第8話 さあ、行こうぜフェリス

「クレハさん、おはようございます……」


 ベッドから体を起こしたフェリスは、寝巻き姿で眠たそうに目を擦っている。


「顔を洗ったら支度して下で飯食うぞ」


「昨日の夜からなんだか張り切ってますよね。今日は何か特別なことでもあるんですか?」


「今日だけじゃない。今日からずっとだ」


「一体それはどういうことでしょうか?」


「金を稼いだら酒場を任せてもらえることになった。そうなったらこの宿を出て、今よりいい暮らしができるかもしれない。だからお前の手を貸して欲しいんだ」


「え、わたしのですか……? でも」


 フェリスは自分は女神ではないのに、と言いたげで不安な表情を見せるとすぐに俺から視線を逸らした。


 朝靄あさもやの中、台車を引いてふと宿の二階を見上げた時。

 窓の外の景色を物憂げに見つめる彼女がいたことを俺はもう知っている。

 過程はどうあれ見知らぬ世界に投げだされたんだ。

 平気な振りをして本当は彼女も不安で仕方がないのだろう。


「俺一人じゃいつまで掛かるか目処が立たないんだよ。だから人としてのお前の力を借りたいって言ってんだ。さあ、行こうぜフェリス」


 おくするなよ、そう意思を込めて彼女に手を差し伸べる。


「クレハさんっ……。わかりました!」


 彼女は興奮気味にキラキラと目を輝かせ、小さな両手で俺の手を取った。


「うう……いかがですかぁ」


 街の大通りに出てから一分ほどで、フェリスのあの輝きは早くも消え失せていた。

 声が誰にも届いている様子はなく視線も地面にしか向いていない。

 台車を押していた時はあんなにも生き生きとしていたと言うのにこれは想定以上だ。


「フェリス、人間はどこも怖くないぞ。ほら思い出してみろ、俺はそんなにヤバイやつだったか?」


「いいえ、わたしに肩固めをしていない時のクレハさんはすごく優しいです」


 平坦な抑揚もあってか何かの和訳文にも聞こえる。

 これはいけない。彼女に余計なトラウマを植えつけてしまったようだ。


「おい、今お前に慣れておいてもらわないと今後が不安なんだ。例えばそこらにいる人間を自分の配下だと思ってやってみたらどうだ?」


「配下、ですか」


「やれそうか?」


 フェリスはそれはもうにっこりと微笑んだ。


「そこのものども、お酒を買いなさい! さもないと全員首にしますよ!」


 あっという間に周囲がざわつき始め、ある意味注目は集まったがこれでは逆効果だ。

 それにしてもこいつ、パワハラ上司だったのかよ。


「はいはい。てな具合に、思わず命令したくなるほどの美味い酒いかがっすかー!」


 俺は言いながら背後からフェリスの口を塞ぐ。


「むぐぐぐ!?」


 そんな調子で初めは文字どおり頭を抱えたが、時間が経つにつれ声が出るようになる。

 彼女は段々と慣れつつあるようだ。


「皆さんいかがでしょうか? こちらとっても美味しいお酒ですよ。まずはお試しで一口味わってみてくださいね!」


 白目を剥いていたあの女神と同一人物とは思えないくらいとしている。

 曲がりなりにもフェリスはルックスだけはいい。

 彼女のお陰で男女問わず客は増えに増え、小一時間ほどでいつもの倍は売れている。

 表はもう任せてしまっても問題ないだろう。

 倒れない程度に裏方として酒を補充し続け、再び商売に精を出していく。


「今日一日やってみてどうだった?」


 宿に戻っての食事中に相棒に聞いてみた。

 彼女は相当腹が空いていたのか、いつにも増してすごい勢いで目の前に皿を積み重ねていく。


「なんだかわたしすごく充実してました。明日からはもっともっと頑張れそうです!」


「それはよかった。これからも頼りにしてるからな。ほら、どんどん食え」


 皿を差し出すと即座に平らげ、見ていて気持ちのよくなる食べっぷりだ。

 相変わらずアリスフィアは大量に買っていくが、さすがにあの量を一人で飲んではいないだろうな。

 日々これといったトラブルもなく順調に事は運び、二週間ほどが過ぎた頃ついに目標額を達成することができた。

 俺はフェリスと別れ酒場跡を目指す。


「しかし驚いたな。もう貯まったと言うのかい? やっぱり見込んだとおりだよクレハ君」


 待っていたジラルドは目を丸くしたあと満足気に頷いた。


「これは別に俺だけの力じゃない。というわけでどうか受け取ってくれ」


 ゲルタの入った大袋をテーブルに置くとフェリスとの日々が浮かんできた。

 これは彼女と俺の頑張ってきた結晶そのもので、すぐに手放してしまうのが惜しい。

 今までに感じたことのない気持ちまでも乗っけて、この袋の中身は誰にも恥じない重さと輝きを誇っている。


「確かに約束どおりの額だね。これで晴れてここは君の店だ。経営のことは僕にすべて任せてくれればいい。それから余計な口出しもしない。だから自分のやりたいようにやってくれていいからね」


「何から何まで信頼してくれてありがとな、ジラルド。今日からあんたとは運命共同体だ。ひとまずは地に足をつけた運営をしていくつもりだからよろしく」


 共に頷き硬い握手を交わす。

 俺は決して今日この日を忘れることはないだろう。


「ところでクレハ君。店の名前はもう決めているのかな?」


「ああ、もうとっくにな!」

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