第2話 レナトゥス
赤い髪を後ろに撫で付けた30過ぎの男は、くたびれたスーツを身に纏い、打ち捨てられた劇場の前に立った。
まだ働き盛りだというのに、覇気のない顔は暗く沈み、全世界の不幸を背負ってしまった男のようで、10歳は老けて見える。
それもこれも、こんな所へ足を運ばなければならないからだ。
今日も無遠慮な憐れみの声が、ヒソヒソと聞こえてくるだろうことは予想していた。だが、元々貧乏で、子供の頃から質素な暮らしをしてきたのだから、安っぽい服だと周囲から笑われたところで、これっぽっちも気にならない。我ながら、図太い神経の持ち主だと思う。しかし、そんな彼でも、この劇場に一歩足を踏み入れることが、何よりも難しい。
男は恨めしそうに、古びた劇場を見上げた。
前オーナーが、売上金をごっそり持って逃げた後、買い手が見つからず、劇場は廃墟と化していた。
買い手が見つからないのは、幽霊騒ぎのせいだろう。以前、この劇場で活躍していたトップ女優の自宅で、火災が発生した。彼女は助け出されたものの、顔に大火傷を負ってしまった。自慢だった顔が、醜く歪んだことを悲観して、舞台の上で首を吊って自殺した。
その火事は後に、彼女の代役として控えていた、若手の新人オペラ歌手が、仕組んだことだったと噂されたが、真相は闇の中だ。
なぜなら、警察が捜査を始める前に、そのオペラ歌手が、リハーサル中の不慮の事故で死んでしまったからだ。
自殺した女優と同じように、舞台の天井から、ぶら下がっている彼女の遺体を見た人たちは、震え上がった。この劇場に霊が取り憑き、自分をこんな目に合わせた女に、復讐をしたのだと信じた。
そして、話題性に富んだこの出来事に、マスコミが飛びつき、新聞は騒ぎ立てた。当然のごとく、この一連の記事は、長らく人々の興味をひいた。
例に漏れず、実際の出来事に尾鰭がつき、美しい女性が劇場に足を踏み入れると、その顔を自分のものにしようとした幽霊から、呪い殺されるのだと噂され、客足が遠のいてしまうまで、それほど時間はかからなかった。
そんなこともあって、前オーナーは、金を持って逃げるように出て行くしかなかった。事件後しばらくは、物好きたちの肝試しスポットとなっていたが、新鮮さを失った劇場の幽霊は、新米幽霊にお株を奪われ、忘れ去られて久しい。
彼はそんな幽霊話を、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すと、ギシギシと軋む床に足を踏み入れた。
数人の男たちが、ギョロリと目玉を動かし、彼を見つめたが、彼が誰なのか分かると視線を戻した。そして、互いのお喋りに戻っていった。
ここに、お喋りをしたくなるような親しい友人はいない。ここの連中は皆、何かに取り憑かれたように、不気味だからだ。彼は視線を下に向け、俯いたまま劇場のロビーを通り過ぎた。客席の1番後ろの席にそっと座り、気配を消し背景に溶け込んだ。
彼はこの組織の、切り捨てられる駒に過ぎない。それを嘆く気持ちもなければ、出世欲もない。おこぼれをもらおうと、カラスの群れに飛び込んだスズメのようなものだ。
ヘマをすれば、弁解の余地なく即処刑と決まっている。大義名分もなければ、仲間だという自覚もない。それなのに、仲間になったのは、ひとえに金のためだった。
彼の領地は貧しく、立て直すためには彼らの援助を受けるしかなかった。ある日、
その折、頭を抱えていたところに、金儲けの話が転がり込んできた。
機を見たような都合の良い状況が、今思えば出来過ぎている。頼らざるを得ない環境を、わざと作り出し、彼を組織に引きずり込んだとも考えられる。
だが、今更何を言っても、もう遅い、どっぷりと首まで浸かってしまっているのだから、体に染みついた悪臭は、洗い流せない。
彼をこの地獄に突き落とした張本人は、涼しい顔で舞台に立つ。
「我が名はガルディアン、我らレナトゥスはフランクールの未来を憂える者たちである。国家、そして私的所有権、資本主義の全廃を提唱し、万人の完全なる平等を目的とした、生産手段の社会的所有、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るコミュニティを確立し、無政府共産主義の社会を推進する」
50代も残りわずかだろう——この男の、落ち窪んだ目が不気味で、呪われるのではないだろうかと思うほどの冷淡な瞳が、直視することを躊躇わせた。
痩せ細った顔は、まるで骸骨のようで、劇場の幽霊なんかより、ずっと恐ろしいと、彼は思い身震いした。
ガルディアンは声高な声で訴えた。
「嘆かわしいことに天使は王の奴隷に成り果てた。我々の使命は慈愛の天使を救うことにある。天に帰すのだ!」
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