怪異行政代執行

@AliceIn

千手の泉 Ep.1

燃費の悪イクの音。

下手くそなトロンボーンの音。

毎夜毎夜、飽きずに奏でるのは牛蛙の群れだ。


左に茂る雑木林、右に広がる湖、そして水道工事でツートンとなったアスファルトの上に陣取って、彼らは騒音を撒き散らす。 


懐中電灯の円い灯りが、一匹の蛙を捕える。彼は光に怯えることも、自身より遥かに巨大な生物を前に逃げ出すこともせず、じっと動かない。よく見ると蛙は口から内臓を吐いて、平面になっている。車に轢かれたのだと分かった。


ポツン、とでくの坊のように突っ立った街頭は、自身の足元を照らすことに満足し、次との距離が長いことを忘れている。傾いた鉄柱に、羽虫が体当たりを繰り返す。 


道に飛び出た草が揺れる。その様は、手招きしているようで気味が悪い。センターラインを横切り、反対側の路側帯に移動する。ガードレールの反射板が、チラチラ輝く。


「送って貰えばよかった」言葉と一緒に、後悔の念を吐き出した。実家に出戻って、一週間。都会での生活が染みついた身は、田舎の不便さなどすっかり忘れている。


椿の葉が、バタバタ音を立てる。薄手のTシャツは与えられた役割を放棄して、夜風を素通りさせる。


『ピタッ』と何かが、首筋に触れた。それは風のいたずらなどではなく、確かな質量をともなっている。鳥肌が全身に広がる。私は探るようにして、首に手を這わせる。指先が、冷たく、ねっとりした物体に触れた。それを包み込んで、灯りの下に曝す。手の平に乗っていたのは、蛙だった。彼は自身の環境の変化に興味なさ気に、鳴き袋を膨らます。白い皮膚が、半透明に変わる。生理的嫌悪がして、反射的にそれを放り投げた。緑の物体は闇に紛れて、視界から消える。遅れて、水の音が響く。


懐中電灯をアスファルトに置き、蛙を握ったのと逆の手で鞄をまさぐる。タオルのざらつき、財布の四角さ、スマホの冷たさは見つかるのに、なかなか除菌シートに辿り着かない。


私はボクシングの1ラウンドより長い時間、格闘を続けた。そして降参してファスナーを閉めた。私の鞄の中は、片手で捜索するには雑多で広大過ぎたのだ。電灯を持ち直し、再び歩き始める。一歩踏み出す度、光の円が揺れる。右手をピンと伸ばして、服に粘液が触れないようにする。 


ちょうど十歩ほど進んだとき、私は転んだ。顔面から盛大に。顔に設置された全ての神経が、焼けるような痛みを伝達する。すかさず両手で顔を覆うが、刺激された傷口が、さらに痛みを訴えるだけだ。転んだ理由は、変な格好で歩いていたからでも、田舎者に不釣り合いな高いヒールを履いていたからでもない。足首に何かが引っかかったのだ。芦か蔦でも纏わり付いたのだろうか。歩道の整備すらまともにできない、怠惰な自治体に怒りを感じるが、それが冤罪だとすぐに分かった。転がった懐中電灯は、白い、どこまでも白い人間の手が私の足首を掴むのを、映し出していたいたのだから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


机の引き出しから、投げやりに放り出される白い封筒。こんなものが俺の人生を左右するということを、認めるのは嫌だった。それと同時に、証拠を積み上げられ自供を始める窃盗犯のような、達観した感情も持ち合わせていた。


「出向が決まった」俺は、刑事になりたかった。巡査長昇進試験に一発合格し、念願叶って刑事課配属になったまではよかった。だが、それまでだった。聞き込みも、取り調べも、報連相もできず、できることといえば事務作業とペーパーテストだけ。俺にこの仕事は向いていなかったのだ。いつか、この日が来ることは分かっていたが、夢の終わりがこれほどまでにあっけないとは思っていなかった。


「この時期に、ですか」


「不満か?」


「いえ」きっとこの先、猫の額みたいな交番で、子供の下校を見守ったり、老人の世間話を聞いたり、片手間に昇進試験の勉強をしながら定年を迎えるのだろう。こういう警官にはなりたくない、と思っていたが、燃えかすとなった今の俺にはピッタリかもしれない。


「怪異対策庁が発足したことは知っているな」話は予想と裏腹に、変な方向に進んでいく。


「はい」


「君の出向先はそこだ」今さら、配属先にこだわりは無い。しかし、そこだけはダメだった。


「ホラーが大の苦手なのですが」


「もう、訓示は出ている。まぁ、頑張ってくれ」昔の上司は、俺の肩を叩く。それはもう、嬉しそうに。


「いつからですか?」


「明日だ。送別会は必要か?」


「いえ、いいです」


「栗田に引き継ぎはしておけよ。引き継ぐような仕事があればだがな」名前を呼ばれた後輩が、現われる。その瞳は眩しいほどに活力が満ちていて、後何年を重ねたとしても彼には勝てないのだなと実感させられた。


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地図に記された場所にあった物は、ビルというよりコンクリートの塊に近かった。変色した直方体に室外機と、申し訳程度の窓がくっついている。点字ブロックを辿って、玄関に向かう。掲示板のガラスの中には、退治される河童のイラストと、端が破れた募集チラシが張り出されている。それがなければ、ここが潤沢な予算で有名な怪異対策庁の庁舎だと信じられなかっただろう。


「お邪魔します」


引き戸が動くの面倒くさがるように、金切り声を立てる。ムワリとした熱気が、行き場を求めて流れ出る。建物の中は外観に違わず、みずぼらしいものだった。並ぶ椅子の革は破れ、蛍光灯は一つおきにしか点いていない。元は他の施設だったのだろう。埃を被った、受付カウンターが並んでいる。


「すいません、誰かいませんか」


声は反響を繰り返し、コンクリートに吸収される。靴と床のぶつかる音がよく響く。 


「すいません」


「どうしました?」耳元で響く声に、心臓が止まりかけた。俺は首だけ回転させて、後ろを振り返る。そこにはスーツ姿の女性が立っていた。ひらひら揺れる青いリボンで、彼女が受付嬢なのだと分かる。空手のインター杯に出場したこともあるが、武道と気配察知力に何ら関係ないのだと知って少し落ち込んだ。


「営業時間まだなんですよね。あと三分、適当に時間潰してもらっていいですか?」


「営業時間ですか?」女性は胸ポケットからスマホを取り出し、何かを打ち込む。そして液晶画面を俺に向けた。  


『怪異対策庁、13件のレビュー、星2.3、営業時間外』となっている。


「すいません、俺、客ではなくて」肺が膨らむのを実感できるほど、大きく息を吸い込む。


「今日から怪異対策庁、怪異対策二課配属となりました如月蒼太巡査長です。よろしくおねがいします」噛まずに言えたことに安心し、胸が一気に萎む。


「そういうことは、早く言ってよね」受付嬢はスマホを戻した手で煙草を取り出し、口に咥える。髑髏のライターが火を噴き、紙が燃える。


「公共施設では指定区域を除いて、全面禁煙ではないのですか」


「あんた、警察あがり?」


「はい」


肉付きのいい唇から、煙が吐き出される。それは、そのまま換気扇に吸い込まれる。


「奇遇ね。私もよ」彼女は唇を伸ばして微笑む。始業のチャイムが鳴った。

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