20.屋上からの眺め
屋上は日中の数時間しか解放されていないため、そこに続く階段もそのわずかな時間しか上れない。実際に行ったことはなかった。学校から帰って病院に寄った頃にはすでに締め切られていたからだ。
階段の先に、鉄のドアがある。押し開けると、外には冷たい風が吹いていた。
視線の先に、黒い人影がたたずんでいる。
「時空をゆがめているのはあなたなんですか? 俊平さん」
影は答えず、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「どうしてこんなことするんです?」
少し近づいて、明文は影に聞いた。透き通った輪郭が徐々に細部を現す。
青木俊平。それが生きた人間ではないことは、もう明らかだった。
死神には表情がなかった。顔色は青白いを通り越して緑色にも見える。落ち窪んだ眼窩に二つの瞳だけが、ビー玉のように光っている。
「それはこっちの台詞だよ。どうしてキミは俺を追ってきたんだ? ちゃんと復讐は完了したし、しかも俺はキミに、本来はいらん記憶までわざわざ返してあげたじゃあないか。それで手打ちだ。別にもうキミに危害を加えようとか、代償として寿命をいただこうとか思ってないよ。死神のなかではもっとも良心的なほうだと思うんだけど。なのに変な祓い屋の人たちと手を組んで、俺をやっつけにくるなんて、理解できないね」
はあ、とため息をついた男は、おおげさに肩をすくめた。
「凜華さんに祓われなかったら、あなたは僕に取り憑き続けたんじゃないですか。それに、僕のような弱い心を持った人間がまたふらりと病院に現れたら、あなたはまた呪いを持ちかけるんでしょう」
凍えそうな風に吹かれながら、明文は声を張った。
「僕はこれ以上、自分のような人間を増やしたくないだけだ。他人を呪っても、弱らせて苦しめる力を手にしても、なにも変わらなかった。どうでもいいやつらがこの世から消えた。それだけだった。世界は、なにもよくならなかった。だって、失われたものは戻ってこないから」
冷たくなり始めた指先で、消しゴムをぎゅっと握った。
「挙句の果てに、呪いなんてやめろって、小学生の子にまで諭されて」
紫珠の霊が自分を必死で止めていた事実を思う。
憎しみに任せて自分のしたことは、間違っていたのだ。
「それで……そんな過ちを経て僕は、ようやく思えました」
恐ろしい死神の姿を、まっすぐに見据えて、明文は言った。
「あなたのことも、救いたいって」
「なに言ってんだ」
死神は、めくれ上がった唇に乾いた笑いをこぼした。そして吠えるように語りだす。
「俺の人生は生まれたときから他人に決められ、型に嵌められて、クソつまんねーことばっかりだ。最低最悪だったんだぞ! 親はどっちもクソ並みの脳みそしか持ってない。特に親父はとんだDV気質で、子どもを人間と思ってないサイコパス野郎だ。たしかにな、お前の言う通り復讐しても呪っても、世界はなんにもよくならないよ。だって死んでからも俺の境遇は変わらない。負け犬、負け犬、負け犬としか呼ばれない人生だったことに、変わりはないからな!」
俊平が言い放った言葉は、寒空にむなしく響く。
「あなたの人生のわずかなページですが、見せてもらいました」
走馬灯のように一瞬見えた幼い俊平の記憶をたどる。
「とても胸が痛かった。自分なら、とうに耐えられないような仕打ちだった。どうしてこの家ではこんなことが、まかり通っていたのだろうって、思いました。学校はなにを——」
言いかけた明文の言葉を、俊平の嘲笑が遮る。
「ははっ、学校? 学校なんて。愚鈍な教師どものたまり場だろ? 最初からそんなものあてにしてない」
「いいえ、ほんとうは僕らが、あなたにほかの道もあるってことを教えてあげるべきだった。そうやって綱渡りみたいな人生からあなたのことを解放できたはずなんです」
俊平にはこちらの言葉が全然響いていないようだ。
「だってあなたはつまらない大人の言うことを聞かされた、被害者だ。その通りですよ。だれかが助けなきゃいけなかった。愚鈍かもしれないですね。たしかに。でも僕は、まだあなたを救いたいと思っている」
「教師としてか? バカバカしい。だいたいおまえにそれ言う資格あるか?」
彼はゆっくりと、屋上の柵に近づいた。背丈よりも高いその頑丈な鉄柵は、乗り越えることはできまい。
「そうですね。えらそうに、なにをって思います、自分でも」
明文も、それに倣って柵のほうへ寄った。三階の屋上は見晴らしがいいというわけでは決してなかった。眼下には青木家の屋根が見える。青木俊平にとってはこの病院と、あのちっぽけな家が、世界のすべてだったのだろう。だけど少し顔を上げれば、入り組んだ路地がさまざまなルートで大通りに出る。そうしてどんな道筋でも、どこまででも行ける。
「ただ、大人には見えないこともあるけど、大人にならないと見えないことだって、あるんです」
「僕が教師になったのは、きっと紫珠のことがあったからです。もうそんなはっきりとは覚えてないですけど、小学生の頃の自分には明確な夢とか、目標とか、なかった」
ぽつりぽつりと、自分の話が口をついて出る。
「いろんな事情を抱えた子たち、ひとりひとりとかかわりたかったから。僕は教師になろうと思ったんです」
俊平のほうを見た。
「あなただってそのひとりです。そんな見た目をしているけどほんとうは、子どもじゃないですか。その姿はあなたの理想。いや、あなたの周囲があなたに押し付けていた理想の姿です。ほんとうは逃げ出したかったって。言っていいんですよ、もう」
俊平は、無反応だ。届いているのか。それとも死神には、こんな説得は効果がないのか。だけどどうしても伝えたかった。伝えなければ、彼はいつまでたってもこの場所に縛られ続けるだろうし、救われないだろうから。
「ねえ俊平さん。いや、青木俊平くん。キミはもう執着しなくていいんだよ、この場所に。病院に、いなくていいんだ。もう青木病院はないんだから。キミは……自由なんだよ」
明文の放った言葉が風に吹かれて消えていく。それとともに、目の前の死神の姿が若返っていった。
スーツ姿の痩せた中年男性は、頬にふくらみと、しだいに血色を取り戻す。目の異様な輝きが失せていき、
「……そうか、そうなんだ」
あどけない顔つきに、どこか寂し気な笑みを浮かべる。
「もう成績悪くて怒られることはないの?」
「ないよ」
私立進学校のブレザー姿から中等部の学ランへ、。
「もう宿題終わらないからご飯食べさせてもらえないこともない?」
「ないよ」
しゅるしゅると風船が萎むように体が縮む。あっというまに完全な小学生だ。
「俺こんな、出来損ないだけど、自分のこと人間って思ってていいの?」
明文は少年を安心させるように膝に手をつくと、目線を合わせて、笑みをつくった。
「人間だよ。だってこんなに傷ついて、そのたび考えて、乗り越えて、がんばってきた。俊平くんは人間以外のなにものでもないよ」
そっかあ、と少年は安どのため息をつく。つられて明文も微笑んだ。
「それなら、さ」
にやり、と子どもの俊平がこちらを見上げて不意に笑った。
「俺と一緒に、空飛んでよ」
ぞっとする間もなかった。
「がっ」
子どもの力とは思えない体当たりが、明文の身体を鉄柵に押し付けた。
柵はおもいのほか老朽化していたらしく、がこんと重たげな音を鳴らして、一部外れて傾く。抵抗しにくかったのは、左手が三角巾でつられていることに加えて、右手に消しゴムを握りしめていたせいだ。だけど絶対に、紫珠からもらったそれを放すわけにはいかなかった。落ちても。
俊平に押し出される形で、明文の身体は宙に躍り出た。
——視界が反転する。
「ぶんたろおおおおおお!」
野獣のような声が突如、寒空に響き渡った。
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