第10話 断罪の悪魔
リアラは大広場から離れ、足の動きをさらに早める。
目指しているのは、北区だ。
影目玉が一斉に北のほうへ向かっていったから、同じ方向に進めばアドたちと合流できると考えたのだ。
「街がこんなに騒々しいのは初めてです」
「おかげでこちらは動きやすいが」
また悲鳴が聞こえた。
アドくんは今も暴れ回っているらしい。
「アドくんの行動が読めない。ランダムすぎる。わたしの考えも甘かったですが、でも――」
言っているうちに怒りがふつふつと沸いてきた。
「計画を修正するわたしの身にもなってほしいです!」
次は小言では済まさない。
嫌がっても嫌というほど言い聞かせてやる。
「おい聞いたか! ローブの子供と金髪の女が厩舎塔に攻め込んだらしいぞ!」
はぁ!?
「何をしてやがるんですかあの二人は!」
通りすがりの噂話でリアラの怒りが爆発する。
よりにもよって
魔族だけでなく人間までも敵に回すつもりか。
「アルティア様はすでに避難済みだとよ」
「そうか。それはよかった」
リアラは通りすがりの二人組に耳を傾ける。
王族の住まう厩舎塔を襲ったせいで、今後は街の人間からも協力を得られなくなった。リアラの頭の中で、三つの計画が泡沫のように弾けて消える。
「あの小僧は今や立派なおたずね者であるな」
「わたしのせいです」
もっと上手いやり方があったはずだ。
不治の病で焦る気持ちも理解していた。
アドの危険性もわかっていたつもりだ。
だけど、読みが甘かった。
「リアラ、あの二人を切るぞ」
「え?」
唐突なジルの言葉に、リアラの思考が止まる。
「厄介者は仲間にするだけ損だ」
「…………」
理屈はわかる。
おたずね者と共にいたら、リアラも追われる身となるからだ。
目的を達成したいのであれば、アドと離れたほうが賢明だ。
頭ではわかっているのに、心がそれを受け入れてくれない。
「……でも、わたしが巻き込んでしまったばっかりに、アドくんたちは今大変な目に遭ってるんです。なのに見捨てるなんて――」
「罪悪感など捨て置け」
ぴしゃりと言い放たれて、リアラは冷水を浴びせられた。
罪悪感。この心の正体は、それか。
「何が何でもアルティア様をお助けするのだろう。吾輩がお前に手を貸しているのは、お前の覚悟を受け取ったからだ。ただの少女に戻りたいのなら、いっさいを諦めて家に帰れ。それが身の丈に合った幸せだ」
身の丈に合った幸せなんか糞食らえだ。
絶対にアルティア様は諦めない。
「……違いますよ。そんなのじゃないです」
顔を俯けたリアラは、自分の左腕に、右手の爪を食い込ませた。
どうしようもなく自分を傷つけ、痛めつけたくなった。
「ここで切り捨てたら、あの二人を利用できないじゃないですか」
罪悪感など捨て置け。すべての人間を利用しろ。
たとえこの胸が、張り裂けそうに痛くとも――。
「魔族様だ! 魔族様がお越しになったぞ!」
突然響き渡るその一声で、道行く人の表情が凍りついた。
ぽーう、と駅のほうから魔晄列車の汽笛の音が聞こえる。
「ついに動いたか。侵入者の討伐に」
駅舎に顔を向け、口々に物を言う。
「〝断罪の悪魔〟だ! 建物に隠れろ!」
「〝断罪の悪魔〟!?」
リアラは硬直した。
よりにもよって、〝断罪の悪魔〟。
逃げたい気持ちを必死に堪える。
いや、足が竦んで逃げることができないのだ。
魔族は本気だ。
対魔族の処刑人を、人間相手に寄越すのだから。
「害虫はどこだァ?」
駅舎から影の群れが降りてきた。
場が一瞬で張り詰める。
ファームの家畜たちは、一斉に膝をつき、ぞろぞろと平伏し始める。影の兵もその例に漏れない。家畜の中に混じって、巨大な背中を丸めていた。
慌ててリアラも膝をつき、額を地面に擦りつけた。
逃げるそぶりを見せでもしたら、魔族様の機嫌を損なって、人など簡単に殺されてしまう。生き延びるためには、従順な家畜を演じるしかない。
「ママ、あれはなに?」
「いいから、頭を下げて」
悪魔に指さす子供を必死に押さえつける母親。
「痛いよ、ママぁ!」
「いいから黙ってて……いい子だから……!」
俯けた視界の端に黒い影の足がよぎった。
リアラは顔を上げぬように、目だけで様子をうかがう。大通りをのそりのそりと迫ってくるのは、動物か人型かもわからぬ四足歩行の影だった。大きさは馬車ほどもあり、そのぶん動きは緩慢だった。
街の人間が〝断罪の悪魔〟と呼ぶのは、その四足歩行の影のことではない。
その背に座る、異形の存在のことだ。
頭部から二本の羊の角が生え、背中に蝙蝠の羽が広がるデーモン種。
皮膚の色は沼地の苔のような深緑で、体表から突き出る棘がおぞましい。身長よりも長い多関節の腕が、体躯から不気味に伸び下がり、先端の爪は鎌のように鋭利だった。
「アっ……アっ……」
四足歩行の影に乗る悪魔が、往路で彷徨う影人の前で止まった。
「おい誰か……あの影人を退けろ」
「魔族様の道を塞いでるぞ……」
家畜の心配は現実となり、多関節の長大な腕が、影人の首を摘み上げた。
「アっ……アっ……」
子猫のように足をばたつかせる影人。
「魔族様、申シ訳アリマセン!」
二体の影の兵が慌てて飛び出てくる。
「スグニ退カシマ――ガアッ!!」
〝断罪の悪魔〟が影の兵の頭部を力強く掴んだ。
禍々しい指が金属に深く食い込み、フェイスヘルムが軋みながら湾曲していく。
「お前たちはこの程度の管理もできないのか」
影の兵の、足が浮いた。
全身鎧で岩石ほどの重量があるはずなのに、悪魔は軽々と持ち上げ、そして次の瞬間には地面に叩きつけていた。
身の毛のよだつ、破壊音。
歩道に放射状の亀裂が駆け抜け、石畳の中心が易々と陥没する。
「だから侵入もされるのだ」
「グフッ!!」
もう一体の影の兵に裏拳が減り込み、往路の端まで弾け飛んだ。地面で火花を散らし、長い摩擦の傷を一本引いて停止する。
悪魔はもう一度、掴み上げた影人を眺めた。
「アっ……」
「魔王様の造りし壊れぬ影か」
足から頭まで観察するように視線を送り、両手で小さな体を握り締めると、今度は何の前触れもなく真下へ投げつけた。乾いた路面にべちゃっと黒い体液が飛び散り、悪魔の六つの眼が興味深そうに爛々と輝く。
「アー!! アー!!」
体の破裂した影人が、手足をむしり取られた虫のようにもがき苦しむ。
そして、リアラは不思議な現象を目の当たりにした。
周囲に飛び散った影人の破片が、まるで意思があるかのように蠢き、もがき苦しむ影人のもとへ
「飛び散った影が再生していく。素晴らしい」
感嘆の息を漏らし、それから悪魔の惨劇が始まった。
「アアー!! アアー!!」
影人を何度も壊しては何度も再生させる。
平伏する家畜はその場から動くことも許されず、悲痛な叫び声を延々と聞かされ続けた。家畜にできることは目を固く閉ざし、両手で耳を塞ぐことくらいだ。
「……こんな国、滅んでしまえばいいんですよ」
リアラは震える息を吐き、憎々しげに吐き出した。
「リアラ?」
魔族の私欲のため、何もかもが使い捨てられる。
家畜も影人も影の兵も。
魔族以外に自由はない。
そんなの、おかしい。
なぜすべてのものが、魔族のためだけに存在する必要があるのか。生きとし生けるものが、思うままに生きてはいけないだろうか。
そんなのおかしい、とリアラは再度思う。
自由のない捌け口として影の兵は家畜を迫害し、家畜は影人を迫害する。弱者を痛めつけ、心の平穏を保っている。それに耐えられず心を壊す人もいるし、自ら死を選ぶ人もいる。体ではなく心が疲れていく。
こんな歪な国は、存在しちゃいけない。
滅んでしまえばいい。
そう思っているのに、どうして自分は何もしないのか。目の前で影人が泣き叫んでいるのに、どうして額を擦りつけているのか。影人は、人間なのに!
リアラは鼻頭にしわを寄せる。
自分が死ぬほど嫌いだ。
無力な自分が大嫌いだ。
もっと力がほしい。
「まだ壊れんか!!」
無力とは、罪だ。
「ようやく見つけたぞ!! 我の本気を出せる玩具!!」
「アアーっ!! アアーっ!! アアーっ!!」
リアラは目をつぶり、両手で耳を塞いだ。
「やめろおおお!」
呼吸が止まった。
思わず前を向く。
「待ちな、エミール!!!」
ありえない光景が目に映った。
どこにでもいる一人の少年が、悪魔の腕にしがみついていた。
「汚ェなァ……」
毒々しい六つの眼がぎょろりと下を向いた。
「影人をいじめるな! 何も悪いことしてないだろ!」
「家畜の分際で……」
眼が次第に充血し、どす黒い殺気を孕む。
「申し訳ございません、魔族様!! この子は世間知らずで!! 二度とこのようなことはいたしません!! どうかご慈悲を……!!」
母親らしき女が慌てて走り寄り、悪魔の足元で土下座をする。しかし悪魔は母親が目に入っていない。影人の前で腕を広げる少年から目線が外れない。母親が服を引っ張るが、少年はなおも悪魔を睨みつける。
「だってオレ、影人で悪いやつなんて見たことないんだ」
その眼差しは力強かった。
「オレが転んだら心配してくれるし、落とし物をしたら教えてくれるんだ。みんないい人ばかりなのに、影だからって除け者にするのはおかしいよ」
そして、純心な目だった。
「影人はあんなに優しいのに!」
怖く、ないのだろうか?
怖くないわけがない。
いま少年は死の淵に立っており、少年もそれを理解している。
ではなぜ、少年は今も立ち向かっているのか?
そんなの決まっている。
あの少年は、魔族がおかしいと思ったのだ。影人が痛めつけられているのを目の当たりにして、これはおかしいと怒っているのだ。
彼の正義は、魔族を許さなかった。
――なのにわたしは……わたしは……!
リアラはそれでも、額を擦りつける。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
心の中で、謝り続ける。
今からリアラは少年と母親を見殺しにする。
リアラには何もできない。
何もしてはいけない。
アルティア様を助け出すという目標があるから。
……いや違う。
この期に及んで何を言い訳しているのか。醜い本心を曝け出せ。正直に言え。恥知らずにも、自分の身を案じているのだと。だからこうして安全圏で、許してほしくて謝っているのだと。
吐き気がするほど嫌な女だ。
何が、目標だ。何が、助け出すだ。何がっ!!
「どうかご慈悲を……!!」
「家畜の分際でェ……! 我に触るなァ……!」
悪魔の腕が鞭のようにしなり、母親もろとも少年を叩き潰した。
「あ……」
リアラの口から吐息が漏れる。
暴風が吹き荒れ、砂塵が空を襲う。
両腕で頭をかばう母子の前で、誰かが悪魔の拳を防いでいた。
ローブを纏ったアドだった。
「何?」
「アド……くん?」
〝断罪の悪魔〟と同時に、リアラは目を見張った。
アドの頭上で眩く輝く光の盾が、悪魔の腕をぎちぎちと抑え込んでいる。
死霊術とはまた違う種類の術式。
「バカかお前。母親を殺す気か」
アドは背を向けたまま冷たく言い放つ。
「そんな……オレはただ……」
エミールという名の少年は、尻もちをついたまま、戸惑うように声を震わせた。
「この家畜、我を止めただと?」
悪魔が腰を捻ってそのまま押し潰そうとするが、光の盾は空間に固定されたかのようにびくともしない。しかし光の盾を構成する幾何学模様に、血脈にも似た亀裂が縦横に走っていく。
「くっ……」
「半分も力を出してないのだ。まだ潰れてくれるなよ?」
崩壊しかかっている光の盾を眺めて、〝断罪の悪魔〟が口角を吊り上げた。
「おい、アイツらって――」
「ローブの子供と金髪の女……例の侵入者だ!」
家畜の誰かがそう叫んだ瞬間――
「見ィィつけたァァ!」
魔法陣から大剣を引き抜いた悪魔が、眼を充血させ唾を撒き散らし、突風を起こすほどの横薙ぎを繰り出した。
「なッ!?」
暗黒の魔力を帯びる大剣は、何の手応えもなく空を切り、悪魔の眼が驚愕で見開かれる。
アドは光の盾を足場にして、悪魔の頭上へ跳躍していた。
「アド、ダメ。結晶の無駄遣い」
風に乗ったウィンターの声を無視し、アドは悪魔の懐へ飛び込んでいく。
「自分は偉いと勘違いして、誰かの上に乗ってるから、逃げ遅れるんだよ」
緑色の胸元に右手を押しつけ、右手首に左手をぐっと添える。
「何だその光は……!!」
仰け反る悪魔の眼下で、アドの押しつけた手のひらから、魔法陣の光が鮮烈に漏れ出ている。悪魔がとっさにアドを引き剥がそうとするがもう遅い。
「消し飛べ、〈
アドの手のひらから、巨大な光の柱が発射された。
目を焼くほどの光条が悪魔を貫き、上空の分厚い雲を豪快に霧散させる。
悪魔の禍々しい深緑の体が跡形もなく消失し、左半身に再起不能な大穴を穿ち抜いた。〝断罪の悪魔〟の六つの眼から、妖しい光が消え失せていく。
「嘘だろ……?」
「あのガキ、やりやがった……!」
「一撃で……! 一体何をしたんだ!!」
場は騒然とした。
リアラは今しがたの光景が目に焼きついて離れない。
ねえ、アドくん。
どうしてあなたは、
「とにかく逃げろ!!」
「魔族様への反逆罪だ!! 巻き込まれるぞ!!」
家畜たちが一目散に逃げ惑う。
これで、リアラの計画はすべて失敗に終わった。
「ケケケケ。重罪、重罪」
影目玉がどこからともなく湧いて出た。
「魔王様へご報告。ケケケケ」
「警戒レベル7」
「シャドウアサシン招集。ケケケケ」
「シャドウハンター招集。ケケケケ」
シャドウを冠する、魔王に魔力を与えられし直属の部隊。
魔族を侮辱した家畜に対する過剰なまでの制裁が始まる。
「クソッタレ!! 影が攻めてくる!!」
「この街も終わりだ!!」
「狩り開始、狩り開始。ケケケケ」
「アドのバカ」
「だってウィンター――」
この世界にやり残したことはあるだろうか。
策もない、力もない。
だけど、二人がいる。
目の前の死霊術師と吸血鬼が、残された希望だ。
「ジルくん」
行く末を見届けよう。最期の最期まで。
「やっぱりわたしは、あの二人を切れない。わたしはあの二人の力がほしい」
リアラは答えを待たずに走り出した。
「待て、リアラ!」
背後から声が聞こえる。
「まったく手の焼く小娘だ!」
二人に向かって駆けるリアラは、腰掛けポーチから煙玉を取り出した。球体に糊づけされてある紐を剥がし、くるくると指に巻いて力いっぱい引っ張る。
発火。
球体から大質量の煙が噴出した。瞬く間に視界が白色に染まり、一寸先が見えなくなる。
「アドくん、ウィンターさん、こっちです!」
煙の海を掻き分け、二人の腕を掴まえる。
「あ、リアラ! これは違うんだ!」
「何が違うんですか!」
駆ける。
「気がつけば
「わたし全部見てましたよ!」
「どうもすみませんでした!」
「謝るのが上手になりましたね!」
駆ける。
「リアラ、吾輩を助けろ! ヴァンパイアのメスに捕まった!」
「もふもふ」
「あーもう煙を突っ切りますよ! 今から墓地に案内します!」
煙の壁を突き破って、東に向かう路地に入る。
「墓地?」
「アドくんはローブのおかげで顔が割れてない。判別するとしたら腕輪の有無です。だから墓地の人間に協力を仰ぎます。死人に腕輪はないから」
駆ける駆ける。
「街に解き放ったら、魔族は大混乱です。どれがアドくんか判別がつかない。時間稼ぎにはなるはずです」
あれを墓地と言っていいのかわからないが、死人がいることには違いない。
「こっちです。急いで」
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