第三章 ゆあーんゆよーん
「蹴るなんて信じらんない!」
二十八から三十 bars/min。
barsというのは小節の意味で、つまりこれは『二十八から三十小節が一分間の間に流れる』という意味だ。
ワルツの場合は一小節あたり三拍子だから、一分あたり八十四から九十拍子のテンポで踊ることになる。
そして一曲あたりの時間はおよそ一分十五秒から二分程度。
「なんだ、超短いじゃん」
頭の中で一分十五秒をイメージしてみる。
カップラーメンができるまでの三分の一。
レトルトご飯を温める時間の半分、ケトルでお湯を沸かす時間の三分の一。
反復横跳びは(やったことないけど)一回二十秒だから、三回連続で計測した時間……と思うとちょっと長い気もするが、基本的にはあっという間の時間だ。
「そう思うでしょ? でも実際にやるとすごいばてるんだよなあ」
「チャンピオンでも? 体力足りないんじゃないの?」
「うっさいわ! そんなマリちゃんにはこうだっ」
背中をぎゅうっと押しつけられて、股の間に開いていた社交ダンスの教則本に頬から突っ伏した。
気にせず本を読み続けていると槙島の声が頭上で引きつる。
「マリちゃんって身体柔らかいんだね……」
ん?っと思って視線を本から槙島に移す。
悪戯が不発終わって明らかに不服そうな顔をしていた。
社交ダンスのルールを覚えつつ開脚前屈中の二人だったが、ぴたりと180度開脚して見せたマリが軟体動物すぎて、槙島がつまらなそうに口を尖らせる。
「まあ、リハビリでよくやるし」
「だからってこんなに柔らかいものなの普通」
「たぶん違う」
普通のリハビリではここまでやらない。
義足を使わないことでいろいろ言ってくる人を黙らせるために筋肉トレーニングやら柔軟体操やらをこれでもかとやっていたらこうなってしまっただけだ。
それを聞いた槙島が「ここまで頑張るくらいなら義足使ったほうが早かったんじゃあ」と言ったが無視した。
それはたまに思うが意地でも使わないと決めたのだ。
義足が完成して三日目。
七月十六日。
つまり納涼祭までちょうど一ヶ月の今日、槙島が召喚され本格的なダンスレッスンに突入しようとしていた。
この二日間は歩行練習に費やしていたのだが、実はあっけないくらい歩くのは簡単にできてしまった。
というのも、マリに与えられた義足はもともと二足歩行ロボットの技術を踏襲しているらしく、足を前にだせば勝手に膝が計算をして、本物の膝のように動くのだ。
それでもバランスを取るのに多少苦労したが、二日もあれば合格点と言っていいくらいには歩けるようになった。
「あいつ面白いもの作ってんなあ」
槙島が義足をこつこつ叩く。
「痛い?」と真顔で訊いてくるので「神経が通ってるわけじゃないんだから何も感じないったら」と言うと「ああそうか」と呆けたことを。
夏目はマッドサイエンティストだが槙島は理系のりの字も当てはまらない。
「神経接続してるわけじゃないから、本来は足首を自在に動かせないんだって」
「え、でも歩くときちゃんと踵からついて、足裏ついて、つま先で床を蹴ってたじゃん。あれって足首動いてたよね?」
よく見ているなと若干感心した。
きっとダンスを教えるにあたって、できることとできないことを区別しようと注意深く観察してくれたのだ。
こういう配慮は夏目にはできない。
「歩くっていう動作をプログラミングしてあるから、それを呼びだしてルーティーンで再生してるだけらしいよ」
「なんだ、足の断面の思考を読み取ってんのかと思った」
断面の思考?
どちらかと言えばマリも理系よりなので、純文系の槙島が言う言葉は理解しがたいことがある。
「でもダンスはどうするつもりなんだ? ライズのときはつま先立ちになるよ」
教則本をめくって一枚の写真が掲載されているページを開いた。
ペアになった男女がつま先立ちになって制止している。
義足でこれをやるとなると、足首と足指の関節を自在に動かせないといけないわけで……確かに、これが義足でできるとは思えない。
「ライズって絶対しないと踊れない?」
「踊れない」
代替案もなしか。
頭を捻ってみてもマリには答えがでそうもなかったので、
「夏目さーん、ねえ、ライズってやつはどうするの?」
戸が閉まっているマッドサイエンティスト工房へ声をかける。
「うるさい、喚くな……」
と掠れた声をあげながら長身がぬらりと現れた。
どうやら徹夜で何か作業をしていたらしい。
「だから、ライズってやつ。絶対必要なんでしょ? 歩くときみたいに勝手につま先立ちになるようにするの?」
「あー……あらかじめ
「絶対に嫌です」
義足のこととなると夏目は普段よりも饒舌になる。
基本的には単語でばっさりとぶった切ったような、しかも前後関係を全て端折ったような乱暴な話し方をするくせに、義足に関しては長々と(こちらが理解できるかは別として)丁寧に話すのだ。
といっても脳にチップを埋め込もうとするあたり、思いやりは相変わらず欠如している。
この二日間は歩行練習も行ったが、夏目が持ってきた怪しい機械でいろいろな計測も行われた。
電極を太股に貼った状態でなくなった足を動かすようなイメージを繰り返したり、残っているほうの足にも電極をつけて、こちらは普通に歩いたりつま先立ちをしたりした。
どうやら〝筋電位〟とやらを計測していたらしく、徹夜で作業していたのはこのデータを解析してパターンとして義足に覚えさせていたらしい。
一昔前、太股は分厚くて筋電位を正しく測定できなかったらしいが、夏目の所属する研究室が新たな測定方法を確立したおかげで太股でも筋電位による義足操作が可能になったのだとか。
「ねえ、もしかしてそれってかなりすごい?」
「すごい。ノーベル賞取るかもな」
しれっと答えた夏目に「またまたー」と笑いかけたが、夏目は返答することもなく無表情のまま後頭部を掻いている。
……嘘、本当なの? 取るって誰が? 教授? それとも夏目?
「というわけで、さっそくそのライズをやる」
マリの混乱はさらっと流され、手で立つように指示をされる。
まだ不慣れな様子で義足を使って立ちあがると、夏目は木製の椅子を引っ張ってきて跨がるように座った。
「祐介、ボックス」
単語でばっさりと指示をだす夏目はまるで現場監督だ。
「えー? マリちゃん初めてなんだからもっと楽しいのからやろうよう」
げえっという顔をして槙島が不穏なことを言う。
〝もっと楽しいの〟と言うからには、裏を返せばボックスとやらは相当に退屈なものだということになる。
しかし槙島の抗議は、夏目がつま先で刻む三拍子のリズムによってあえなく却下された。
たん、たん、たんと一定のリズムで鳴らされる足音は有無を言わせない雰囲気で、口で正論を突きつけられるよりもたちが悪い。
これには槙島も逆らえないと察したらしく「へいへい、やればいいんだろやれば」と立ちあがってマリの正面へと歩いてくる。
(というか、夏目さんが教えてくれるわけじゃないんだ……)
俺と踊ってとかなんとか言っておきながら、夏目は基本的に踊りたがらない。
初日と義足を作りに行った道中でちょこっと踊った程度で、ダンスに関する知識は槙島が教えることがほとんどだ。
ダンスは四年前に辞めたと言うが、研究題材に選ぶくらいだから嫌いではないだろうに。
単に動くのが面倒くさいのだろうか。
「気に食わないわ」
「まあまあ、俺もボックスは嫌いだけど、部活とかじゃ定番の基礎練だからさあ」
マリの発言をボックスに対してだと捉えた槙島がへにゃっと笑い、
「マリちゃんは片足だし転んだら危ないからペアでやろうか。そのほうがダンスっぽいしね」
機嫌を窺うように告げて深々と頭を下げた。
左手は腰に添え、右手を前から回して胸に添える、お伽噺の王子様がよくやるあのお辞儀。
目線をあげてマリを見据えると「よろしくね」と。
あまりの王子様っぷりにさすがのマリでもどきっとした。
こういうのが嫌みなく似合ってしまうのだ、槙島祐介という男は。
と、夏目の刻む三拍子が大きくなった。
「はいはいわかってるって」と槙島が投げやりな返事をし(当たり前のように足音と会話をしている)左手を掲げてマリを受け入れる態勢になる。
(踊るなら……夏目さんがよかったなあ……)
槙島の肩越しに追い立てるように足を鳴らす夏目が見えた。
目の前に完璧な王子様がいるというのに、目では尊大不遜な王様を追っている。
(って、何考えてんだ馬鹿)
自分の内心にぎょっとして、思考を振り切るように頭を振った。
何を好き好んであっちを選んでいるのだか。
初めて踊る相手だから気おくれしているだけだきっと。
「よろしく、お願いします」
槙島のもとまで一歩近づき、その左手に右手を、右腕に左手を預ける。
待ち構える男性の手を取ることで〝踊りの誘いを受けるますよ〟という意思表示。
「じゃあまずはちょっと歩くよ。マリちゃんは右足を前進させて、左足を横にだすタイミングで時計回りに九十度捻って、最後は右足を左足に揃えて閉じる。この揃えるところでライズ、つまりつま先立ちになって、二歩目をだすところでロアー、つまり膝を曲げて腰を落とす。これを三拍子で」
「えっ、えっ、えっ?」
怒濤の如く指示をされて混乱するも、夏目は一向にテンポを緩める気配がない。
「大丈夫、俺に全体重乗っけていいから。転んでも絶対に支えるし」
という槙島を信じて一歩前へ。
右足は大丈夫。
自前だから。
左足を横にだすのも大丈夫。
股関節も自前だから。
問題は次。
義足の左足を地面について体重を乗せ、右足を引き寄せる。
すかさずつま先立ち。
意識を集中させて、もうなくなったはずの左足首に念じる。
つま先立ち、つま先立ち、つま先立ち。
「そうそう! できるじゃん、ライズ」
槙島の声で下を見た。
右の踵があがるのに連動して左の踵もあがっている。
ぱっと顔をあげて夏目を見ると、ほんのわずかだったが口の端があがって――笑って、いた。
「じゃあそのままロアーして」
「腰を落とす……」
槙島の言葉を自分のわかる単語に翻訳。
ゆっくりと右足を曲げると左足もちゃんと曲がった。
夏目の笑顔も相まって少し調子に乗っていた。
「ロアーしたまま右足を前へ」
という槙島の声に合わせて勢いよく右足をだしたときだった。
左足の踏ん張りが一切利かなかった。
支えていた右足が宙に浮いたことで、身体全体が空中に投げだされたような。
左の膝は曲がったまま、むしろ止まることなく曲がり続け、尻の重みで地面へと吸い寄せられる。
左足、ないも同然。
派手に尻餅をつく寸前で槙島に引き寄せられた。
「っぶね……」
という小さな声が、槙島も本気で焦ったのだと告げている。
「マリちゃん、どうした? 大丈夫?」
「膝が」
と言いかけて言葉に詰まった。
なんと言えばいいのか。
蝶番が壊れてゆるゆるになったみたいに、止まることなく曲がり続けたというか。
鋭い舌打ちが夏目のほうからして呆然と振り返った。
「膝折れしたか」
膝折れ、名前だけは知っている現象だ。
意図しないタイミングで膝が抜けて体重を支えられなくなることを言い、いわゆる〝膝かっくん〟の悪戯に近い。
垂直に伸びた義足の膝は、立ち姿勢を維持するためにロックがかかって曲がらなくなるのだが、前よりに体重をかけるとロックが外れ、かくんと折れ曲がるようになる。
これは座ることを想定したものだ。
ある一定以上の体重を前方にかけたとき、膝は〝座るのだな〟と認識してあえて止まることなく曲がっていく。
今回起こったのがまさにこれで、ロアーで曲がった膝が〝座る〟と勘違いしロックを解除。
体重をかけるほど膝が勝手に曲がってしまい、床に突っ張ることができなくて転倒したと。
「本来、義足は膝が曲がるとロックが解除されるが、競技ダンスでそれは致命的だ。膝を曲げた状態で踏ん張れないとダンスにならない」
のそのそと夏目が歩いてくる。
マリの膝の前に跪くと、怖いくらいの視線で義足を睨んだ。
「だからこの義足は垂直時だけじゃなくて、自由な角度でロックをかけられるように設定してある。もっと意識して曲げてみろ」
そんなこと言われても、というのがマリの正直な感想だった。
できるかもという期待感と、再び転ぶかもという恐怖感とを天秤にかければ、どう考えても後者が下がる。
しかし夏目はマリの顔なんか一切見ないで、人工の膝をまっすぐに見据え「曲げてみろ」と再び命令。
「……転んでも知らないからね」
と言ったものの、その一秒後に本当に転ぶとは思わなかった。
槙島も夏目が支えると思ったようで今度は引き寄せてもらえず、しかし夏目は転ぶところを静観して見ていた。
床に尻が吸い寄せられて派手にすっころぶ。
「もう一回」
右腕をつりあげられて無理矢理立たされ「びびって腰退けてんぞ」とつりあげたままマリの腰を横から蹴った。
「蹴るなんて信じらんない! こっちは義足なのよ!?」
「だから?」
今さら何を言っているのだとばかりにうろんげな視線を投げられて絶句したマリへ、夏目は平然と二発目の蹴り。
「今度は膝。あらかじめ曲げるなよみっともない」
十年ぶりに歩いたという事実をこの男は軽視しすぎではなかろうか。
いくらそちらに自信があっても、使う本人の気持ちが追いつかなければただの鉄くずだってわからないのか。
配慮もへったくれもない王様態度に苛立ちを覚えつつ、このままでは第三、第四の蹴りが襲来してしまうと焦って膝を曲げて……大きく転倒。
それが連続五回、立て続けに。
「ちがう、そうじゃない。規定角度まで曲がったらハムストリングスと大腿四頭筋の拮抗を意識して曲げ止めろ。そうすれば義足が感知して、膝にロックをかけるんだから」
「やってるよ、やってるけど」
「やってない」
なにそれ、当事者じゃないくせに。
こっちは必死にイメージしているんだ。
存在しない膝に向かって止まれ止まれ止まれーって念仏のように唱えて。
ゆるゆるの左足のせいでほとんど空気椅子状態になっている右足に耐えて。
意を決して義足に体重をかければ、ご立派な金属の膝はまだロックがかかっていなかったようで?
ぐにゃりと膝が折れて地面にダイブ。
この気持ちが夏目にわかるのか。
「ほら、もう一度」
「……何度やっても無駄だよ。このぽんこつ膝じゃ無理だよ」
マリの膝ばかり見ていた夏目が初めて顔をあげてこちらを覗き込んだ。
今自分がどんな顔をしているのかまったくわからなかったが、途端に夏目が深いため息をついたのでだいだいの予想はついた。
「そうだな、膝のせいだ」
プログラミング見直してくる、と若干ふらついた足取りで立ちあがり、ダンスフロアを横切るときに舌打ちをして木製の椅子を蹴倒していった。
静まり返った室内に大きな音が響いてマリは思わず身をすくめたが、夏目は構うことなくマッドサイエンティスト工房の中へ吸い込まれていった。
謝る気はなかった。
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