「スイーツに堕ちよ!」とハーレクインは言った。
野墓咲
第1話 コカ・コーラ事件
これから語られる話はいわゆる革命の話だ。
革命とは国家に向かって放たれた一発の弾丸だ。
その弾丸のもたらす効果は不可逆であり、破壊されたものは二度と元には戻らない。
ある男によって放たれた弾丸はこの国を変えてしまった。
男の名はハーレクイン。
自ら道化役者を名乗るその男は、異端者であり、革命者であった。
また、アナーキストであり、愛国者でもあった。
一部の命知らずの民衆は彼を英雄と称えた。
だがその破壊の結果について話す前に、まずは始まりについて話さねばならない。
その日、横浜市のC地区では昨晩からずっと雨が降っていた。
その為、健康管理飲料水の配達員は雨避け用のフードを被っており、その顔を見たものは僅かに数人だった。
その内の一人である後藤加奈はC地区の精神病院で看護師を勤めていた。
早番であった彼女は前日、6時に出社し、15時に退社した。その後0時に夜勤者として出社し朝まで働いていたため、帰路についたのは8時だった。
彼女は疲れて果てていた。
患者のための提案や報告をしても否定的な事しか言わない主任。嫌味ばかりの同僚に、直ぐ暴言を吐く先輩看護師。性器を見せてくる男性患者。
毎日必死に働いているにもかかわらず、誰からも感謝されず、否定されるばかりの日々の中、彼女の心はどんどん擦り切れていった。
彼女がマンションに辿り着いたとき、未だ雨は止まず、空は夜のように薄暗かった。
C地区のマンションは節電のため、8時になるとエントランスの電灯が消える。エントランスは足取りもおぼつかないほどの暗さだった。彼女は早くベッドに倒れこみたいという欲望に捕らわれるあまり視野が狭くなっており、集団ポストの前にいた配達員にぶつかって床に倒れた。
「ご、ごめんなさい」
反射的に謝罪の言葉が出てきたが、自分に何が起こったか彼女は分かっていなかった。
ただ訳もなく涙が零れた。
涙でゆがむ彼女の視界に手が差し出された。
初雪のように白く、美しい手だった。
「大丈夫ですか?」
フードを被った配達員が心配そうに彼女を見ている。
彼女は救いを求めるようにその手を握った。
その手には石膏のような、優しい冷たさがあった。爪も整っていて、パールのように輝いている。
その手を取って立ち上がると、彼女は涙をぬぐって笑って見せた。
「大丈夫です。こちらこそすいません、前を見てなくて」
青年がフードを脱ぐと、そこに現れたのは青い空のような透き通った目をした銀髪の青年だった。彼女はこんな美しい男を未だかつて見たことがなかった。
「何処にも怪我はないですか」
「ええ、大丈夫よ」
彼女が何処にも怪我はないという風に両手を広げてみせると、それに応えるかのように青年の顔に妖精めいた微笑みが浮かんだ。
「ああ、よかった。申し訳ありません」
ふさふさとした銀髪をかくと、彼は保健機関の十字のマークがついたバックから黒いボトルを取り出した。
「これ、どうぞ」
「それは?」
彼女はそのボトルが何時も保健機関から配布される健康管理飲料水とは違うものであることに気づいた。黒い飲み物が中に入っているのは同じだが、ラベルが赤く筆記体で文字が書かれている。
「新商品です。とても美味しいですよ。疲れた体に効くはずです」
ペットボトルを受け取ると彼女は笑った。
「私、そんなに元気なさそうでした?」
青年はちょっと黙った後で、遠慮がちに微笑んだ。
「ええ。だからこれを飲んで元気になってくださいね、お姉さん」
青年の顔に一瞬、えくぼが浮かんだのを見て、彼女の中でここ数週間の疲れも、未来に対する不安も消えた。
今ここにある、青年とのやりとりが彼女の全てになった。
おそらく目の前の青年は20代になったばかりだろう。幼さが残る、どこかぎこちない、でもだからこそ他意のない純粋な笑顔。丸みを帯びた少年の輪郭。そして、そのような自分より10は若い青年に言われる「お姉さん」の響き。
「それじゃあ、お仕事頑張ってください。お姉さん」
青年は白い歯を見せるとその場を去った。
彼女は青年の姿が消えるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
彼女の心は幸せで満ち足りていた。
人生とはこんなにも甘美なものだったのか!
足取り軽く部屋に戻り、玄関のドアを開けるとすぐに彼女はペットボトルのふたを開けた。舞い上がっていた彼女はペットボトルを開けた時のガスが噴出するような音を聞き逃した。
液体は口に入れた瞬間、爆発した。
彼女は直ぐに部屋の非常ボタンを押すと、非常勤務のオペレーターに「毒を盛られた」とだけ言って気を失った。
管理会社は警察に通報し、それから警察から保健機関にこの件が伝えられた。
彼女は近くの病院に搬送されたが、すぐ目を覚ました。あらゆる検査が行われたが、どこにも異常は見られなかった。
その後、保健機関によって飲み物の成分が調べられた。
それは今は禁制となった添加物数種と、果糖ブドウ糖液(言うまでもなくこれも禁制だ)やカフェイン(これは問題ない)などを原料とした液体を炭酸で薄めたものだった。
つまり、直ちに健康被害を出すようなものではないとはいえ、立派な毒物だったのである。
アフリカ産の薬物が由来となっているその飲み物はかつてこう呼ばれた。
コカ・コーラ。
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