第十一話 憂鬱の停滞
閲覧室は図書館の角に位置しており、直角を成す二面は腰よりも高い部分がガラス張りになっている。外を見ると、そこには噴水のある大きな公園が広がっていた。
ガラス張りの面はだいたい南の方角を向いているので、天気が良ければ電気をつけなくとも十分な光を取り込むことができそうだが、今日は生憎の曇り空なので、室内の蛍光灯がその代わりを担っている。
灰色の染みのような雲が広がっている空を眺めていると、そぞろに気持ちがふさぐような気がして来る。午前中の調査でたまたま〝私〟が加納紀美子を自殺させてしまった事実が彼に露見してしまったことが思い出され、思わず眉間に力がこもった。
一応彼の方でも〝私〟が自殺を選び続けて今に至っていることは了解している。だが、実際に誰を死なせてしまったかが共有された今、その重みは一段と大きくなってしまっていた。
「ただいま。飲食オーケーだってさ」
一階のカウンターに飲食の可否を聞きに行った彼が、戻ってきてドアを開けながらその結果を報告した。十中八九飲食禁止なのだろうと思っていた私は純粋に驚きの表情を示す。
「ここ、普段から職員の昼休憩場所として使ってるらしくてさ、だから『資料を汚さないように注意してくれれば問題ないです』って」
随分寛容な図書館だなと思いながら、私はカバンの中から弁当箱を取り出し、新聞を広げているのとは違う机にそれを置く。彼も私の隣で道中で買ってきたと思しきコンビニ弁当の包装を剥がしていた。
作業していた時とは異なり、四人用の机の半分を占めるようにお互いに向き合って座る。作業中は隣に座っていた方が新聞の向きを変えたりせずに情報を共有できるのでそうしていたが、そういう実利的な理由がないのであれば隣に座る必要はない。寧ろ、〝私〟が彼の隣に座ってはいけないような気さえした。
「沙夜ってさ」
食事を初めてから少しして、彼が私に声をかけた。
「この前『虐待やいじめを受けてきた人にばっかり転生する』って言ってただろ? ってことは大森さんもそうだったりするの?」
突然の踏み込んだ質問に、私はどう返答すべきか迷ってしまった。彼は「答えにくかったら別にいいんだけど」と付け足したが、最終的に隠す必要もないだろうと結論した私は、それでも簡単には口にできない言葉を選び始める。
「確かに大森さんもかなり不幸な人だとは思います。学校ではいじめられるし、家に帰れば父親の暴力に合う生活を送ってました」
後半の部分は〝私〟が経験したものではないが、記憶を辿ればそれがいかに凄惨なものだったかはすぐに理解できた。私はその記憶に顔を歪めつつ先を続ける。
「そんな中で唯一の救いは母でした。ちょっと頑固なところはありますけど、すごく優しくて……乱暴な父から逃げようって提案してくれたのも母なんです。でも、父から逃げたあとは家計が火の車で……。毎日夜遅くまで働いてるのに、朝は私が起きる前には仕事に出かけてるんです。母は私の前では気丈に振舞っているんですけど、きっと体はボロボロなはずで……。いつか折れてしまうんじゃないかって、そう思うと怖くって……」
いざ口に出すと、母が壊れてしまうことへの恐怖が一気に現実感を帯び、それにすかさず〝体〟が反応して目元がじんわりと熱を帯びる。私は咄嗟にそれを手で拭いながら、まるで赦しを請うかのように弁解を始めた。
「変ですよね。〝私〟は本当は大森沙夜じゃないのに、まるで自分のことみたいに……。ごめんなさい。不快ですよね」
〝私〟は自分がとても罪深いことをしているような気がして、たまらず彼から顔を背けた。
今の〝私〟は、さも元からその〝体〟の持ち主であったかのように振舞っている。そしてそれは、〝私〟が五十沢幽だった時に彼に対してやっていたことと同じだった。そんな姿が彼にどう映るかなど、もはや考えるまでもないことだった。
長い沈黙が下りる。言葉だけでなく、箸を動かす音や、衣擦れの音すらもなりを潜めた。外からガラス越しに小さく聞こえるトラックのバックするピーピーという警告音がやけに騒々しい。
しばらくして、彼がペットボトルを掴んでその中身を一口喉に流し込んだ。そして飲み口から口を離すと、荘重な面持ちでゆっくりと話し始める。
「転生ってさ、アニメみたいに意識が違う人に乗り移ってその人の体を自由自在に操れるようになる――みたいなのを想像してたけど、よく考えたらそんなわけないよな」
彼が話し始めたのは、〝私〟に仕組まれた不幸な運命に関することだった。
「だって、その人の脳を使ってものを考えてるんだろ? だったらその人の考え方の癖とか、そういう影響があるって方が自然だろ」
彼はそう言ってコンビニ弁当の唐揚げを一口頬張ると、それを咀嚼し、飲み込んだ。
「だからその点について責めたりする気はねーよ」
彼のその言葉には大森沙夜として存在している〝私〟に対する優しさと、それ以前の〝私〟に対する怒りの二つが混在していた。「その点については」という限定が、彼の中に〝私〟に対する怒りが今もなお残っていることを厳然と物語っている。
今の〝私〟と彼の間には五十沢幽だった時にはなかった隔意があった。こうして一緒に行動していてもその溝が埋まることはないし、お互いにそれを無視することでこの関係は保たれている。やはりこの関係は健全ではないのだろう。もし五十沢幽を殺した犯人が見つかれば、きっとそれが〝私〟と彼の最後になるのだ。
いや、〝私〟と彼の――というのも少し違う。それは〝私〟の最後だ。二人の関係が終わるというのは、〝私〟を認識してくれる人がいなくなるということであり、〝私〟が再びこの世に存在しなくなるということを意味していた。
そんなことを考えていると、箸でつかんでいた卵焼きがボトッと弁当箱の上に落ちた。見ると、片方の箸が手から若干ずり落ちている。思索に耽りすぎて上の空にでもなっていたのだろうか。そう思いながら箸を持ち直した時、ふと邪悪なアイデアが頭を掠めた。
五十沢幽を殺した犯人がこのまま見つからなかったらどうだろうか――と。
もしそうなれば、たとえそこに埋まらない溝があるとしても、彼とずっと一緒にいることはできるかもしれなかった。ならばこの事件はずっと解決しないままの方が〝私〟にとっては都合がいいのではないか――
私はすぐさま頭を振り、突如として湧いた邪念を必死に追い払った。一体何を考えているんだ〝私〟は。それは彼に対する紛れもない裏切りだ。それだけは絶対にしてはならないことだ。〝私〟はそう自身に言い聞かせて戒める。
「さっき『いじめられてる』って言ってたけどさ、それってやっぱりこの前一緒にいた女子たちに?」
私の胸中を知る由もない彼が話をもとの路線へと引き戻した。彼のその問いは、質問というよりはほとんど確認に近いものだったので、私は観念して「はい」と答えることにした。
「やっぱみなみ達かよ。幽がいなくなったら次は――ってことか。ホント救いようねぇな」
彼は腹立たしそうにそう吐き捨てた。厳密に言うと大森沙夜をいじめているのは石本みなみではないが、訂正しようがしまいがそこに大差はないだろうと思い、私はあえて何も言わなかった。
「まぁでも、しばらくはあいつらも迂闊には動けないだろうな。なんせ今は学校側が問題の芽を摘もうと躍起になっているわけだし」
もし彼の言う通りになるのなら、それは怪我の功名というものだろう。私としては、いじめられていたことが母にばれて余計な心労をかけてしまうことになるよりも、膠着状態が長く続く方が都合が良かった。
弁当箱に視線を戻し、そこで私は箸を動かす気がもうないことに気がついた。気圧が低いせいか、いまいち食指が動かず、私は弁当を半分残した状態で箸を置く。
「ん? もう食べないのか?」
「なんか食欲湧かなくって」
「体調悪いとか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
私は水筒に入れてきたお茶をコップ型になった蓋に注ぎ、それを一口含んだ。ほうじ茶の香ばしい風味が鼻を抜け、一瞬気分が落ち着くような感じがする。
「じゃぁそれ、俺が食ってもいい?」
「え?」
「コンビニ弁当じゃちょっと物足りなくってさ……」
彼は頬を人差し指でポリポリとかきながら少し気恥ずかしそうにして言った。
「味の補償はしませんよ?」
「それは大丈夫。俺、大抵何でも食うし」
「はぁ。ならどうぞ……」
私はそう言って弁当箱を手でスライドさせ、彼の方に差し出した。彼は私にお礼を一つすると、やにわにそれへと箸をつける。
「え、めっちゃうまいじゃん」
彼の発したその一言に、私は一瞬どきりとした。彼はそうとは知らないが、それは私が作った弁当なのだ。
「ごちそうさまでした」
あっという間にそれを平らげた彼はそう言って律儀に手を合わせるのだった。
午後の作業は十四時から再開された。ひとまず今年の分だけでも今日中に終わらせようと秘かに目標を立てた私だったが、いざ新聞に向かうと午前中のような集中力を発揮することができず、何度もこめかみを揉むことになった。
同様に、隣の彼の方も相当に疲れているらしく、時折ぼーっとしているような様子を見せては、突然何かに気付いたように目を見開き、再び新聞に食いつくというような動作を繰り返している。
そんな様子なので、作業の進度は午前中よりもはるかに悪く、そろそろ片付けねばならない時間が近づいてきているというのに、進捗としてはやっと今年の一月分の新聞に手を付け始められたかといった具合だった。
「あ。これって午前中に言ってたやつじゃね?」
ひたすら新聞に目を走らせ続ける行為に徐々に虚無感を感じ始めたころ、遂に彼がそれを打破する声を上げたので、私は思わず彼の方へ身を乗り出した。
「行方不明になった南高の生徒、『探しています』って、行方不明者として新聞に載ってるぞ。寺嶋満月っていう女子生徒らしいな」
彼が指さしたところ見てみると、そこには行方不明になった女子生徒の顔写真があった。それを見て私ははっと息をのむ。そこにはまだ〝私〟の記憶に残っている人の顔があった。
「この人、知ってる……」
「え? まじ?」
驚く彼に、私は一瞬説明するのを躊躇った。なぜなら、それを説明するためには午前中に場の空気を凍らせたあの名前を出さなければいけなかったのだ。
だが、私は覚悟を決めて口を開く。
「〝私〟が加納紀美子だった時に何度か会ったことがあります。加納紀美子は保健室通いだったので、よく保健室に来ていた人は印象に残ってるんです」
「つーことはこの寺嶋満月って女子は病弱だったのか?」
加納紀美子の名前を出しても全く動じず、平然と質問を返してくる彼に、身構えていた私はちょっとだけ拍子抜けしてしまった。
「いえ、どちらかというと怪我をして保健室にくることの方が多かった気がします」
「いなくなった日が十二月末ごろって随分曖昧な表記なんだけど、なんか思い当たることがあったりとかは?」
「思い当たること」とは言うものの、もう加納紀美子の〝体〟ではない以上思い出すという行為は不可能だった。そのため〝私〟にできることというのは、〝私〟が覚えていることを俯瞰し、主観的な意見を述べることに限られる。
「〝私〟が覚えている範囲では特にはないですね……。年を越してからあまり見なくなったなって印象はありましたけど、そのころからいじめが過激になってきたので、〝私〟――じゃなくて、えっと……加納紀美子は不登校気味になってたんです。だからそのせいで寺嶋さんと会う機会も減ったんだろうって思ってました」
五十沢幽を他人として呼ぶことには大分慣れてきたが、加納紀美子に関してはまだ〝私〟として扱う意識が色濃く残っているので、私はつい口をついて「〝私〟」と言ってしまった。
しかし、彼はそれについても特段気にすることなく会話を続ける。
「ったく、どこの学校にもしょーもねーことする奴らがいんのな」
いじめという行為に対して世間は一般に単に罵声を浴びせたりだとか、非道徳的だとかいった類の評価を下す。しかし、彼はいじめという行為を「しょうもない」と評価していた。私はそんなところがなんとも彼らしいなと思わされる。
「ところで、これって五十沢さんの事件と何か関係が……?」
「あー……うん。俺らは幽の件を殺人事件として調査してるけど、世間的に見れば幽はまだ行方不明って扱いになるだろ?」
彼にそう言われるまで〝私〟は五十沢幽が世間からは行方不明者という扱いを受けることに考え至っていなかった。いわばそれは、当事者である〝私〟だからこその盲点だった。
「だから高校生の行方不明事件繋がりって可能性も――と思ったんだけど、まぁ寺嶋満月は普通に考えれば家出なんだろうな」
肩をすくめつつ、彼は惰性的な手つきで寺嶋満月に関する情報提供を求める記事を写真に収めた。私はその様子を眺めながら、去年の年末に起きた寺嶋満月という女子高生の行方不明事件が、五十沢幽の事件と関係しているなんてことがあるんだろうかと考える。
パッと調べてみたところによると、この国の行方不明者は十代に限っても一年あたり一万五千人もでているらしく、誰かが行方不明になるなんていうのもそんなに珍しい話ではない。そのため、少なくとも寺嶋満月の行方不明に事件性を見出せない限りは、それと五十沢幽の事件を結び付けて考えるのは強引と言わざるを得なかった。
「しっかし……今日一日使って今年の分が終わらなかったってマジ?」
閉館時間が迫り、新聞を片付け、段ボールの箱を閉じた彼が引きつった笑いを浮かべながらそんな愚痴をこぼした。私も彼と同様の気持ちで段ボールを見つめながら、犯人を捜すということがどれほど途方もないことなのかを身をもって痛感していた。こんな調子では淡い期待込みで読み始めた推理小説も、何らヒントを与えてくれることなくいつもの娯楽に堕してしまうだろう。
そもそも推理小説における王道とはクローズドサークルだ。外部と隔絶された小さな空間で、限られた人間たちがお互いを疑い合うという状況が読者に好まれる。だが、現実ではそんな都合のいい状況はほとんど発生しない。実際に起きる事件というのは言うなればほとんどがオープンドサークルだ。無限に近い可能性の中からひたすら泥臭い努力を重ねてその可能性を絞っていくことから始めなければならない。警察の捜査が基本的に人海戦術なのもそのためだ。
しかし、こと五十沢幽の事件にいたっては警察の力を借りることはおろか、誰かに協力を仰ぐことすら困難と言わざるを得ない。〝私〟にとってはまごう事なき事件であっても、それを客観的に判断できる材料が何一つない現状では、五十沢幽失踪の事件性を立証することができないのだ。
このような事情から、私はこの二人だけの事件捜査には二つのゴールがあると考えていた。一つは、彼が目指しているように直接犯人を見つけ出すこと。そしてもう一つは、事件性を立証できる何らかの材料を集めることだ。
「よいしょっと」
彼が八ヵ月分の地方紙が入った段ボールを持ち上げた。私は彼より先行して閲覧室や保管室の扉を開けていく。スチールラックに整然と収められた段ボールの数を再び目にしたとき、眩暈がするような感じを覚えたのはきっと私だけではなかっただろう。
振り返ってみると、やはり午後の作業で確認できた量は午前中のそれよりも明らかに少なくなっていた。午後の時間で確認できたのは今年の四~二月の三ヵ月分のみで、午前中のそれよりも一ヵ月分も少なくなっている。そのくせ、特に大きな収穫があったわけでもなく、図書館を出たときに私たちが実感できたのは酷薄なまでに素朴な疲労だけだった。
彼は東図書館まで自転車で来ていたらしく、私は彼が駐輪場を出ていくのを見送ってからバスを待った。待っている間、私は今日の作業の進捗具合から明日の調査でどこまでの分量を捌けるのか指を折って数えてみる。
大雑把に考えると今日は八月~二月までの七ヵ月分を確認したことになるため、明日は今年一月~昨年七月までの分を確認できることになると予測できる。つまり、土日をフルに使って確認できる地方紙が一年と二ヵ月分――それが私たち二人にこなせる作業量ということだ。
バスが到着し、プシュ―とエアブレーキの空気音が響く。私は並んでいた他の数人と一緒にバスに乗り込み、整理券をとって運転席側の通路に面した座席に腰を下ろした。バスが走り出すと、その振動がまるで揺籃のように溜まった疲労を刺激して睡魔を誘った。
私はその睡魔に抗いながら来た時とは逆再生される窓の外の景色を眺め、このまま本当に時間が巻き戻ってはくれないだろうかと考える。だが、それが起こるはずもない絵空事だということを十分に理解している〝私〟にとって、それは現実逃避の空想以外の何物でもなかった。
翌週の学校生活はそれまでに比べれば随分と穏やかだった。それを象徴するのが、月初にも関わらず香苗らによるカツアゲ被害に遭わずに済んだという事実だ。彼女が私と廊下ですれ違った際、こちらにも聞こえるほどはっきりと舌打ちをしていたのは、その遣るかたなさを雄弁に物語っていた。どうやら彼の言っていた通り、あの動画の一件で一時的に自粛せざるを得なくなったらしい。
だが、喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉もある。彼女らの自粛期間も精々一ヵ月か、もって二ヵ月くらいのものだろう。
一方で、例の動画の件に関する学校の調査はあらぬ方向へと進んでしまっているようだった。どうやら学校は自殺を企図した生徒が五十沢幽なのではないかという方向で調査を進めているらしい。
例のアンケートに五十沢幽のことを書いた彼は、何度か呼び出されて聞き取りをされたと言っていた。そして彼の思惑通り、学校は夏休みが明けてから五十沢幽が一度も登校していない事実を重く受け取めざるを得なくなったようだった。
だが、それをあの動画の件と結び付けられるというのは彼にとっても想定外のことだった。これでは現状五十沢幽は家出しただけという扱いになってしまう。
私は自身があの動画で自殺をしようとしていた張本人ですと名乗り出ようかとも考えた。そうすれば、五十沢幽に関しては行方不明になっているという事実だけが残り、多少なりとも事件性が生まれてくる。だが、私が自殺しようとしたことが母に伝わってしまったらと思うと、どうしても名乗り出ることができなかった。
だがそもそもの話、私が名乗り出る必要などないはずだった。彼はあのとき誰が自殺をしようとしていたのかを知っている。彼がそれを打ち明ければ、学校側のとんちんかんな推測は跡形もなく崩れ去るだろう。しかし、未だに私に声がかからないことから察するに、彼はそれをしていなかった。
私はスマホを通して彼にその理由を尋ねてみた。すると、「幽が行方不明だって学校が認識すればそれで十分だから」との返信が返ってきた。どうやら彼は世間に五十沢幽が行方不明になっているという事実が公表されればひとまずはそれでいいと考えているらしかった。
学校の調査が迷走する中、私と彼のたった二人の捜査線の方も停滞の気配を帯び始めていた。日曜日に行った二回目の地方紙調査では収穫がなかったどころか、昨年の九月より以前は地方紙が週二部ではなく週三部発行されていたという事実が判明し、急に増えた作業量を前に私たちの気力は大いに削ぎ落とされてしまった。
また、東図書館を利用できない平日はネットの大海原に情報を求めたが、この手の話になると憶測やガセネタと思しき情報が飛び交っているばかりで、有力な情報はさっぱり掴めなかった。
そんな風にして私たちの気分が徐々に沈んでいく中、まるで当てつけかのように学校の空気は文化祭が近くなるにつれて浮ついていった。〝私〟は一度たりとも学校行事を楽しいと思った経験がないので、普段の授業に加えてその準備をしなければいけない日々に芯からうんざりさせられる。こんなことをしている暇があったら――と、要らぬ焦燥が私を無暗に苛つかせた。
そういったストレスからか、私は日に日に本を読むことが多くなっていった。これはこの〝体〟特有のストレス解消法だったが、普段は文豪たちが遺した人の感情の機微を濃やかに描く作品を好んで読むこの〝体〟で、推理小説ばかりを読み漁っているというのは奇妙な話だった。しかも、それらの推理小説はどれもこれもまるで参考にならないシチュエーションのものばかりときているからその度合いは甚だしい。
だが読んだ冊数が十を超えてくると、次第に推理小説を読んでいるのはもはやそういった期待のためではないのだということがだんだんとわかってくる。要は、今の私は繊細な筆運びを楽しめるような状態ではなかったのだ。だからその代わりとして推理小説を選んでいたというだけの話だった。
こうして何の情報も得られぬまま、さらに一週間の時間が経過した。
この間に、学校は例の動画の件で市の教育委員会に調査報告を提出し、その内容が金曜日の地方紙の一角を賑わせていた。そしてこれに伴って、五十沢幽が行方不明になっていることが世間の知れるところとなった。
私は彼から送られてきたその記事の写真をズームを最大限活用しながら苦労して読み終えると、座位を解いて敷布団の上に背中から倒れこんだ。すると突然、犯人はこれを見て何を思っているのだろうかという不気味な思念が沸き起こる。犯人がこの記事を前にほくそ笑んでいる姿を想像すると、それだけで口の中に苦いものが広がっていくような気がした。
翌日の土曜日からは敬老の日を含めた三連休が始まった。図書館というものは律儀なもので、祝日は開館してその翌日を休みにするため、私たちは三日連続で地方紙の調査に取り組めることになった。
ただ本音を言えば、それはあまりありがたいことだとは思えなかった。実際、三連休初日に行った五回目の調査も見事に空振りに終わり、徒労感だけが成果物となると、あと二日も連続でこんなことをしなければいけないのかという気持ちを抱くなという方が無理というものだった。
しかしそんな気持ちをどうにか抑え込み、次の日も私と彼は当然のことのように東図書館の前で顔を合わせていた。既に私たちの表情に覇気はなく、疲ればかりがそこに反映されている。私たちの与り知らぬところで事件の痕跡が風化していくのではないかという漠とした不安だけが唯一私たちをそこに駆り立てていた。
「おはようございます……」
「あー。おはよー……」
私の沈んだ声の挨拶に、彼も棒読みに近い声で挨拶を返した。もうお互いに取り繕おうとすらしないのが、成果を得られない日々の重苦しさの象徴にすらなっていた。
もし、この日の調査が現在停滞している走査線に突破口を開くことになるということを知っていれば、もう少し気持ちのいい挨拶を交わせていたのかもしれない。
私はあとになってそう思うのだった。
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