ハーメルンは笛を吹かない
香久山 ゆみ
#1
『ハーメルンの笛吹き男』の昔話になぞらえて、それは「ハーメルン事件」と呼ばれた。
* * *
じめじめした梅雨がいつまでも明けぬ中、我が中学校で失踪事件が発生した。
女子生徒が、一人、また一人と姿を消した。
消えた二人の生徒はとりわけ悩みやトラブルを抱えていたようでもなく、かといって事件の痕跡も見つからず、家出なのか誘拐なのかはたまた事件に巻き込まれたのか、判然としない。ただ、ある日、ふっと姿を消した。
二人の共通点といえば、性別が女であること、同じ学年で同じ年齢である。しかし、クラスは違うし、小学校も別々。あとは、――二人とも科学部員であったということ。……そう。僕と同じ、科学部の部員だった。
我が部から二人もの失踪者が出たというのに、部長は変わらず飄々としている。
確かに部長は学校でも評判の美人ではある。なのに、科学部に男子部員が多くないのは、その性格に問題があるからだ。部長は秀才、いや天才的な頭脳の持ち主でもあるが、人間社会とか道徳とかいうものには一切興味を示さない。クールビューティーというか、ええと、率直にいうとマッドサイエンティスト。変人だ。
例えば。実験と称し、教師をパブロフの犬と化させる。
被験者は、やる気のなさで定評のあるヤギセンだ。「うーんと、じゃあ今日はちょっと早いけどここで授業終わります」が口癖。五回に一回は言っていると思う。
部長はそれを逆手に取った。理科の授業中、ヤギセンの「早いけどここまで」が出る度に、カチャンと机の上からペンケースを落とすことを繰り返した。そして地道な努力を二ヶ月繰り返し続けて、遂に。授業中に部長がペンケースを落とすと、ヤギセンが「早いけどここまで」と自然に授業を切り上げるようになったのだ。あの時は珍しく彼女の笑顔を見た。あの、したり顔。
かくして、部長は授業がつまらない時にはペンケースを落として早期終了させるという術を得たのだ。
しかし、それって生徒として、人として、どうなのよ? 疑問を投げる僕に、部長は平然と言い放った。
「これは崇高な科学の実験よ。八木先生は科学部顧問として協力する義務がある。でしょ」
当然のように言われると、返す言葉もない。まあ、部長も頻繁に授業妨害しているわけでもないし、だいいち、パブロフ実験について知っているのは部長と僕の二人きりだ。他の生徒が悪用して教室が混乱することもない。それが部長の良識によるものなのか、他者への無関心によるものかは知らないが。
そんな風に。
科学への情熱に溢れているが、その愛を少しは周りの人間にも振り撒けばいいと思うのだが。そうはせずに、また、身なりにもとくだん気を遣わないから、「確かに美人ではあるけれど……、なあ?」といった男子評だ。しかし、なぜか一部女子からは熱烈に慕われているようで、そんな女子部員が入部することで、科学部はなんとか部員不足による廃部を免れていた。
失踪した女子生徒も、そんな部員のうちだった。
だが、それだけだ。
失踪した二人は特別仲が良かったわけでもない。それぞれの友人とともに入部してきて、タイプもまるで違うから、あくまで部活仲間という間柄だ。
一人目の失踪者、黒木七緒。気の強い女子で、僕は少し苦手だった。
黒木が失踪した時は、皆、もちろん心配したけれど、内心は、身近に起きた非日常な事件にさわさわと興奮していた。それに、それ程危機感もなかった。鼻っ柱の強い少女だから、きっと家族とケンカでもして、しばらく家を飛び出しているんだろう。その程度に考えていた。女子たちは、黒木に年上の恋人でもできて駆け落ちしたんじゃないかとか、きゃあきゃあ色めき立っていた。
様子が変わったのは、その翌週に、二人目の失踪者が出たからだ。白井里穂子。ふわふわした小動物みたいな女の子で、家出なんて考えられないようなおっとりした子だったから。
それで、これは事件だと、学校中が大騒ぎになった。
すべての部活動は五時迄という時限を設けられ、科学部は活動停止となった。
だから、科学部の部室である理科室には、今、部長と僕しかいない。いや、活動停止の指導がなくても、他の部員は皆退部してしまったから、廃部になるのも時間の問題だ。失踪者の唯一の共通点が「科学部」なのだから、やめるのも仕方のないことだと思う。
なんの実験器具も出ていない、がらんとした理科室。
「ねえ。タイム・トリップって可能だと思う?」
ふいに部長が言う。
「ええと。一応可能だと言われてますよね。理論上は。特殊相対性理論とか、ワームホールとか、ええと、あ、ウラシマ効果とか」
知っている科学用語を総動員する。部長がクスリと笑う。
「じゃあ、可能だってこと?」
「いや、でも、過去に行くのは難しいとか……」
「そうだね。エネルギーの総和は定数だから、光速くらい速いスピードで移動することで、時間エネルギーを削って実質的に未来へ行くことは可能だと言われているわよね」
彼女は埃っぽいカーテンを開けて外を見つめる。今日も雨が降っているから、外は薄暗い。じめじめと湿った空気に息苦しさを感じる。
「で?」
部長が振り返る。
「それできみは、信じるの? 信じないの?」
「僕は――、不可能だと思います」
部長の黒い瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「そりゃあ、理論上は可能かもしれないけれど……、実際に光速で動く装置なんて存在しないし、仮に発明されても人間の体がそれに耐えられるとは思いません。それに、もしもタイム・トラベルが可能だとしたら、この世界に一人ぐらい来ていたっていいと思うし。それに、……」
「パラドックスの問題?」
「はい」
「けれど、きみが実現不可能だという理由、それは全部、三次元の話だよね」
「まあ……」
部長の反応を見ながら、慎重に答える。
失踪した黒木も白井も、前の日に部長とタイム・トリップの話をしていたという。彼女たちは、部長を慕って入部しただけで、科学の知識はほぼ皆無なのだが、懸命にテレビやマンガで得た知識を総動員して話に食らいつき会話していたという。想像に難くない、健気ないつもの光景だ。その気持ちは僕も分かる。部長に憧れているから、失望されたくない嫌われたくない認めてほしい。少しでも長く話していたい。
――でも。
「私は、可能だと思うよ。タイム・トリップ」
部長の声ではっと我に返る。いつもと変わらぬ、平淡で明瞭な、真っ直ぐな声。
「既知の力で不可能ならば、その外の力を使えばいい。そう思わない? 宇宙全体でみると現在人類が解明したのはそのわずか四パーセントに過ぎない。じゃあ、あとの九十六パーセントには何があるのか。例えば、超能力とか霊魂とか。現代の私たちが非科学的だと切り捨てたもの、そういうものも九十六パーセントに含まれるのかもしれない。そういうものも全部信じたら。タイム・トリップも可能だと思わない」
「でも」
思わず、でも、と返してしまう。
でももなにもない。タイム・トリップに関しては。
――でも。僕は部長を疑っているのだ。部長が、犯人なのではないかと。
平気で教師を実験材料にする部長。その部長が最近はまっているのがタイム・トリップだ。部長の膨大な知識と計算機がどのような仮説を立てたのか、僕には分からない。けれど、自身の立てたタイム・トリップの仮説を実証するために、部長は少女たちを実験台にしたのではないか。
けれど、そう思う一方で、部長のことを信じたい僕がいる。悪魔のような実験はしても、それはあくまで実験でヤギセンをコケにするようなことはなかった。皆に吹聴して先生を困らせたりはしない。それに、こんな部長だけれど、確かに部員たちには慕われているのだ。だから。
「ハ、ハーメルンは、笛を吹かない」
――部長は犯人じゃないですよね――。二人の失踪事件は生徒の間で「ハーメルン事件」だと囁かれている。ハーメルンの笛吹き男はその悪魔的な音色で町中の子供を攫っていった。誰が笛を吹いたのか。彼女たちは部長の言葉に心酔していた。部長は少女たちを操るに足る笛を持っていた。けど、だからといって、部長はそんな悪魔の笛を吹きはしない。でしょう? 不器用な僕からの精一杯のメッセージ。なのに。
「なに、それ。そりゃあ笛は吹かないでしょう。ああ、真理ってこと? そうね。真理は大切だわ。何事においても。標になるから」
凡人の言葉は天才には通じない。遠回しに過ぎたか。僕は口下手だから。それとも、はぐらかされているのか。
「あの、いや、そうじゃなくて」
「なあに。だからきみはどうなのよ、タイム・トリップ」
部長がぐいと顔を寄せて僕を見つめる。じっと。
さあさあとやまない雨の音がする。
息苦しい。胸が。
「信じないの?」
そう言うと、澱んだ空気から新しい呼吸をするようにフフフと笑って。そうして、じゃあね、と理科室を出て行った。
一人残された僕はぼんやりと立ち竦む。まるで理科室の中まで梅雨に満たされたみたいに、息が苦しい。
――信じないの?
部長の真っ直ぐな言葉が脳裏に何度も響く。天才の言葉は凡人には通じない。
信じないの? ……科学を? それとも、部長を?
「ハーメルンの笛吹き」は部長なのか。そんな疑いを持った僕は馬鹿だ。
そして、部長もいなくなった。
部長の言葉だけが。時を越えていつまでも僕の頭の中へ、あの時のままで語りかけてくるのだ。だから、確かにタイム・トリップは存在するらしい。
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