第七話 それぞれの葛藤

「馬鹿野郎ッ!!」


 私の体は重心が欄干の外に移ったと感じた直後にそこで止まった。誰かが腰のあたりに掴みかかって、必死に私を橋の上に引き戻そうとしている。だが、徐々に私の体は橋の下へとずり落ちていく。それは私の意志によるものではなく、全く自然界の摂理に従ったものだった。


 しかし数秒して、私を引き上げる力が急に強くなった。腰に掴みかかっているのではない誰かが私の上半身の服を掴んで引っ張ったのだ。そうして私の頭は徐々に水面から離れていき、ついに欄干を先とは逆方向に超えていった。


「はぁっはぁ……すんません。けほっ……ありがとうございました。あとは、俺が……どうにかするんでっ、大丈夫です……!」


 私を最初に橋に繋ぎとめた彼が、息も絶え絶えと言った様子で周りにいた数人にそう声をかけた。周囲の人はなにやら心配そうに彼に意見していたようだが、彼がそれを宥めるようにいなすと、集まっていた人々は徐々にはけていき、最終的にそこには私と彼を残すのみとなった。


「おら、立てよ……!」


 彼はまだ整わない息で苛立たし気にそう言いながら、乱暴に手を引いて私を立ち上がらせた。彼は自らの荷物を持つ気力すらない私を見ると、私のデイパックを左の肩にかけ、右手で私の手を引いて憤然と歩き出す。


 私は彼に手を引かれるがままベンチのところまで戻ってきた。そこまでくると、彼は私の荷物をベンチの近くに放り捨て、こちらに向き直ったかと思うと、私の胸ぐらを掴んでその鬱憤を一気に爆発させた。


「てめぇ一体何考えてんだ!」


 私の体がまるで人形のように揺すぶられる。そして言わずもがな、人形は言葉を発しない。


「なんであんなことしようとした!」


 彼の怒鳴り声が河川敷に響き渡る。その残響が消えるのと交代で、私は蚊の鳴くような極めて小さな音を口にした。


「わかんないよ……」

「はぁ!?」


 彼が興奮した声のまま聞き返した。私はいよいよ感極まって、声を荒らげる。


「わかんないよ! 久々利さんに〝私〟の気持ちなんて!」


 胸ぐらを掴む彼の手を強引に引きはがし、私は彼と距離をとった。そして、積もり積もった鬱屈した感情を地面に向かって一度にたたきつけ始めた。


「いつもいつも〝私〟が転生するのは虐待やいじめを受けている人ばっかり! なのに死んでも死んでも〝私〟はずっと消えられない! なんで〝私〟がこんな目に会わなきゃいけないの!?」


 誰にぶつければいいのかわからないまま、〝私〟の中で育み続けた不満と怒りが一気にはじけた。私は急に発した大声のために荒れた息を整え、先を続ける。


「やっと……やっとはじめて〝私〟のことを意識してくれる人ができたと思ったのに……。今度はその人に『お前は人殺しだ』って言われるんだよ? 考えたことある? 存在を認められた途端に恨みの的になる気持ちって……!」


 正直な〝私〟の声が、まるで一度捻った蛇口の様に次々と溢れ出た。取り繕うことなど、もう考えられなかった。


「確かに〝私〟は何度も自殺を選んできたし、五十沢さんの時もそうしようと思ってた。だからあのメッセージを用意してたの……。でも、誕生会に誘われて、一緒に楽しい時間を過ごして……もう少し生きていたいって思っちゃった……」


 私の口は正直に自殺を企図していたことを明かしていた。だが、ずっと地面に向かって言葉をぶつけ続けているので、彼がどんな反応をしているのかはわからない。あるいは、〝私〟は彼のことなどもはや気にしてはいないのかもしれないとすら思えた。ただそれを口にすることだけが目的なのかもしれなかった。


「だから今は凄く後悔してる。あの時、そのことにもっと早く気づいていれば、違う未来があったんじゃないかって……」


 言い終えて確信する。これはただの独白だ。嘘も打算もない愚直な〝私〟の本音だ。


 私は顔を上げ、橋の方を眺める。視界の中央にあるのは、ついさっきこの〝体〟を投げ捨てようとしたあたりの欄干だった。


「もう、どうすればいいかわかんないよ……」


 諦めの悪い夏が残す肌触りの悪い空気の中に、私の震えた泣き言が溶け込んだ。




 私は彼から五十沢幽のスマホを受け取ると、そこに何の迷いもなくパスワードの四桁の数字を入力した。ロックは解除され、工場出荷時状態に毛が生えた程度の寂しいホーム画面が表示される。私はその画面を彼の前に差し出した。


「まじか……」


 その声は驚きというよりも、目の前で起きているにわかには信じがたい現象に呆気に取られているかのようだった。


「証拠、というには心許ないかもしれませんけど……」


 私は苦々しい表情でそう言った。


 〝私〟が自身の醜い部分を全て曝けだしたあと、長い沈黙を経て彼が口にしたのは、お互いに冷静になって話し合わないかという提案だった。きっとそれが今の私たちにとって必要なことの全てだったのだろう。私は彼の提案に素直に頷き、その結果今に至っている。


「私、一回個人チャットの中見ちゃったんです……。覗き見みたいなことしちゃってごめんなさい」


 私はロックを解除したスマホを手渡しながら、彼が送ってきていた大量のメッセージと着信履歴を見てしまったことを素直に明かした。すると、彼は少し驚いた様子で反応する。


「え? 俺の方には既読ついてないけど?」

「えっと……そのスマホ、もう契約切れてるみたいで。ネットに繋がってない状態で見たからそっちには既読がつかなかったんです」

「あぁ、なるほどね……まぁ別にいいけどさ。大森さんにはもっとプライベートなとこを見られてたらしいし――」


 彼がむず痒そうに首筋をかいた。


「あ、でも大森さんっていうのはなんか違うのか? だからえっと……大森さんの中にいる君のこと、なんて呼べばいいわけ?」


 「正直まだ半信半疑だけど」と付け加えながらも、一応彼は〝私〟の存在を認めてくれているようだった。


「〝私〟のことを……?」


 きょとんとする私に、彼は「なんか調子狂うなぁ」と零した。彼からすれば「〝私〟」と「私」の間には何ら区別はないわけなので、困惑するのは至極当然のことではあった。


「だからさ、君も初めて転生する前は普通の人と同じだったはずだろ? その時の名前とかさ」


 彼の言葉に私は表情を暗くした。それは〝私〟が最近直面した問題と全く同じ問いだった。


「覚えてないんです」


 足元を見つめながら、私は答えた。名前とは所詮個体識別子に過ぎないんだと達観したつもりでいた私は、いつの間にか自分の中にぽっかりと空いてしまった穴にごく最近まで気づくことができなかったのだ。


「忘れちゃったんです。〝私〟の名前……」


 声が細くなった。誰にも認識されることなく、転生を繰り返すだけの運命に慣れ切った〝私〟は、〝私〟と〝体〟との区別をつける術をまるで知らなかった。


 彼はそんな私の様子を見て、何かを察したかのように口を閉ざす。少しの間、二人の間に沈黙が流れた。


「沙夜って呼んでください」


 私は現状最も妥当な回答を彼に告げた。所詮はこの〝体〟の名前を借りただけなので、今までどおり「大森さん」でも問題はなかったが、できることなら〝私〟を認識してくれていることがわかる呼び名が欲しかった。


「そっか。わかったよ。沙夜」


 途轍もなく嬉しかった。〝私〟はただ他人に呼ばれるということがこんなにも幸せなことなのかと驚くと同時に、再びこの世界に存在できたことへの実感を噛みしめていた。


「じゃぁさ、まずはどうして幽が死んだのか……それを詳しく教えてくれないか?」


 彼は葛藤を多分に含んだ声で私にそう質問した。それはきっと五十沢幽の死を否認する気持ちからくるもので、〝私〟はそれに対して現実を突きつける役目を負わされた。


 〝私〟はあの日起きた全てを彼に明かした。自殺を決行するかどうかで迷って足を止めたこと、あのメッセージは予め用意していたものだということ、急に背後から襲われたこと――。〝私〟からの衝撃の告白に、彼は驚きと困惑を隠せないようだった。


 しかし唯一、〝私〟はどうしても五十沢幽の本当の最後については話すことができなかった。それを彼に伝えるのはあまりに酷なことだったし、〝私〟自身、それを言葉にはしたくなかったのだ。


「じゃぁこのメッセージは襲われた時に誤って送信されたものってことなんだな?」


 彼が確認するように問いかけてきたので、私は小さく頷いた。


「多分そうだと思います。時間もだいたいそれくらいだったと思いますし……」


 今の〝私〟は五十沢幽の〝体〟ではないので、正確な記憶をたどることは不可能だが、〝私〟が覚えている限りではだいたいそんな時間だったのではなかと思われた。私がそう答えると、彼は天を仰いで大きく深呼吸し、それから私の方に向き直って突然その頭を下げた。


「さっきはごめん。俺、幽の事で頭に血が上ってて、沙夜のことまで考える余裕、全然なかった」

「え……え?」


 まさか謝られるなどとは思ってもみなかったので、私は虚を突かれてまごついてしまう。あれだけ喚き散らしておいてではあるが、彼が〝私〟を疑うのは当然の事だったし、仕方ないことだとも思っていた。


 だからこそ、次に彼の発した言葉は強く私の胸を打った。


「信じていいんだよな? 沙夜のこと」


 その問いに、私の心臓が一瞬強く脈動する。私はすぐに答えが出せなかった。


 無論、「いいえ」と答える選択肢は存在していなかった。しかし、それに対し即座に「はい」と答えられるほど〝私〟は無神経にもなれない。ならばせめて、素直でいようと〝私〟は思った。


「信じてほしい……です」


 私はそう言い切ると、不安に口をかたく引き結びながら彼と視線を合わせた。彼の方でも私の目の、さらにその奥にあるものを見つめるかのように視線を交錯させる。それから数秒して、彼がふっと肩の力を抜いて瞼を閉じた。


「じゃぁさ、俺と一つ約束してくれ」

「約束?」


 彼が再び目を開けて私と向き合う。


「二度と自殺なんて馬鹿な真似はやめてくれ。もし次やったら、俺は沙夜のこと絶対に許さないからな」


 私は彼のその言葉に一瞬唖然とさせられた。


 どうせこの〝体〟が死ねば、流石にもう彼と会う機会は訪れないだろう。であれば、この〝体〟が死んだ後に〝私〟が彼に許されないとしても、それによる実害はほとんど皆無だ。だからこの約束には実質何の意味もない。少なくとも理屈の上ではそういうことになる。


 しかし、その理屈に反して私の口調は荘重だった。


「約束……します」


 理屈では説明できない何かが〝私〟にその約束を結ばせた。そしてそれを口にした瞬間、〝私〟はまるで退路を塞がれたような感覚を覚える。それはつまり、〝私〟が転生を逃げ道として都合よく利用してきたということの何よりの証左となっていた。


 約束を守るためには生きなければいけない。その軛は〝私〟にとってあまりに重く、苦しいものだ。しかし同時に、〝私〟はもう一つの軛から解放されたことにも気がついていた。


 〝私〟は今まで必死に転生という軛から逃れようともがいてきた。再び目覚めないことを祈りながら、様々な死に方を試した。だが、転生という軛から逃れたければ、そもそも死ななければいい。お子様でもわかる至極簡単な理屈だ。しかしこの簡単な理屈に辿り着くのに、〝私〟はどれほど遠回りをしてきたのだろう。


 右手から小学生くらいの子どもたちが自転車に乗ってサイクリングロードを走って来るのが見えた。彼らは楽しそうにおしゃべりを交わしながら私たちの座るベンチの前を通り過ぎていく。その徐々に遠ざかる背中をぼんやりと眺めながら、私はまたあんな風に無邪気に笑える日が来るのだろうかと、現実味のない空想に思いを馳せた。


「一つだけ確認させてほしいんだけど、いいか?」

「何ですか?」


 私は小さくなっていく子供たちに向けていた意識を、再び彼の方へと向け直した。


「責めてるわけじゃないってのはわかってほしんだけどさ――」


 彼はそんな前置きをして、さぞ言いづらそうにその疑問を口にした。


「沙夜が転生する時ってさ、もともとその人の中にあった意識? みたいなのってどうなるのかなって」


 衝撃的な問いだった。〝私〟が今まで意識して来なかったこの転生という現象の本質を、彼は見事に見抜いていた。


 様々な考えが頭の中を駆け巡った。五十沢幽の意識は消滅してしまったのだろうか? もしそうだとすれば、〝私〟は他人の意識を奪い続けてきたということになるのだろうか? そしてそれは倫理観に照らすと一体どのような評価を下されることなのだろうか? そんな答えの出ない問いばかりが次々に乱立して〝私〟を混乱させた。


「わかりません……」


 何も嘘は言っていないのに、〝私〟は後ろめたさを隠せなかった。自身の視野狭窄っぷりが恥ずかしく、また嫌気がさす。初めて転生してからこの方、〝私〟は自分自身のことしか見えていなかったのだということを今になって痛いほど思い知らされていた。


 対する彼は特に追求することもなく、ただ「そっか」と短く返事をしただけだった。しかしその表情はどこまでも悲しげで、同時に苦しさを滲ませていた。


 おそらく、〝私〟が五十沢幽に転生した時点で既に彼にとっての五十沢幽は死んでしまったのだろう。彼からすれば、〝私〟は一ヵ月もの間、をして彼を欺いていたということになる。それはきっと、とても罪深いことに違いなかった。


「じゃぁさ、幽を襲った犯人に心当たりとかってあったりするか?」


 彼は自身の苦悩を振り払うかのように話題を現実的な問題の方へと切り替えた。しかしままならないことに、その問いに対する回答も〝私〟は持ちあわせていなかった。


「わかりません。多分、父か母のどちらか……あるいは両方だと思います」


 それくらいしか五十沢幽のことを恨んでいる人間が考えられなかった。子一人を養う必要がなくなれば生活はずっと楽になるはずだし、あの二人がそれを願っていたことを〝私〟は知っていた。


――あんたなんかささっと死んで幽霊にでもなってくれればいいのよ。


 〝私〟が幽という名前を初めて意識したとき、母が吐き捨てたその言葉が同時に想起されたことを思い出す。その名前に本来どんな意味が込められていたかなどということは〝私〟が五十沢幽に転生した時点で既にその記憶で上書きされてしまっており、ましてや違う〝体〟になってしまった今の〝私〟がそれを知る術はもう残されていなかった。


「いや、違うな。多分両親じゃない」


 彼が妙に強張った声を発した。私は彼がどうして五十沢幽の両親を庇うのか理解できず、快くない面持ちで彼の方を見る。


「なんで、両親じゃないって思うんですか?」


 〝私〟は両親に殺されたのだろうということを疑いすらしていなかったため、それを否定されたことに、図らずも少しだけ攻撃的な声音になってしまっていた。


 私の問いに、彼は大きく深呼吸してからゆっくりと口を開いた。


「幽の親に会ったんだよ」


 彼は次に自分が語るべき内容を吟味するように短い間を置いてから話し始めた。


「最初は幽がいなくなって三日後だったかな。幽が嫌がるから極力あいつの家にはいかないようにしてたんだけど――って、大森さ……じゃなくて沙夜はもう知ってるのか。とにかく三日も連絡ないのは流石にやばいと思って幽の家に行ったんだ。その時は母親の方が出てきてさ、『帰ってきてない』って言われた。一応玄関の靴も確認したんだけど、幽の靴がなかったから嘘じゃないなと思った」


 きっとその時、彼の中で五十沢幽の生存はほぼ絶望的となってしまったのだろう。彼はそうとは言わなかったが、彼が五十沢家を訪ねたのは、中学生の時のように別れの挨拶もないままどこかへ引っ越してしまったたわけではないということを確認しに行ったのではないかと思われた。


「で、今度はその五日後だったかな。今度はなかなか誰も出てこなくて何回かインタホーン押したんだけど、今度は幽の親父の方が出てきてさ。そしたら急に『お前があの二人を唆したのか』ってすっげぇ剣幕で殴りかかってきた」

「え」


 内容に対する反応ではなく、単純に彼の身を案じる声が出た。


「大丈夫だったんですか?」

「まぁ、一発顔面にきついのくらったけど。相手は酔っ払いだったし、逃げるのはそんなに難しくはなかったな」


 私はなんでもなさそうに話す彼の顔をそれとなく確認したが、それらしい傷や腫れている様子は見られなかった。もっとも、一ヵ月も経っているのだから当たり前のことではあるが。


「要するに、どうも幽の母親は夜逃げしたっぽくてさ。それを幽がいなくなったことと併せて俺が唆したせいだって言いがかりをつけてきたってことらしい。流石にそんな意味不明なこと言うヤツが犯人だなんて、ちょっと考えにくくないか?」


 当時五十沢幽の父親は酔っ払っていたらしいので、酒からくる妄言という可能性もゼロとは言えない。しかし、そういうタイプの酔い方をする人間ではないことを〝私〟は知っているので、ひとまずその彼の言い分には頷けた。その一方で、もう一つの可能性は寧ろ大きくなったようにも思えた。


「でも、それだったら母親が〝私〟……じゃなくて、五十沢さんを殺したうえで夜逃げしたって可能性は高いんじゃないですか?」


 実際のところ、五十沢幽を殺す選択をするという意味では母親の方が可能性は高いと思っていた。家では暴力を振るい、虚勢を張ってはいるものの、その実小心者であるあの父親にそのような選択ができたとは考えにくい。それよりも、暴力こそ控えめではあったものの、常に私を呪うような視線と言葉を浴びせ続けてきた母親の方が内に秘められた闇は大きかったような気がした。


「俺もそう思ったんだけどさ。これ見てちょっとその可能性も低いかなって」


 そう言って、彼は私の方に五十沢幽のスマホの画面を向けた。それはSNSの個人チャットの画面で、アカウント名には〈まり〉と表示されていた。


――あんた いつ帰ってくる気?

――今日も帰ってこない気なの?

――今日久々利君来たんだけど


 事件当日の二十日から立て続けに二日間、一日おいてさらにもう一件、短いメッセージが並んでいた。三つ目のメッセージは先程彼が話してくれた内容とも符合している。しかし、そこからメッセージの連続性はぷつりと途絶え、最後のメッセージはその月の末日に送られてきたものになっていた。


――あんたのスマホ解約するからね あと、帰ってきてもあのクズ男しかいないから


 娘に残す最後のメッセージがこれかと私は憤るやら呆れるやらで、酷く気分が悪くなった。一方で彼は、そのメッセージの内容について冷静な分析を進めていく。


「仮に幽の母親が犯人だったとすると、最初の二つは警察に事情聴取された時に『知らなかったんです』ってしらを切るための口実づくりのようにも見える。だけど、死んだとわかっている相手にわざわざ携帯の解約についてのメッセージを送るのって不自然じゃないか?」


 彼の言う通り最後のメッセージの内容は確かに不自然だった。彼の主張もそうだが、もし母親が犯人だった場合、娘と唯一連絡が取れるかもしれない手段を自ら断つというのは、五十沢幽がもうこの世にはいないということを知っていたと自白するような行為でもある。つまり、娘がいなくなってからわずか十日で解約を決めたという事実は母親にとって非常に不利な証拠として働く可能性が高いのだ。そんなことを犯人がするとは到底思えない。


「要するに俺の考えだと、幽の母親は俺すら幽の居場所を知らないことを知って、『いよいよこれは』と思って夜逃げの準備を始めたんだ。そして俺が来たことを伝えても幽が帰ってこないことを確認したうえで夜逃げを決行した――こんな風に見るのが一番妥当なんじゃないか?」


 彼にしては随分と鋭い洞察だなと私は少し感心してしまった。しかしそれを口にした彼の表情を見て、私はそうではないのだということを立ちどころに理解し、その背景に思わず眉根を寄せた。


 きっと彼はこの時までそういったあらゆるシナリオを考えずにはいられなかったのだろう。それは恐らく、最も楽観的なシナリオで不安を払拭しようという試みでもあったはずだ。しかし彼は今五十沢幽のスマホを前にして、その中から一番現実に合致するシナリオを選び取らざるを得なくなった。それは残酷にも、彼が最も否定したかったシナリオの一つだった。


 その事情を理解した時、私は思わず目を伏せてしまっていた。彼が高校二年生の夏という時間を、そういった良くない想像に苛まれながら過ごしたということに対し、私は筆舌に尽くしがたい罪悪感とそこはかとない悲壮感を感じた。


「だから、犯人は両親じゃない」


 彼は最後に確信を込めてそう言い切った。

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