第37話 行ってください。そして、決して振り返らないで

 俺たちは、三日というプライベートにしては長い移動時間をかけて、クウォルト大森林までやってきた。


 旅に慣れていない妻と娘がいるため、無理せずちょくちょく休憩を挟んだお陰で、ビアンカもリュミエールも、三日かけた割にはそれほど体力を消耗せずに辿り着けたので良かった。


 辿り着いたクウォルト大森林は噂通り、自然そのまんま保存しております、といった感じの、人の手が入っていない場所だった。森の入り口からして陰湿で、普通なら近寄ることすら躊躇う不気味さがあった。


 だからこそここに、狭間の獣を祓うための場所が作られたわけで。

 まさかこんな、一度入ったら出られるか分からない森の中に、大神殿が作った広場が隠されているとは思わないだろう。


 ちなみに一見深い森のように見えるが、狭間の獣を祓う広場へ続く道がちゃんと作られていて、普段は聖法によって隠されているのだと、このとき初めて知った。

 

 安全上の様々な理由から、王国にも隠していたのだという。

 国を預かる者として、知らされていなかったことは遺憾ではあるが、まあ事情は理解できるので、それについて咎めるつもりはない。


 何らかの理由で公になったとき、好奇心旺盛な人間が近付かない保証もないのだから。

 ほら、前世の世界のホラー映画によく出てくるだろ?


 曰く付きの心霊スポットにノリで行って行方不明になるパリピが。


 広場に到着した俺たちはその日、野営テントで一夜を明かし、夜が明けた今、地面に描かれた巨大な魔法陣の前に立っている。


 銀色の砂で引かれた巨大な円の中には、七枚の花弁を広げた花のような紋様があり、尖った花弁の一つ一つに円が描かれている。花の模様の中には更に円があり、その中には同じような花の模様が、サイズと角度をずらしながら描かれていた。


 これだけの巨大な魔法陣をズレることなく描けるなんて、凄い技術だ。だがもっと驚いたのは、魔法陣を描く銀色の線が全て文字だったこと。どれだけの時間をかけて描き上げたのか、想像もつかない。


 恐らく、ビアンカが狭間の獣について大神殿に報告してから、すでに準備が始まっていたのだろう。


 改めて大神殿という存在が、狭間の獣に対抗するために生まれた組織だったことを痛感した。


 ビアンカが指をさしながら、魔法陣の意味を俺とリュミエールに説明してくれた。


「それで、あの花弁みたいな部分にある円の中に聖騎士たちが立つことで、私に力を送り続けられるのです」

「そうなのか。でも円は七つだが……ビアンカはどこにいるんだ?」

「空です」

「そうか、空か」

「はい!」


 ビアンカがにっこりと笑いながら、大きく頷いた。


 なるほど、空かー。


 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………


 ちょっと何言ってんのかわかんない。


 遅れてやってきた言葉の理解が、驚きと混乱を産む。パニックになるつつある自分の心をなんとか落ち着かせながら、俺はビアンカに聞きなおした。


「空って……あの空か? つまり、空を飛ぶってことか?」

「そうです。私は邪祓いの際、魔法陣の丁度中央辺りの上空に浮いている状態になります。そこから結界を維持しながら、狭間の獣の動きを止めるのです」


 俺とリュミエールは思わず空を見上げた。

 今日は雲一つ無い良い天気で、絶好の邪祓い日より――じゃなくって‼


 目を瞬かせながら空を見上げる俺たちの耳に、ビアンカの明るい笑い声が響く。


「ふふっ、空を飛べるのは、狭間の獣の邪祓いのときだけですよ、お父様。聖騎士たちから与えられた力によって、今の私がもつ以上の力が使えるのです。だから、空を飛んで城を抜け出すなんて出来ませんから、安心してください」

「……そういう考えが出るってことは、空を飛んで城を抜け出せるんじゃないかと、少しは考えたんじゃないか?」

「あっ、えーっと……」


 図星だったのか、ビアンカが口ごもった。必死で言い訳を考えているのが、黒くて大きな瞳をキョロキョロさせている。

 だが、良い言い訳が思いつかなかったのだろう。


 娘の可愛い唇が動いた瞬間、俺はリュミエールの腕を掴むと同時に、両膝に力を込めた。


 来るぞ……来るぞ……

 ビアンカの可愛いやつがっ‼


「えへへっ☆」


 娘の可愛すぎる誤魔化し笑いが、俺たちに襲い掛かった。リュミエールの身体が一瞬バランスを崩したが、俺が咄嗟に腕を掴んで警告したのが伝わっていたのか、間一髪両足を踏み込んだことで、倒れることは免れたようだ。


 もちろん俺も、ビアンカの可愛いのが来ると分かっていたため、事前に対処済みだ。


 だがこの子の誤魔化し笑いは、ビアンカの可愛い行動四天王の中でも最弱。


 はい、人類終わったな!


 まあビアンカに滅ぼされるなら本望かと考えていると、俺よりも先にダメージから立ち直ったリュミエールが、魔法陣の方を指差した。


「私は、この魔法陣の中にいればいいのですね?」

「はい、そうです。大神殿でお話ししたとおり、お義母様はお父様と一緒に魔法陣の中に入っていてください。私が、お義母様に取り憑いた狭間の獣を無理矢理目覚めさせて動きを封じたところを、お父様に聖剣で祓って貰いますから」


 ビアンカの説明を聞きながら、俺は腰に差している聖剣の柄に触れた。


 さっきまでずっしりとした剣の重さが身体にかかっていたが、ビアンカによって【聖女の刻印】――聖女の代理で聖剣を扱うための刻印――を右手の甲に与えられてからは、剣を携えていないのかと錯覚してしまうほど軽くなった。


 さすが、聖女の力を増幅させる補助武器といったところか。


 確か、狭間の獣を目覚めさせる前に、ビアンカが結界を張るんだったな。だけど結界を張ると、外から中に入れなくなってしまうため、俺とリュミエールは予め、魔法陣の中に入っていないといけないんだっけか。


 そして結界は、狭間の獣を祓うまで解かれることはない。

 つまり俺は、狭間の獣を聖剣でぶっさして倒さない限り、外に出ることは出来ないのだ。


 とはいえ、結界内で目覚めさせた獣の動きを、ビアンカが聖法ですぐに止めるという話だから、問題ないとは思うが。

 

 妖精族の女性聖騎士たちが俺たちの所に集まってきて、頭を下げた。俺たちも、彼女たちに向かって頭を下げると、自身の持ち場へと向かった。


 魔法陣の中央には、リュミエールと俺とビアンカ。

 七枚の花弁の中に描かれた円の中央に立つ、聖騎士たち。

 魔法陣の外には、大神官を始めとする神殿関係者が、グルッと取り囲んでいる。彼らは、結界維持の補助をするのだという。


「では、今から狭間の獣の邪祓いを始めます」


 十歳とは思えないほどの凜とした声が、俺たちの鼓膜を震わせた。一瞬にして、張り詰めたような緊張が場を満たす。


 ビアンカが口を開いた。


 小さな唇から奏でられるのは、歌。俺にはサッパリ分からない言葉とともに、見えない旋律をなぞっていく。


 ビアンカ一人から始まった歌に、大神官の低音が重なる。それを合図に、魔法陣を取り囲む神官たちが一斉に口を開き、幼い声から始まった歌が、分厚い声の層となって響き渡った。


 突如、魔法陣が輝き出した。

 それと同時に、聖騎士たちの身体が銀色の炎のような揺らぎに包まれる。彼女たちの胸から光の筋が伸び、魔法陣の中央にいるビアンカの胸に当たると、ビアンカの小さな身体から光が溢れ出てきた。


 その光は球体となってビアンカを包み込んだかと思うと、ゆっくりと浮き上がる。

 小さな手が、俺たちに向かって伸ばされる。


「お義母様、心配しないでください。そしてお父様……お義母様をよろしくお願いいたします。どうか、無茶はしないで……」

「ああ、分かった」

「ビアンカも、無理をしないで……」


 俺たちはビアンカの手を強く握ると、そっと離した。


 ビアンカを包み込んだ光球が、空に昇っていく。俺たちがいる場所から、ビアンカの姿が見えなくなるまで高く上ると、光球から放たれた網目状の光が、魔法陣の円に落ちた。


 次の瞬間、周囲の景色が一変した。


 どこまでも続く真っ白い空間。

 先ほどまで、俺たちを取り囲んでいた聖騎士や神官たちの姿はない。上を見上げても、果てが見えない白が続いているだけで、ビアンカを包み込んだ光球はどこにも見当たらない。


 狭間の獣が暴れても大丈夫なように、ビアンカが結界を張ったのだ。

 ここにいるのは予め魔法陣の中にいた、俺とリュミエールだけ。


 いよいよ始まる。


「レオン様」


 リュミエールが俺の名を呼んだ。腹あたりで組まれた両手は僅かに震えていたが、俺を見つめる瞳には一切の迷いはなかった。


 この国の王妃としての誇りと威厳に満ちあふれた妻――リュミエール・エデル・エクペリオンの姿があった。


 そんな妻の姿を誇らしく思いながら、俺はわざと声色を明るくしながら提案をした。


「そんなに気負う必要は無い。すぐに終わる。そうしたら休暇を延長して、少し遠くまで足を伸ばすか?」

「いけませんよ。ちゃんと予定通りに戻らなければ、皆が心配します」

「真面目だな、リュミエールは」

「真面目ではないですよ。私はただ……あなた様の隣にいても恥ずかしくないよう、常日頃から振る舞いに気をつけているだけです」


 リュミエールは微笑むと、俺に向かって躊躇いがちに手を伸ばした。伸ばされた手を掴むと、そのまま彼女の身体ごと、俺の胸に引き寄せる。


 どのくらいの間、抱きしめ合っていたか分からない。

 リュミエールが、そっと俺の胸を押した。


「……行ってください。そして、決して振り返らないで」


 それが、始まりの合図だった。


 リュミエールの身体からドス黒い靄が溢れ出した。同時に、自身の身体を抱きしめながら、膝から崩れ落ちる。


 抱き起こしたかった。

 いや、倒れる前に抱き留めたかった。


 だが、俺は振り向くことなく走った。

 それは、彼女の願いだったからだ。


 狭間の獣に変化する自分を、俺に見られたくないという彼女の――


 必死で足を動かすたびに、腰にさした聖剣が鞘の中でカチャカチャと鳴った。


 背後で爆発音が響いたかと思うと、遅れてやって来た衝撃波が俺を襲う。突風が吹き抜けた程度の衝撃だったが、代わりに真っ白い空間が黒い霧で覆われた。


 立ち止まり、走ってきた場所を振り返る。

 霧が一番濃い場所に、巨大な獣が一体、


 全身は長い黒い毛で覆われていて、顔は狼のそれ。尖った鼻の下には、耳まで裂けた口があり、下顎から鋭い牙が二本飛び出ている。奴が呼吸するたびに、裂けた口から白い煙が立ち上る。


 だが首から下は人間と同じように、二本の足で立っていた。狼の頭がなければ、俺の六倍はあるムキムキ巨体をもつ、人間型モンスターのように見える。手も足も、長い毛に覆われている以外は、人間と一緒だったからだ。


 身体全身が黒く長い毛で覆われていた巨体だが、胸の丁度中央部分だけ、毛に覆われていない部分があった。


 目を凝らし、見えたものは――獣の身体に胸から下全てが埋まっている、リュミエールの姿だった。気を失っているのか、目を瞑ったまま身動き一つしない。


 あそこが、俺が目指すべき場所。

 聖剣を突き立てて、狭間の獣をぶっ殺す場所だ。


 美しい彼女を、こんな姿に変えてしまった狭間の獣に、激しい怒りが沸いた。

 聖剣を抜くと、鞘を捨てる。


 恐らく、この戦いが終わるまで、聖剣を鞘にしまうことはない。


 そのとき、


『うそっ……な、なに、これ……』


 俺の頭の中に、ビアンカの声が響いた。確か結界の外から、俺の心に直接指示を出すって言っていたな。テレパシーみたいなものか。


 だが俺に届いたビアンカの声は、いつもの自信があるものとはかけ離れていた。


 恐怖。

 それが、娘の声を満たす感情の名。


「ビアンカ、どうした⁉ なにか想定外のことでも起こったのか⁉」


 俺の声が届いたのか、ビアンカの恐怖が止まった。だが代わりに、強い困惑と緊張が伝わってくる。


 間違いなく、何かが起こっている。

 俺たちの予想だにしない、何かが――


『狭間の獣の形態が、大神殿に伝わっているものと違うのです! それに、獣の力がこれほどまで強いなんて……もしこの狭間の獣が解き放たれたら、被害はエクペリオン王国だけに留まらない……』

「それは、どういう……」


 やはり……そうなのか?

 ファナードの女神の言う通りなのか?


 どうか……どうか違うと言ってくれ、ビアンカ!


 だが俺の祈りは、届かなかった。

 少しの間ののち、ビアンカは無情にも言い放った。


『この邪祓いが失敗すれば……世界は狭間の獣によって滅ぼされるでしょう』


 娘の言葉を肯定するかのように、狭間の獣が咆哮をあげた。

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