「お前の周りに海が見えたから」
スタジオをでてすぐ隣にあるドアをくぐると細長い廊下につながった。
十メートル弱はありそうな廊下だったが照明は天井から下がった黄白色の裸電球だけで、風もないのにぶらぶら揺れて影を拡大縮小している。
ちょうど電球の下あたりにエレベーターがあったが、夏目は一瞥もすることなく素通りした。
じゃばら戸の、昭和を通り越して大正レトロな小さいエレベーターだった。
思わずじゃばらに指を引っかけると、前に進もうとしていた夏目が後方にくんっと引っ張られ、小さくよろけて恨めしそうに振り返った。
「なんだよ」
「このエレベーターかっこいい。本当に動かないの?」
「選ばれし勇者が乗ったときだけ動く」
勇者?
頭は大丈夫か。
真顔で言うのでいまいち冗談かわからない。
エレベーターの中では廊下と同じような裸電球がちかちかと明滅していた。
電気は通っているように見えるが。
夏目の肩越しに手を伸ばして上矢印ボタンを押してみる。
じわっと染みだすように一瞬光ったが、すぐに何事もなかったように消えてしまった。
「あれ? 本当だ」
「だから言っただろ、壊れてるって」
「でも電気ついてるから」
「たまに動くけど百回に一回程度だぞ」
もう一回強く押したら光るかも。
両手で押すためにじゃばらから指を離した瞬間、夏目が問答無用で歩きだす。
けちんぼめ。
後ろ髪を引かれて振り返るが戻ってくれる気配はない。
「修理とかしないの?」
「古すぎて部品がないんだと。どうしてもエレベーターが欲しければ新しいのに入れ替えろって言われたけど、その新しいのもここの規格にあわないからビルごと建て直せって言われてやめた」
廊下の突き当たりにつくと折り返し階段が待ち構えていた。
階段の前で小さく跳ねてマリを背負いなおすと一段ずつ上っていく。
そこでふとさっきの発言が気になった。
「建て直すって、もしかしてこのビルって夏目さんちの持ち物なの?」
「そうだけど」
「うわあ、ぼんぼん」
ビルを持っている人間に初めて会った。
生活力のない死人みたいな夏目がぼんぼんといわれてもぴんとこないが、しかしダンスをやるような人間は上流階級のイメージなのでしっくりくる気もする。
「ぼんぼんじゃねえって」
「結構古いよね。いつから建ってるの」
「確かひい爺さんだかひいひい爺さんだかが建てて、爺さんが上方向に増築したとかだったか」
ひいひい爺さんというのが何年前に生きていた人なのか想像もできなかったが、やはりあのエレベーターは大正ロマンのエレベーターだったのだ(もしかしたら明治かも?)。
今度チャンスがあればまたボタンを押して挑戦してみようと心に決めた。
夏目の背中は思っていたよりもがっちりしていた。
息を吸うたびに石膏の匂いが鼻につく。
あの日以来石膏にさわっている様子はないのに粉っぽい匂いがするのは、きっとマッドサイエンティスト工房に足型がたくさん保管されているからだろう。
考えているうちにあの日の記憶が蘇ってきて、急に夏目の手の位置が気になった。
ちょうど坐骨のあたりを掴まれている。
「やっぱ降りるよっ」
「松葉杖持ってきてねえよ」
「けんけんで上るってば」
「あと三階ぶんをか? 滑って落ちられても困るんだけど」
「それは、そうなんだけど」
狭い空間に二人ぶんの声が反響するが響く足音は一人ぶんで、岩井製作所に向かったときの二人三脚よりも一脚少ない音が落ち着かない。
三脚でも、結構密着していたのに。
淡々と上り続ける夏目の息がわずかにあがるがペースは一切乱れなかった。
なんだか背負って上ることに慣れているような。
もしかしていつも女の子を連れ込んでいるのだろうか。
大学生というのはとかく乱れているのだと、大学の文化祭に遊びに行った女子たちが騒いでいた。
女の子を連れ込む送り狼ならぬ誘拐狼な夏目を想像したが、まったく柄ではなかったので早々に瓦解した。
「そういえば、夏目さんっていつから見てたの?」
なんだかむかむかしてきたので気を取り直して訊いてみた。
夏目は「うーん」と短く唸ったあと「四小節前くらいか?」とこちらは答えを知るよしもないのに疑問文で答える。
「結構前じゃん。なんですぐ声かけてくれなかったのさ」
そこで声をかけてくれればみっともなくすっ転ぶところを見られなかったのに。
敗北宣言も聞けていないうえ踊りも中途半端だったので、不完全燃焼でむかむかが増す。
「なんでって、」
夏目の声が不自然に途切れた。
考え込むような空白が十秒くらいあって、
「お前の周りに海が見えたから」
「は?」
何を言っているのか理解できずに間抜けな声をあげたが、夏目はそれ以上何も言わずに口をつぐんでしまった。
科学者の考えることはわからん。
ただあのとき、確かにマリも海原のフロアを見ていた。
熱と音と寝不足によって脳が作りだした妄想だろうが、なんだかその世界を共有できた気がして、
(なら、まあ、許してやるか)
敗北宣言のかわりの、もしかしたら最高の賛辞かもしれない言葉で手を打つことにした。
四階の踊り場をのそのそと通過して、顔をあげるとようやく五階の通路が見えた。
一階同様長い廊下が伸びていて、ちょうど中央に一つだけ裸電球が垂れている。
「膝のポケットから鍵抜いて。左」
落っこちないように夏目の肩に指を引っかけてワークパンツのポケットをまさぐると、裸の鍵が一本でてきた。
突き当たりにある土気色のドアの前で立ち止まり、
「あけろ」
「何様……」
運んでもらっているので文句は言えないのだがもう少し言い方があるだろうに。
鍵をあけながら言い返してみたが夏目は態度を改めることなく「ノブ」と一言。
ドアノブを回してわずかにあけると無駄に長い足で蹴りあけた。
「何ここ、魔女の家みたい」
ドアをあけて広がっていたのは縦に長い部屋だった。
手前に短い廊下があり、その先が通路を兼ねたキッチン、そして奥に六畳半のリビングがある。
壁に備えつけられた棚には本や雑貨がぎっしりと詰め込まれ、天井からつりさげられたつる植物が床を覆い始めている。
足元にも雑多にものが散らかっていて、夏目の長い足で障害物を避けながら進む姿はガリバー旅行記みたいだ。
突き当たりの窓下にはクッションで埋もれたロウソファがあり、マリはそこで降ろされた。
奥にあるのはリビングだけだと思っていたが、マリから見て左に入り込んだところに三畳ほどのスペースがあった。
しかしその大半がロフトベッドで占拠されている。
「救急箱……風呂場か?」
自分の家なのに初めて訪れたような頼りない声でふらふらと来た道を戻っていく。
見知らぬ場所で一人になり落ち着かずにクッションを抱き寄せた。
このクッションもそうだが、部屋にたくさん存在する布製品は赤と青という反対色が当然のように織り交ぜられていて、よく言えば東欧っぽい異国情緒が、悪く言えば魔女屋敷のような雰囲気を醸しだしている。
何気なくロフトベッドのほうを向いて違和感を覚えた。
ロフトベッドだと思っていたそれはよく見ればまったくの別物だった。
上部が寝台になっていることに変わりはないのだが、寝台のちょうど半分の幅の壁が床から天井までつながり寝台の頭側を隠している。
寝台の下、かつ壁の裏側はそのまま四角い柱になっていて、オーブンに似た鉄製の扉がついていた。
もう下半分は空洞になっているが、大量のクッションと薪が置かれている。
……薪?
「ねえ、夏目さんのベッドおかしくない?」
煉瓦造りの寝台はいくら布団が引いてあっても寝心地がよさそうには思えない。
ちょうどバスルームから木箱を持って現れた夏目がうろんげに目を細めてベッドを眺めやり、
「ああこれ、ベッドというより暖房器具だからな。ベッドはおまけみたいなもん」
「暖房器具?」
「ペチカという。ここにかまどがあるだろ。薪を入れて燃やすと部屋が暖まる」
わざわざ扉をあけて夏目が説明した。
かまどの原理はいくらなんでも知っている。
夏目が救急箱をあけて中身を漁り始めたので、四つん這いになって空洞部分に潜ってみた。
暖房器具というが本物の煉瓦で作られた空間は夏の熱気や湿気を吸収してくれるようで、頬を寄せるとひんやりと気持ちいい。
この建物は壁が薄く、いつも蝉の声や交差点の喧噪が聞こえていてそれはそれで好きなのだが、この空間では煉瓦がその音も吸収してくぐもらせていた。
ほどよいノイズとなった外の音、そして薄暗くひんやりとした空間。
だんだんと眠たくなってくる。
そういえば、一睡もしていなかったなあ。
「かまどの上に寝たら燃えちゃうじゃん。かちかち山の狸みたいになっちゃうよ……」
とろんとしてきた頭で燃える夏目を想像していると、呆れたような、でも少し笑いを含んだような声が聞こえた。
「煉瓦あるから燃えねえよ。煙は煙突からでるし。ロシアでは一般的なんだと」
「ロシア? なんでロシア?」
「爺さんの趣味」
「ふーん」
夏目の家族の話をもっとよく訊いてみたかったが今は眠気が勝った。
重くなった瞼が自然に落ちる。
さっき夏目が笑ったような気がしたけれどちゃんと見ておけばよかった、でも眠たいなあと内心でぶつくさ言いながらクッションをたぐり寄せる。
「あ、おい。巣作りすんな。でてこい」
ちょうど意識が落ちかけたところで夏目に頬をぺちぺちと叩かれた。
巣作りってハムスターじゃないんだから……と思ったが、眠すぎて抗議する気力も沸いてこない。
「こっちこい、そこは暗くてよく見えん」
と腕を引っ張られ居心地のよい場所から引きずりだされた。
「夏目さんの鬼、あくまー」
「何とでも言え。手あてのが大事だろうが」
再びソファに座らされ、夏目が目の前で膝立ちになる。
マリの左足を自分の膝に乗せるとその下に桶を置き、ペットボトルに入ったお湯で断端を洗っていく。
ペットボトルのキャップには小さな穴がいくつもあいていて簡易のシャワーになっていた。
石けんを泡立て、擦らずにふわふわっと傷を洗う。
なんだかくすぐったい。
「慣れてるね」
五階への搬送といい、断端の手入れといい。
夏目は自分の膝が濡れることも厭わずにお湯で泡を流しながら「踊ってると怪我はつきものだからな」と短く答えた。
そういうものなのだろうか。
微妙に納得できていない自分がいる。
「そういえばお前、家に連絡しなくていいの?」
今さら思いだしたように夏目が訊いたが向こうも焦っている様子はない。
普通もっとこう、戸惑ったりしないのか。
マリの父親が頑固な雷親父で、娘をたぶらかして朝帰りさせるなんて何事だーっと怒鳴り込んでくる可能性だってあるんだぞ。
そういう雷親父はマリと夏目の過失割合が十対〇であっても男側に突っかかると相場が決まっている。
「お婆ちゃんは婦人会の旅行でどっかの国に行ってる」
婦人会というがその実体は平均年齢七十六歳の、老後暇つぶしクラブだ。
「親は?」
「んー? お姉は寮暮らしだし、お母さんは死んじゃったし、お父さんは船乗りで世界のどっかに浮かんでる。次帰ってくるのは……冬、だったかなあ」
くすぐったかったのがだんだん心地よくなってきて、再びまどろみ始めた思考で必死に家族のスケジュールを思いだす。
大抵の人はマリの家庭環境を聞くとかわいそうと感情たっぷりに伝えてくるのだが、夏目は眉一つ動かさず「そりゃ寛大にもなるわな」と言っただけだった。
「ねえ、夏目さんの家族は?」
「いない」
訊いたくせに自分は一言でばっさりと。
言いたくないという雰囲気ではなく、本当に事実として〝いない〟と言っただけの事務的な口調だった。
そういうのは嫌いじゃない。
「ふーんそうなんだ」
つい声が弾んで右足をぷらぷらさせると無言で押さえ込まれてしまったので大人しくする。
会話のなくなった部屋には水の跳ねる音だけが響いていて、マリの睡眠欲求は限界だった。
どっぷりと疲れが押し寄せてきて視界がぼやける。
ああ、でもこれだけは訊いておかなくちゃ。
「さっきのダンスさあ、じょうず、だった?」
呂律の回らなくなった口が舌っ足らずに訊くと、夏目が断端から顔をあげた。
少し考えるように唇をもにょもにょっとさせる仕草が、やっぱり保険医に似ていた。
そんなことをぼんやりと考えているうちに瞼がだんだんと重たくなってくる。
しばらくして夏目の口が開いたが、なんて言っているのか認識する前に夢の中へと落ちてしまった。
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