第11話 闇の入口
認識疎外を施したノゾミは、雅司と共に電車、バスを乗り継ぎ施設へと向かった。
時間にして1時間。結構遠いんだな、そう思った。
道中、雅司はずっと険しい顔をしていた。
自分の姿は雅司にしか見えない。周囲に違和感を与えない様、ノゾミは無言を貫いていた。
――初めて出会った時の顔だ。
そう思いながら。
三階建ての施設は、郊外にひっそりと佇んでいた。看板がなければ、どこにでもあるハイツと言われても納得する、そんな趣の建物だった。
入口でカードキーを当てると、自動ドアが静かに開いた。
事務所には誰もいなかった。タイムカードを押した雅司は、
「着替えて来るよ」
そう言って、ロッカールームに入っていった。
中に入った時、すぐに感じた。
ここの空気は
そして匂いにーー死を感じた。
「おまたせ」
ジャージ姿の雅司が、ノゾミに笑顔を向ける。
しかしそれは、この数日見てきた笑顔とは、まるで違うものだった。
「……大丈夫なの?」
「ああ、問題ない」
そう言って小さく笑い、荷物を手に階段を上っていく。
雅司の担当は二階だった。
「しばらく相手出来ないけど」
「勝手についてきたんだから、私のことは気にしないで。雅司はいつも通りにしてていいから」
「悪いな。21時には落ち着くと思うから」
これから数時間、彼の戦いが始まるんだ。
そう思ったノゾミの耳に、女の怒声が聞こえてきた。
「じゃあ入るぞ」
雅司がカードキーを当てる。
「帰らせてよ!」
扉を開けると、白髪の女が立っていた。
「こんにちは佐藤さん。どうされました?」
笑みを浮かべ、穏やかに声を掛ける。
「帰るって言ってるのよ! こんな所に、いつまで閉じ込めておくのよ!」
「佐藤さん佐藤さん、帰るのは明日ですよ。長男さん、明日の10時に迎えに来るって」
「……そうなの?」
「ええ。今日来たかったんだけど、都合がつかなかったみたいで。もう一晩だけ、ここに泊まって欲しいって」
「そうなのね……分かったわ。明日帰れるのね」
「ええ。だから……」
そう言って、佐藤の耳元に顔を近付け、囁くように言った。
「最後の一日。僕が明日の朝までいますので、よろしくお願いしますね」
雅司の囁きに、佐藤が嬉しそうにうなずく。
「でも佐藤さん。帰っても僕のこと、忘れないでくださいよ」
「忘れる訳ないじゃない! ずっと覚えてるわよ!」
満面の笑みを雅司に向ける。
「ははっ、よかった。じゃあ佐藤さん、そろそろ晩御飯なんで、一緒に行きましょうか」
そう言って佐藤の手を握り、雅司が静かに扉を閉めた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。結構大変よ」
夕食の準備をしている女性スタッフが、そう言って苦笑いを浮かべる。
「体調不良の人は?」
「特にないわ。佐藤さんの帰宅願望が強いのと、小林さんがいつも以上に立ち上がろうとしてる。今も縛ってるけどあの感じ、今夜寝ないかもね」
ーーえ? 縛ってるって、何?――
当たり前の様に話すスタッフの言葉に、ノゾミが困惑の表情を浮かべた。
食堂には、8人の利用者が座っている。
うち、車椅子の利用者が3人。その人たちを見て、言葉の意味を理解した。
車椅子とテーブルの脚が、紐で縛られていた。その中で一人、何とかそこから抜け出そうと、テーブルを押している女性がいた。小林だった。
彼女は何度もテーブルを押し、体を揺らしながら「うーうー」とうめき声をあげていた。
「準備の方、任していいですか」
「いいわよ。配膳するまでは残るから」
「すいません、お願いします」
雅司は荷物をスタッフエリアに放り込み、小林の元へと向かった。
「こんばんは小林さん。もうすぐご飯出来ますからね、もう少しだけ待っててもらえますか」
その言葉に小林が動きを止め、雅司の顔を覗き込む。
「もうちょっとで出来ますからね」
すると小林は雅司の髪をつかみ、引っ張った。
「いたたたたたっ……ははっ、小林さん、今日も元気ですね。心配だったけど安心しました。それじゃあ待ってて下さいね」
そう言って手を振りほどき、立ち上がる。
辺りを見渡し、全員の様子を観察する。
いつも、まず初めに雅司がしていることだった。こうして観察することで、利用者の状態が何となく分かるのだ。
雅司は各居室に向かい、寝間着と翌朝用の下着、靴下等を用意していった。オムツやパットの残数も確認する。
それが終わると、夕食後に服用する薬の確認。一人一人の名前、日付をチェックし、水と一緒にセットする。
「ちょっといいですか」
慌ただしく動く雅司に、恰幅のいい男性が近付いてきた。
「渡辺さん、どうされました?」
唯一の男性利用者、渡辺に笑顔で応える。
「いや、さっきからずっと頼んでるんだが、息子に会わせてほしいんだ」
言葉は丁寧だが、表情は険しかった。
「息子さんですよね。渡辺さんにそう言われてたから、事務所の人が連絡してましたよ。明日の昼、電話がかかってくるそうです」
「明日ですか? いや、それならいいんです」
「よかったですね。明日、ゆっくり話してくださいね」
「ああ、ありがとう」
「いえいえ」
そう言いながら、夕食後に回収する義歯用のケースを準備する。
「田中さーん、どこに行くんですかー」
今度は奥のテーブルにいる、田中と呼ばれた女性が立ち上がろうとしていた。
「田中さん田中さん、立ち上がったら危ないですよ。この前みたいにこけたら大変でしょ」
「田中さんも、結構不穏だよ。縛った方がいいかも」
「……ですね」
そう言うと田中を座らせ、椅子とテーブルを紐で縛った。
「もうちょっとだけ、辛抱しててくださいね。ご飯が終わったら、お布団に連れていきますから」
そう言って頭を撫でると、田中は不満気にうつむき、テーブルの脚を蹴った。
「そろそろ出来るよ」
「ありがとうございます。消毒行きますね」
「お願い」
消毒用のアルコールを、一人一人の手に吹きかけていく。利用者の中にはそれが何か分からず、アルコール
「はーい、山本さん、手をごしごしして下さいねー」
女性スタッフが、トレイをテーブルに運んでいく。
フロアーに入ってから1時間。息つく間もなく走り回る二人を、ノゾミは呆然と見つめていた。
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