悪魔の初恋

栗須帳(くりす・とばり)

第1章 絶望に飽きた男

第1話 深夜の邂逅


 雑居ビルの屋上で。

 地面を見下ろしながら。

 男は人生最後の煙草を味わっていた。





 大地に吸い込まれるような感覚。

 この瞬間を、何度も何度も夢想した。

 どれだけの恐怖に襲われるだろう。

 どれだけ生への執着にさいなまれるのだろう。

 足は動くのか?

 本当に飛べるのか?

 そんなことをずっと考えていた。

 しかし。

 それが全て杞憂だったと悟り、小さく笑った。




 何も感じてなかった。




 未練も後悔も、何もない人生。

 今まで生きてきたことが、心底馬鹿馬鹿しいと思えた。

 最後の煙草を心ゆくまで堪能し、揉み消す。


 後は飛ぶだけ。


 この足を、あと少し進めるだけで。

 俺の人生は完結する。


 空を仰ぐと、巨大な月が自分を照らしていた。

 最後に俺を見届けてくれるのは、あんたなんだな。

 嫌な役回り、させてすまない。

 そうつぶやき。自虐的な笑みを浮かべ。

 柵から手を離した。




「少しだけお時間、いいですか」




 静寂を破った声に、男が振り返る。

 スーツ姿の女が立っていた。


 年の頃は、20代前半。

 漆黒の髪は長く、風に揺らめいてた。

 暗闇の中でもよく分かる、白い肌。

 切れ長の大きな瞳で、真っ直ぐ自分を見据えている。


 女は桜貝の様な唇に笑みを浮かべ、男に語り掛けた。


「これからあなたは、人生を完結しようとしている。そうですね」


「ああ」


「そこに至るまでに、どれだけの葛藤があったのかは理解出来ます。この世界、幸せより苦痛の方が多いですから」


「それで?」


「あなたが捨てようとしてるその命、私に預からせてもらえませんか」




「……」


 突然現れた女。

 深夜の屋上に、こんな若い女がいる筈がない。

 女は、今から飛び降りようとしている自分に声をかけてきた。

 思いとどまらせる以外の目的で。

 それが何なのか、知りたくなった。


 もう何もない。何もいらない。

 そう思っていた筈なのに。

 自分の中にまだ、好奇心なんてものがあったのか。そう思い、男は三度みたび笑った。





「説明、いいか?」


 男は柵に手をやり、女と向き合った。


「何者だ」


「質問の意図、知りたいです」


「あんたみたいな女がこんな時間、こんな場所にいるのは不自然だ。何よりあんたは、これから死のうとしてる俺を憐れんでいない。同情もしていない。あんたの瞳からは、別の何かを感じる。そしてそれは、ただの人間に宿るものじゃない気がする」


「なるほど。死に近付いた人間には、独特の嗅覚が宿ると聞きますが、あなたも何か感じているのですね」


「人間じゃないな」


「はい。私は悪魔です」


 そう言って、女は妖艶な笑みを浮かべた。



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