#15 無いはずの記憶

「……野良猫かな?」

 濫の視線の先で、ツツジの低木が揺れていたらしい。

 藪蛇という言葉の藪をイラストにした時みたいな大きさと形の藪に隠れられるのなんて、それこそ蛇か、最大でも猫までだろう。

「何、猫苦手?」

 野良猫の影を見かけたにしては、随分と剣呑な声色だった。

 まるで、すとんと感情が抜け落ちているかのような声なのに圧を感じないのは、若さを感じる丸い声質のおかげか。

「そんなことないよ、犬も猫もどっちも好き」

 顔の前で手を振った彼の、服の袖から落ちた何かを目で追ってしまう。

 拾っていた破片が服に入り込んだのかと、落ちた先にあった半透明のそれを摘み上げた。

 鱗だ、半透明で、俺の親指の爪よりも大きいサイズの鱗。

「知り合いに人魚でも居んの?」

 鱗を指ではじくと、あからさまに濫は俺から視線を逸らした。

 幽禍かすかは足が動かないけれど、鱗は生えていなかったはず。

 眠留みんとは上手く話せないこともあるけれど、そもそも彼方者あっちものでは無いし。

 レモンは俺が知っている限りでは彼方者あっちものでは無いはずで、他の交友関係を俺は知らない。


「……僕がそうだよ」

「え? お前、彼方者あっちもの?」

「蘇ってないから彼方者あっちものではないんだよね。強いて言うなら水神の半神」

 彼方者あっちものに生殖能力が無い以上、生まれつき人から外れている場合の原因は二択だ。

 親が呪われているか、親の片方が八百万の神である場合。

 半神なんて名乗っている時点で、濫は後者らしい。

 全国各地に神へ生贄として捧げられ嫁入りする伝承が残っているのは、昔から一定確率でそれが発生していたからであって。

 水神なんて単語を耳にしてから彼の本名と活動名を思い出すと、薄っすらと線で繋がったようにも感じられる。


 水侑みゆうなんて名前をつけられた意味が、氾濫の濫を名前に使った意味が、本当に水と共に有る人だからだとすれば。

 あの部屋で見せられた、香水を使った呪術だって、おおよその説明はついてしまう。

 人間にそんなことが出来るなんて初耳だった、術者が人間では無かったとしたら?

 あの部屋に並んでいたのは香水だった。

 練り香水やポプリでは意味が無く、重要なポイントはアルコ―ルでもなく、香り付きの水である必要があったのだとすれば。

 

「見てこれ、生まれつきなの」

 彼が捲って見せたのは右袖で、半透明の鱗が生えていた位置は俺の腕の鉱石の位置とほぼ同じだった。

「利き手だからなのか、右腕が一番派手なんだよね。左腕はすべすべだよ、ほら」

 両袖を肘辺りまで上げた状態で鱗を見ると、そういうデザインのフリルがついたインナーだと誤魔化せそうな気もした。

「成人すると水神になっちゃって、陸で生きれなくなっちゃうんだよね。だから、定期的に体の時間を巻き戻してる」

「病院に居たのはそれ?」

「そう、定期健診って名目の、アンチエイジング」

 確かに老化には抗っているけれども。

 アンチエイジングだとこうやって咄嗟に茶化すような言葉選びを出来る彼は、精神的には随分と年上に思えた。

 三歳児からすれば何歳でも遥かに年上なのはさておき。


「そのアンチエイジング、記憶は……?」

「消えてるよ。巻き戻した分、新しい記憶は消える。だから、大抵のことはメモを残してるし、録音もしてる」

「ああ、この前、お前の家で話した時、録音したっぽい音聞こえてた」

「えっ、耳良いね。配信はアーカイブが残ってくれるから楽なんだけど、それ以外だとどうしてもね……あ、この話は内緒ね」

 青春の曲が似合う声、圧を感じない若々しい声。

 確かにそんな風に認識はしていたけれど。

 俺が容姿から年齢を認識出来ていないだけで、きっと濫の容姿は高校生そのものなんだろう。

 VTuberのガワとして年齢を成長させていないだけでは無くて、彼自身が高校生から足踏みをしている。

 何がその人をその人だと定義していると思うか。

 それが記憶だったら、彼は定期的に別人になってしまうな、なんて。

「内緒って、この話を知ってる奴は誰で、知らない奴は誰」

「えっとねえ、演者に話したのは初」

「オッケー、俺の知り合いは誰も知らない、了解」

 狭すぎる交友関係も相まって、何も考えなくてもいいのは却って楽だった。

 眠留みんととは他の演者の情報を共有しているとはいえ、眠留みんとへの隠し事に対して別に心が痛む訳でも無いらしい。


えにしってさ、なんでも飲み込むよね」

「何、急に。食べ物の話?」

「ううん、僕のことを疑ってる様子があんまり見えないなって。嘘ついてるかもとか思わないの?」

「嘘をついていたとして……別にいいよ、それで」

 言い方がなんだかズレている気はしなくも無かったけれど、他に心情を表す的確な言葉を思いつきそうにも無い。

「はぁ? 何それ」

 少し口調のきつくなった彼と、彼の口調が若干移った俺で、ちょうど口調が逆転していることが妙におかしかった。

「何かが嘘でも、何か隠してたとしても、お前が俺に伝えたいことはそれなんだろ。なら、それでいいよ」

 きっと、信頼と不信と無関心が、ほんの紙一重。

 世界や他人に対して、薄っすらと不信感を抱いていると同時に、守られるような立場であるという自覚もあった。


「逆に、えにしは僕に何か聞きたいことないの?」

「え、無い」

「聞きたいことないの? なんにも?」

「それはもう言わせてるじゃん」

 あまりにも無関心だと、それは嫌いと同義であるような気がして。

 でも、きっと俺は恐れているんだろう。

 子どもには話せないとされる、自分には見えない線引きみたいなものを。

「えーじゃあ、ずっと高校生続けてるっぽいけど、実年齢は?」

「今年何歳だったかな……百は超えてる」

「ジジイじゃん」

 つまりこの場に居るのは、外見年齢が高校生相当の百歳と、外見年齢が二十代相当の三歳。

 人間って見た目からじゃ分からないものだな、どっちも人間とは言い切れないけれど。

「あれ? 高校生の体で酒飲んでる?」

「まあまあ、他国だと十八歳からオッケーのところの方が多いから。それに、実年齢や戸籍なんかは百歳以上だから、何の法律違反でも無いよ」

彼方者あっちものや神関係の年齢に対するシステム、ガバくね?」

「イレギュラーに全然対応出来てないよね。まあ、だからえにしと組みたかったんだけど。なんか、えんがあるなあと思って」

「理由としては今までで一番しっくり来たわ」

 実年齢と外見年齢が無茶苦茶な奴同士、妙な親近感というか。

 急に、目の前の男が身近になったような気がした。


「終わったら、勝手に帰っていいって家主さんには言われてるから、このまま次行くよ」

「この欠片どうすんの」

「袋ごとリュックサックに入れて持ち帰るよ。あ、僕が全部持つから大丈夫。えにし、体力無いでしょ」

「うるさ」

あまねがスタミナ無いのは知ってるもん。僕、彼が過労で吐いた時の現場に居たし」

あまね? あ、兄貴か」

 美甘周みかもあまね美甘縁みかもえにし

 自分たちの本名を忘れることは流石に無いけれど、俺の中で兄貴のことを思い浮かべた時に先に出る名前は眠留みんとの方だった。

 あまねという名前は、あまり良い心地がしないというか。

 周囲に合わせろ、周囲を伺えと常に何かへ怯えながら声を押し殺している生の名前だと思うと、あまりにも残酷な気がしてしまう。

 それに、他人を呼んでいる気がしない。

あまねって聞くと、一瞬自分が呼ばれたような気になるんだよな」

「あー。えにしには、生まれる前の記憶みたいなものがあるのかな?」

「若干ありそう。生まれる前にも生きてたみたいな。変だなこの日本語」

 例えば、幽禍かすかこと伴紗鳥ばんさとりが、美甘周みかもあまねに対して結構ぶっきらぼうなタメ口で話すことを、兄貴へのそれとしてではなく、まるで自分と彼のやり取りかのように覚えている。

 彼は幽禍かすかだと意識していないと、紗鳥さとりの態度との違いに戸惑ってしまう。

 それはきっと幽禍かすかも同様で、だから積極的に俺と関わってこないし、頑なに敬語で話すんだろう。

 まるで、幽禍かすかは俺が生まれる前から、俺の事を認識してた、みたいな。

水侑みゆうは」

 濫は、眠留みんとが吐いた時に居合わせているなら、俺が腫瘍だった頃に俺と会っているはずだ。

「僕が、なに?」

 昔俺と会ったことがあるか、なんて意味の分からない質問をしようとして、喉で唾とまとめて飲み込んだ。

「……いや、見た目高校生と中身三歳児で組んだって、行ける場所は増えなくね?」

 話を逸らしがてら、ちょうど思いついた疑問を舌に乗せる。

「増えなくていいんだよ。僕の見た目で行けない場所は、僕の管轄外なんだから。セクキャバとかが捜査範囲から外れる分、ちょっとはえにしも気楽じゃない?」

「せくきゃばって何」

「そっか、そうなるのか。いきなり三歳児見せてきたね。キャバクラって知ってる?」

「女性と酒を飲むところ」

「行ったことは?」

「あるわけないじゃん」

 高校生らしい水侑みゆうの口調が、年下を揶揄う時のようであることは正直解せなかった。

 俺の経験は俺自身の生まれてからの年数に比例して少ないものだけれど、知識は違う。

 外見と同じく二十年間は生きてきた眠留みんとと共通しているもので、つまり兄貴がそれらに対する興味をほとんど持っていないというだけの事実がそこにあった。

 まあ、弟ともロクに目が合わないような奴が見知らぬ異性との飲酒を楽しめる訳も無いか。

「おっけー、この話やめよっか! 次に行く場所、ネイルサロンだけど大丈夫? 行ったことある?」

「ある訳なくね?」

「だよね。僕はせっかくだから爪を着けて貰うつもりだけど」

「キーボードを弾く時に邪魔になりそうだから絶対に嫌」

「だよね! えにしの分はネイルケアだけのコースにしておいたから」

「マジで……」

 本当は、別にネイルは嫌じゃない。

 黒いネイルを自分で塗ったことだってあるくらいには。

 他人に触れられるのも嫌だという可能性まで選択肢に入れるのは、流石に無茶だったらしい。

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