ってかかった。
「お前ら、こんな姑息でセコいやりかたしかできねえのかよ、卑怯者。言いたいことがあるなら正面から和久井に言え」
「立浪には関係ねえし。てか朝から来んの暇すぎでしょ。うちらのやってること止めてなんかいいことあんの? 漫画の主人公ごっこでもしてるつもり?」
「それこそ関係ねえだろ論点そらすな。自分に彼氏いないのが悔しいだけだろ、女の妬みは怖いね。お前みたいな腹黒の女が男に好かれるとでも思ってんのか」
「はあぁー? 人のこと言えんのか立浪ぃ! 誰もお前みたいなドブスの陰キャなんか相手にしねえし! 鏡見てからもの言え! つーかこんなイノシシみたいな顔の男好きになった夏香あたおかすぎでしょ。和久井もよくこんな奴になつくよねえ、暗いもん同士、類友ってか。きっしょいやつらの仲間で固まって群れて。いやそれで全然いいけどね、うちらに実害がなかったら」
楽しそうに笑う女子たち。僕は自分が罵倒されたことよりも、夏香や和久井のことを酷く言われたことで、頭に血がのぼった。
急に視界が獣のように狭まり、両の拳が痛いほど握り込まれる。
「それ、そっくりそのままお前らにあてはまってんじゃねえか、片腹いてえよ」
「は? 何言ってんのこいつガチキショなんだけど。口臭いって。公害だからしゃべんなよゴミ」
「男いねえビッチのメスどもが集まって、自分の弱さを直視すんのが怖いからって和久井に視点そらしてんだろ。ここまでされなきゃならねえ理由が和久井にあると本気で思ってんの? 和久井が泣くところを見て溜飲下がるとか性格悪すぎな? 誰かに糾弾されたときに同じこと主張したら味方してもらえると思ってんのか!? 俺はいいけど、和久井や夏香の悪口言ったら本気で殴るぞ!」
「はー何お前、意味分かんねえし、日本語しゃべれよ」
「え、今俺が日本語じゃない言葉しゃべってるって思ってんの? お前本当に日本人? 耳聞こえてる?」
楽しそうにきゃらきゃらと笑いながら「ガチで立浪語分かんねえ」と連呼する彼女たち。
僕は力量差を判断して、これなら勝てる、と思って口の端を上げた。
こんなレベルの低いやつらに和久井がいじめられてるんだとしたら、あまりにも理不尽だ。絶対にやめさせる。たとえ自分が悪役になったって。
どうでもいい。誰を敵に回してもいい。くだらない。こいつらが負けないと終わらない。
俺が和久井と夏香を守らないと。
お前らのやってることは全部間違ってるんだっていうことを、どんなやり方を使ってでも、俺がここで徹底的に分からせてやる──
十四歳の僕は本当にそう考えていた。
妙な自信と万能感で満たされ、ここで女子たちを言い負かすことさえできればいい、と思っていた。
自分は間違っていない、自分たちが正しい、という事実が僕の炎にガソリンを注いだ。
僕が胸倉をつかんだ女子がゆっくりと立ちあがって、他の子たちの制止もきかず僕の前にすすみでた。
彼女は指先で前髪を整え、勝ち誇ったように笑った。
その姿を、心底不気味だと思った。
「力強いのは口だけ? 女には本気で手を出せないんだよね、臆病で優しい立浪くん。別にここでうちらが制服脱いで、叫び声あげて、立浪に襲われたって先生たちに言ってもいいんだけど?」
一瞬、狼狽えた。が、こっちには証拠を残した動画がある。
僕は彼女に触れられないよう一歩引きながらも、その足裏でしっかり床を踏みしめた。
彼女は僕の耳元に唇を寄せて、そっとささやいた。
「夏香、和久井のことかばって、心優しくて強いアタシ、みないなのアピールしてんのがウザいし。和久井も夏香の威を借るメガネザルで、自分から何かする気もなくて友達の影に隠れてさ。
あんたも女友達を守ってやる王子様きどりかよ。ゴミブスのくせにキモすぎ。全然かっこよくないから。視界に入ってくんな眼球が腐る。このクラスからいなくなるだけで全部解決すんのに、いつまでもいつまでもずっと目の前うろつく方が悪いわ。
てか和久井、ここまでされててなお学校来てるの意味わからなすぎなんだけど。どうせまた高校生とか大学生とか、おっさんとか相手に股ひらいてるからか変な匂いするんだよ。
あんたがなんとか言って、和久井に転校でも不登校でもなんでもするように仕向けてよ。そしたらあんたら激キショカップルにはなんもしないから」
──臨界点はとっくに突破していた。
そうだ、もともとすべてがこいつらのせいなんだ! くだらない理由で和久井をいじめて、嫌がらせばかりして、犯罪行為すれすれのことをして、ここまで追いつめたのはこいつらじゃないか。
俺たちの大事な友達なのに、和久井がどんなに優しい子か知らないくせに。男がらみのちっせえ嫉妬で人の学校生活を潰していいと思ってるのか?
和久井は何も悪くないじゃないか、いじめがどれだけ心に深い傷を負わせるか、知らないのかこいつらは。
あげく、俺や夏香まで巻きこんで破滅に追いこむ気なのか。お前らじゃなくて俺たちに学校を出ていけって言うのか。そして和久井のいないこの教室で、また楽しく笑って遊ぶつもりなのか。
そんなの許せない。
許せない、許せない許せない許せない許せない許せない許せない!!!!!!
気づけば僕は、彼女の両肩を全力で突き飛ばした。
細い身体は簡単に落書きだらけの和久井の机に叩きつけられ、鈍い音と共に悲鳴があがった。
僕は「ぶっ殺してやる!」と叫び、くずれ落ちそうになった彼女の右頬を、そのまま片手で強く張った。
風船が割れるような激しい音が鳴って、彼女は無様な声をあげて床に倒れた。口の中を切ったのか、唇の端から血が垂れている。
他の子たちが慌ててかけよってくる前に、僕は立ちあがろうとする彼女の胸から腹部にかけての胴体を、上靴の裏で蹴り飛ばした。
床に背中から叩きつけられた彼女は、喉の奥から詰まった水道管のような音を漏らし、腹を押さえて海老のように丸くなった。
呼吸が一時的に止まったのか、掠れた声をあげて震えている。
もう一度何かしようとした──殴ろうとしたのか、蹴ろうとしたのか、今でもわからない──僕を、他の女子たちが何事かを叫びながらうしろから羽交締めにした。
両腕を拘束された僕は、それをふりほどこうとしながら、徐々に呼吸が戻ってきたらしい女子に向かって叫んだ。
「謝れ! 今までのこと、一切合切まとめて謝罪しろ!」
「お前が先に謝れや立浪!」僕の耳元で別の女子が叫んだ。
「なんでだよ! 俺たちは何もしてない! お前たちが悪いんだから謝れ!!」
そうして欲しかった。僕はただ、謝罪を欲しがった。
そうしなければ耐えられなかった。
その先に何が残るかを考えず。
僕は羽交い締めにされた腕の代わりに、右足全体に全力を込めて、床の上で丸くなって泣いている女子生徒の腿裏を、思いきり蹴り飛ばした。
靴と骨がぶつかった瞬間、なんの前ぶれもなく教室のドアがひらく。
入ってきたのは、和久井と、彼女と一緒に登校してきた夏香だった。
黒板の右下には、「日直 和久井」と書かれてあった。
僕はドアをあけた体制のまま硬直している夏香と和久井とを交互に見て、つづいて自分がどう見ても目の前の女子に暴力を振るったと一瞬で分かる現状を確認し、全身の血が一瞬で凍りついた。
心臓が和太鼓のように激しく波打つ。
見られた。夏香と和久井に。どこから? 蹴ったところから? そのあと? それより前?
いや、そうじゃなくて。なんで僕はこんな時にそんなことを。
机の上を見て、和久井がその場にへたりこんだ。
夏香がかかえるより早く、彼女は泣きだす。「みーちゃん!」という夏香の声も遠く聴こえた。
自分の置かれている状況を瞬時に把握し、同時に何も分からなかった。
夏香は数秒、何が起こったか理解できていないようだった。机の落書きと、床に倒れたまま泣いている女子と、他の子に両腕を抑え込まれている僕。組み合わせが異常だ。
だが、どう判断したのか夏香は文字通り憤怒の形相にかわり、足音を立てながら僕を追い越して彼女たちの前に立ち、倒れた女子を憎しみたっぷりの目でにらみつけた。
「またこんなくっだらないことやってたの?」
呼吸が復活したものの、僕が蹴った腹が痛むのか、今にも嘔吐しそうな嗚咽を漏らす彼女に、夏香は冷ややかな目線で対応した。
女子の口の端から血が流れている。ちいさな女の子のように泣く彼女の姿は、夏香の後ろで泣いている和久井によく似ていた。
きっと、今までも和久井は、彼女のように声をあげて泣きたかった瞬間がたくさんあったに違いない。そう考えると僕は、何ひとつ同情する気になれなかった。
だが、怒りをあらわにする夏香に対し、別の女子が自分のスマホを操作しながら「そうだけど」と言った。
「あんたの彼氏、相当ヤバいね。これ見てよ」
彼女がスマホの画面を夏香に見せるのを見て、嫌な予感がズブリと脊椎を刺していった。
流れてきた音声に、それが的中する絶望感が全身を絡め取る。
『ぶっ殺してやる!』
スピーカー越しに聞こえる、自分の声。
物が倒れる音。悲鳴。風船が割れるような音。物と物がぶつかる音。重なる悲鳴。
人が人を傷つける、音。
夏香の後ろ姿で画面は見えなかったが、何を見ているのかは分かった。
そして、一切の動きを止めて、画面を凝視する夏香の背中から伝わる、粒立った感情。
怒りと、恐怖と、手のつけられない獣のような何か──
僕は一瞬、背中に刺さった冷たいもののために思考を止めた。
だが、両腕を拘束している女子たちの手を乱暴に振りほどくと、夏香の肩に手を置いた。
「夏香、それは……」
彼女は何も言わず、こちらを振り返りもせず、体を捻って僕の手を振りほどいた。
それが、何もかもの、答えだった。
拒絶された手を空中に置き去りにして呆然とする僕の前で、無情に動画が進む。
『謝れ! 今までのこと、一切合切まとめて謝罪しろ!』
『お前が先に謝れや立浪!』
『なんでだよ! 俺たちは何もしてない! お前たちが悪いんだから謝れ!!』
そして、鈍い音と苦悶の声がスピーカーから響いた。
客観的に聞くと急に印象が変わる。渦中にいる人間は気づかない違和感。
僕は何を求めて、何を目指して、何のために、何を守ろうとして、何を犠牲にしながら、何を覚悟して、あるいは何も覚悟しないで、僕はこの言葉をぶつけた?
ゆっくりと頭が冷えていくのがわかる。
くだらない。何を言ってるんだ僕は。別にここまでする必要はなかった。
わかっていたはずなのに、どうしてここまで瞬間的な怒りのために行動できるのか。
わからないことが多すぎた。
僕は改めて「夏香」と名前を呼びながら、スマホと彼女の間に割り込んだ。
だが、彼女は驚いて目を見ひらき、夜道で話しかけてきた不審者を見るように僕を見た。その顔が数センチ、僕からすっと離れていたことに、気づかなかった。
気づかないふりをしていたのかも知れない。
だって、そんな目で夏香に見られることが、初めてだったから。
「違うんだ。だってこれは、俺がたまたま朝この場に居合わせて、それで……和久井の机に何かしてるって思ったら、俺……」
言葉に詰まった。
ありのままを言えばいいのに。すべて話せばいいのに。
自分の汚い感情を露出することに──夏香に対して見せることに、僕は本能的に抵抗した。
悔しいから、憎いから、負けたくなかったから、殴った、蹴った、と並べることを迷った。
それはきっと、僕の自信のなさとプライドの高さのあらわれだった。
僕はそれを言うかどうかで悩み、頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしよう、という焦りしか残らず、何も言えなくなった。
意味をなさないことを言いながら、「えっと」と迷い、何かを言おうとして、やめる、その繰り返し。
自分たちが正しいのだから、と思っていた。
そしてそれは、夏香に見抜かれていた。
いつもの夏香なら「どういうことか説明して」と食らいついてきたはずなのに。
丸く見ひらいた彼女の目が、僕の弱々しい言い訳を聞きながら、段々と、怖いくらいゆっくりと瞼が降りてきて、ほの暗く細められた。
そして、子猫のようにちいさな声で、僕を貫いた。
「………………………………………………そう」
朝日を取り込まない真っ暗な瞳は、僕のほうをまっすぐ向きながら、もう、僕を見てはいなかった。
普段の、大きな瞳の半分まで細められた目が。
ほんのわずかにひらかれたまま何も言わない唇が。
静かに語るのは──蔑視。
「違う!!」
僕は叫んだ。夏香の暗いまなざしから逃げるために。
「本当に違うんだ!」「こいつらがこれをやったのは間違いない」「昨日こいつらが話してるのを聞いたから」「だから早く学校に来て」「だから」「和久井がまた何かされるって思って」「潰せるチャンスだと思って」「それにほら」「写真だってここに」
矢継ぎ早に、脈絡なく思いついた順番から説明しながら、震える手で自分のスマホをひらいた。操作するあいだ、夏香は同じ目で僕のスマホの画面を見ていた。
そして、教室に入る前に窓から撮った動画を見せると、夏香はそれをじっと見た。数秒だったが、僕には十分にも二十分にも感じられた。
夏香の背後ですすり泣いていた和久井が、少し落ち着いたのか顔をあげて、涙でぐしゃぐしゃになった目をこちらに向けて「夏香ちゃん」と言った。
こぼれ落ちる透明なビーズのような声だった。
動画を数秒眺めて納得したらしい夏香は、それでも雪のような瞳のままため息をつき、倒れている女子たちに向き合った。
僕のスマホを勝手に取ると、画面を彼女たちに見せて「みーちゃんの机に色々やってるところは、こうやって動画に残ってるから」と言った。
「お互いにこうして証拠残してるから、それで終わりにしよう。これでもみーちゃんに何かするって言うなら、この画像をどこかに流す準備がある」
女子たちは先刻の勝ち誇った顔から一転、青ざめた。話しながら夏香は、Bluetoothで僕が撮った動画を自分のスマホに飛ばしていた。
僕は呆然とそれを見るしかできなかった。
「周りの人もみーちゃんがあんたたちにいじめられてるってのはわかってて見て見ぬふりしてるだろうけど、もし大人がこの事について細かく追求してきたとき、傍観者みんなが証言することよりもこうして形に残るもののほうがよっぽど説得力あるってことぐらい、わかってるよね?」
怒りや憎しみよりも強く、ただひたすらに真剣な瞳。
真っ黒ですきとおった夏香の瞳。いつわらない、瞳。
その瞳に気圧されて、女子たちは固まったまま一言も言葉を発せずにいたが、やがて震えながら頷いた。
夏香が「みーちゃんもそれでいいよね」と和久井を振り返ったとき、目から暗さがなくなっているのを見て、少し安心した。
だが、彼女はもう、僕のことを見ていなかった。
いくつか約束を取り決め、夏香はいじめ主犯の女子たちを解放した。僕が蹴った女子の体調を気遣い、血をハンカチで拭き、痛みがないかどうかを確かめる夏香。
無事だとわかると、彼女たちが教室から出ていくまでを睨んで見届けた。
教室のドアが閉じられたあと、和久井が鼻をすする音だけが室内に響いた。
夏香は足音が遠ざかるのを確認したあと、僕に一瞥もくれず、和久井に歩み寄った。
しゃがんで目線を合わせる。「もう大丈夫」「ごめんね、夏香ちゃん、ごめん」「気にしないで、私も今のでよかったのかわかってないし」「ごめんなさい、ごめんなさい……」
ふたりの優しい囁きを聞いてなお、僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
やがて和久井が顔をあげ、僕を涙で満たされた目で見あげた。
「私のせいで、立浪くんが……」
そのあとの言葉は続かなかった。僕が、そんなの、と言おうとしたとき、夏香がやおら立ち上がった。
そして僕を振り返ると──まっすぐに、美しい炎で焼け付く眼差しで、僕を正面から睨みつけた。
呼吸が止まった。生きた心地がしなかった。
こんなにも純粋な怒りを、僕はまだ、この時以外で見たことがない。
強く優しい彼女が僕だけに何度も見せてくれたそのまっすぐな目が、石油のような黒から、様々な鮮やかな感情が混ざって血の赤色に変わるのを、仁王立ちして見ていた。
一度もまばたきをしないまま、夏香は和久井をその場に残してゆっくり、ゆっくりと僕の近くに歩み寄ってきた。
そして、的確に僕の左頬を、殴った。
ゴン、なんてものじゃない。一瞬目の前が真っ赤に染まった。
頭が右側に大きくそれ、平手などとは桁違いの痛みが顔中を襲った。和久井の短い悲鳴があがった。
頭と頬骨と顎関節と歯と歯茎と左目の奥が痛い。じわじわと熱を持ち、無限にしびれるような感覚が脳にまで伝わる。
耳鳴りがする。口の中が鉄臭くなり、じわりと生ぬるい液体が舌ににじむ。
右にそれた顔を戻すと、夏香は僕の胸の前でうつむいていた。
彼女の前髪のあいだから、ぼたぼたぼたっ、と信じられない量の涙が床にこぼれた。しゃくりあげるたびに夏香の肩が跳ねる。
誰も何も話さない。僕を呆然と見ている和久井も、何も話さない。夏香の泣き声と、僕の頬の痛みだけが、その場の時間を止めていた。
身体の筋肉がひとつも動かなかった。耳が聞こえなくなったのかと錯覚する。
僕が夏香の肩に手を置こうとすると、感電したように夏香があとずさった。僕から三メートルほど距離をおいて、涙でぐしゃぐしゃになった目で僕をにらむ。
悲しみと、後悔と、失望と、混乱と、両手で抱えんばかりの大きさの怒り。
僕が初めて見た夏香の直接的な、嫌悪感。
「夏香ちゃん!」
和久井が細い両腕で夏香の腕にしがみつき、泣きそうな声で止めようとした。だが夏香は、彼女の腕にそっと手を置いて、だけど目線は僕から離さなかった。
なつか、と呼ぼうとして、口から血が吹き出した。
先刻の、仄暗い目で僕を睨んでいた時の失望とは、別だった。
鋭い夏の日差しのような、熱く、焼け付く、美しい──
それは、美しい夢からの、鮮やかな失望だった。
感光されたフィルムが、散る。
そして夏香は、僕が死んでも、来世でも忘れそうにない声で、僕に呪縛の言葉を言い放った。
「そういう人だったんだね、彰」
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