第2話 Hello×Midnight×Vampire

「ありがとうございましたー」


 夜七時にもかかわらず爽やかな挨拶を背中に受け、アタシはコンビニを後にした。制服を着てはいるが学校帰りではない。ただ着替えるのが面倒でそのままにしているだけだ。


 なぜ一度家に帰ったのにこうして買い物に出なければならなかったのかというと、弟の気まぐれのせいだ。夕食を食べ終わったフリータイムに弟が突然生ハムを食べたいと言い出したため、アタシはこうして右手に白い袋をぶら下げて家路を歩いているわけである。


 アタシは弟には甘いようだ。我儘を言われると、なんとなく甘やかしてやりたくなるのだ。


 角を曲がればもう家は目の前というところで、アタシは妙なことに気がついた。


 なんだろう、嫌な臭いがする。鉄……血の臭いだろうか。いや、どうしてまた血の臭いが? こんな住宅街の真っ直中でするような臭いではない。ドラマで起きるサディスティックな殺人は所詮テレビの中の世界だ。この辺りに転がっているはずがない。とするとこの臭いはなんだろう。訝りながら角を曲がった瞬間、アタシは固まってしまった。


 アタシと同い年ぐらいの男の子がアタシと同じ制服を着た女の子の襟元を掴み、塀に押しつけていた。


 男の子の方は灰色のシャツに黒いズボン、髪が白くてアタシに背中を向けている。女の子の方は全身の力が抜けているようで、項垂れた頭から垂れた長い髪で顔は分からない。視線を這わせてみると、その、黒髪の間から覗く首筋に何か赤いものが見えた。


「ひっ!」


 血、だ……! 気づくのにそう時間はかからなかった。でも気づくと身体が硬直し始めて足が棒のようになり、その場に立ち尽くす形になってしまった。


 どうしよう、逃げなきゃ。アタシは突然そう思った。だけど、アタシの脳は今すぐ逃げろと危険信号を出しているのに、どうしても身体が動いてくれない。


 どうしよう、どうしよう!


 そうこうしているうちにアタシの小さな叫び声を聞いて、男の子がゆっくりこちらを振り返ってきた。


 唇が、赤い……!


 彼の真っ赤に染まった口元を見た途端、アタシは鞭で打たれたように地面を蹴って来た道を走って戻っていた。固まっていた身体がなぜ突然動き出したのかは自分でも分からない。本能がそうさせたのかもしれなかった。


「お前……」


 後ろから聞こえた男の子の呟きを頭の中から振り払い、アタシは走った。周りを見ている暇はない。道順を考えている暇はない。


 何あれ何あれ何あれ!


 女の子の首から血が流れ、男の子が血に濡れた唇をしているなんてどんなファンタジーだよ!


 だって、だってまるで男の子が女の子の血を……いや、そんなことはない。


 何だ、あの男の子は。何だ? あの獣のような鋭い瞳は、何だ?


 アタシの脳裏で彼の青い目が光った。


 怖い!


 彼から逃げられる保証はないのにアタシは走るしか、なかった。そうして真っ直ぐ進む道が無くなり、夢中で角を曲がろうとしたとき。


ドンッ


 誰かの胸に飛び込んでしまった。一瞬何が起こったのか分からず頭の中が真っ白になり、激しく鳴っていた心臓の音も小さくなった。しかしアタシの中の何かがすぐ、逃げろと叫び出した。


 この人、こんなに華奢なのにアタシが思い切りぶつかっても微動だにしなかった。それにこの胸、心臓の音が、全くしない……!


 再び心臓が凄まじい速さと音量でアタシの中を爆発させようと暴れ出した。


 逃げ、なきゃ。


 固まった足を何とか動かして少しずつ後退しながら、頭を上げる。


「お前、見たのか?」


 不自然に赤い唇が、目に入った。中性的でも人を恐怖に陥れるような怖ろしい声もさっき背中で聞いた男の子のものだった。


 恐怖、が、アタシを支配する感覚と、血がサァーと音を立てて頭の先から足の先に逃げていく感覚が重なった。がくりと膝を折り、アタシはその場にへたり込んだ。身体に、力が入らない。


「聞いているのか?」


 男の子は左手でアタシの胸ぐらを掴み、軽々と持ち上げてあの目で睨んできた。足がつま先立ちになる。アタシは息苦しさに表情を曇らせ、持っていた袋をその場に落として彼の腕を両手で掴んだ。


 冷たい! まるで氷を触っているみたいだ。


「……うっ」


 息が詰まる。少しずつ狭くなる視界には、眉間にしわを寄せ、ギラリと光る青の瞳の中にアタシを捕らえ、赤い唇から覗く鋭い牙で威嚇している彼がいる。


 怒って……いる?


 アタシは殺されてしまうのだろうか。脳裏にさっきのだらりとした女の子が浮かぶ。嫌だ、死にたくない!

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