第26話 尻をかじる

 水影みなかげは、王宮の外に付属する王立図書館で、月の世の文献を開いていた。月の世には独自の言語が存在するも、最近、その文献の幾つかが、漢文で書かれていることに気が付いた。そこで得る知識を基に、月の世の言語や習慣、歴史を紐解いていく。清閑とする図書館で、じっくりと文献を読み進める中で、再び記憶が過去へと遡っていった――。

 元服後、初めて水影は敬福祭きょうふくさいに参加した。去年、安孫あそんが魅せた弓中ゆみあてにて、兄と共に競い合う。まだ年端もいかぬ幼い帝の前で、次々と的にを当てていくが、真ん中を的中させていく安孫に、貴族、武家ら観衆から歓声が上がる。その中で、兄、実泰さねやすが的を狙うが外してしまい、武家から嘲笑が上がった。

『おや、実泰殿は、年々弓中てが御下手になられまするなぁ? やはり御貴族様には、武芸など難しゅうございましょう。御貴族様はただ、蹴鞠や舞を嗜まれておれば宜しゅうございますれば、日の下一の武人と名高い春日家には、遠く及びませぬなぁ?』

 武家が貴族を貶めるなど論外であったが、現帝を庇護し、その血が武家、春日家の流れを汲む世に於いて、各武家一門、禁中行事に於いても調子づいていた。

口惜くちおしや……』

 そう実泰が呟いたのを、水影は隣から聞いていた。悔しさに矜持を砕かれた兄を鼓舞しようとして、それが何になるのかと、水影はぐっと口を噤んだ。

『御気になされますな、実泰の兄上。勝負はまだ着いておりませぬぞ?』

 そう鼓舞したのは、心強く笑う安孫だった。はっと顔を上げた水影が、その武勇の誉れを一身に受ける姿に、一層の悔しさを滲みだした。

 結局、兄、実泰はその敬福祭以降、人前に出ることはなく、帝の前で打ち砕かれた矜持を取り戻せずにいた。自室に籠ってばかりいる兄に、双六遊びをしようと誘っても、『せぬ』の一言で、いつしか名門三条家の跡継ぎは、屋敷籠りとして揶揄されるようになった――。

 水影が文献に目を通す。『屋敷籠り』という言葉が、月の世では『引きこもり』と言い表すと知り、「正しく、引きこもりの困った兄上ぞ……」と呟いた。そこに、煩わしい声が聞こえてきた。硝子ガラス張りの向こうに目を向けると、何やら庭園で飛び跳ねる、巨漢の姿があった。

 醜態を晒す安孫に、「はあ」と水影が溜息を吐く。図書館を出た水影が、懸命に何かを追う安孫を、呆れながらに見つめた。

「何をされておいでか、そんそん殿?」

「水影殿! いえ、実は白兎を探しておりましてな……!」

「白兎? 何故に?」

吃逆しゃっくりにございまする! 百回の内に止まらぬと、それがし、死に絶えるのでございますればっ……!」

 ようやく見つけた白兎を捕まえようとして、安孫が顔から地面へと突っ込んだ。

「はあ? 吃逆如きで人が死ぬはずがございませぬでしょう? 大凡、の小さき王女に、誑かされたのでございましょう?」

 そう言って水影は、優雅に紅茶を飲むルクナンに目を向けた。

「されど、あちらが世とこちらが世では、迷信もまた違いますれば、万一のことがあらば、主上しゅじょうに顔向け出来ませぬゆえっ……!」

 逃げる白兎を安孫が本気で追い回す。聞く耳を持たない安孫に嫌気が差し、水影は図書館へと戻っていく。

「ぎゃあ!」

 兎に翻弄される安孫から、男らしからぬ声が上がり、「はあ」と水影が呆れながら吐息を漏らした。振り返り、「尻ですぞ」と助言する。

「尻? ああ、成程っ……!」

 助言を受け、閃いた安孫が、ようやく白兎を背後から捕まえた。

「流石水影殿にございまするなぁ!」

「無暗やたらと、正面から捕らえんとしても無駄にございまする。『追い回し』は、尻をかじるが勝ちにございまするからな……」

 素っ気なく言って、水影は再び図書館へと歩き出した。

「御待ち下され、水影殿!」

 白兎を持った状態で、安孫が近寄ってきた。構わず水影は歩き続ける。

「某、しかと水影殿と向き合いとうございまする! 幼き頃より、某と水影殿には、何やら目に見えぬ確執なるものが在るように存じまする。もし某が過去に水影殿を怒らせたのであらば、しかと謝りとうございますれば――」

「御黙りあれ」

 立ち止まった水影が、無表情で安孫を見上げた。

「怒ってはおりませぬ。ただ貴殿が気に喰わぬだけのことにございますれば、深く私に関わらぬよう、御願い申し上げまする」

「水影殿……」

 再び歩き出した水影を、安孫の手から抜け出した白兎が追い掛ける。ピョンピョン飛び跳ね、その勢いで水影の尻にかじりついた。

「ぐっ……!」

「水影殿!」

 慌てて安孫は水影から白兎を引き離すと、「大事ございませぬか?」と訊ねた。

何故なにゆえ兎が私の尻を……?」

 白兎がその鋭利な前歯を見せ、水影を威嚇する。

「ただの戯れにございますれば、落ち着き下され、水影殿」

 白兎は安孫の前ではしおらしく、小動物的可愛さを前面に押し出す。その急変する態度に冷静さが引き、水影の顔に黒い影が差した。

「ほーう、上等じゃねえかっ……」

「水影殿っ?」

「はあ。無意識にございますれば、もう私には関わらぬよう、御願い申し上げる!」

 そう言い放ち去ろうとした矢先、王宮の外で爆発音が聞こえた。鎧を身に纏う警護隊が招集され、爆発現場へと急ぎ向かっていく。その状況に、安孫は庭園内にいた主の下へと走った。

「何やら不穏な状況にございますれば、るくなん王女殿下は、一先ひとまずお部屋へとお上がり下され」

「けれどもっ……王宮の外で何が起きているの?」

「今はまだ分かりませぬが、今日は某、王女殿下の護衛にございますれば、この身を呈し、必ずや貴方様をお護り致しまするゆえ、さあ、お早く」

 そう小さな王女に忠誠を誓う安孫の姿に、ぐっと水影が顔を顰めた。

「何やら外が騒がしいのう、水影」

 主の登場に、「左様にございますなぁ」と冷静に答える。

「鎧の兵らが事の次第を調査するゆえ、我らは静観といくかのう?」

 そう言いつつも、王宮の外の出来事に興味を示す主に、「ほんのちぃとばかり、遠くより御見聞されるのであらば」と、水影は付き合う姿勢を示した。

「流石は我が瑞獣ずいじゅうぞ。王宮内に不穏を持ち込まれても困るでな。我らも参るぞ、安孫」

「は」 

 本来の主の命に従って、安孫もまた、朱鷺ときに続いた。


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