勝手に救われる人々

秋坂ゆえ

第1話:「出逢う」

 本気で人を好きになるってどんな感じなんだろう。


 クリスマス・イブということもあって、先月から赤白緑の装飾が街を覆い隠す中、私はふと、そんなことを考えていた。

 幼い頃から本が好きだった私は、字を覚えるのも読むのも早かった、と、いっそ忌々しげに母は言う。家にある本はもちろん、小学校の図書室にある本もほぼ読破、子供向けに改編されたものはスルーしてすぐ通常の本、主に海外の小説を読むようになった。


 ただ、私にはひとつ欠点というか悪癖みたいなものがあって、読了後、余韻に浸り過ぎて現実世界に戻れなくなることが多いのだ。だから学校の国語の時間に課題小説を読んでも、余韻から抜けきれず、クラスメイトと感想を言い合ったり要約をしたり、というプロセスに切り替えることができなかった。両親はそれを『協調性の欠如』と捉えて問題視していたけど、私は気にしなかった。



 とにかく今日はクリスマス・イブ。一緒に過ごす相手なんて皆無な私は、神保町の大型書店で行われる文学イベントに参加することにしていた。

 著名な文芸評論家が主催する、『今年の私的ベスト本』というテーマで、ゲストの書評家、編集者らが、今年発売された書籍で個人的に一番好きなものを持ち寄って議論するイベントで、参加者も各々のベスト本を持参することが義務づけられていた。


 早めに会場である書店に到着した私は、特に他の本を物色する気にもなれず、すぐにイベント会場である最上階に向かった。エレベーターから出ると、同じ目的であろう人々が散見された。すぐに男性店員に声を掛けられ、イベント参加者である本人確認をするよう書類を渡されたので、私は氏名欄に『静井洸』と記入し、他の項目も埋めてまだ若い店員に返した。


「しずい、ひかるさんですね。確認が取れましたので、開場まで少々お待ちください」


 彼はにこやかに言ったが、私は名前の誤読を訂正する気にもなれず、首肯して壁際に数脚あるパイプ椅子に腰掛けた。そもそも『洸』と書いて『あきら』と読ませる方が無理なのだ。幼い頃は『ひかる』や『ひかり』と呼ばれる度に『あきらです』と誤解を解いていたが、二十四年もこの名前と付き合っていると、もうどうでもいいと達観していた。厄介な命名をした両親に文句を言ったこともあるが、彼らは世相を読みユニセックスかつ運気の良い名前にしたのだと熱弁する。私にはそれがうるさいのだった。


 そんなことより今日のイベントを楽しもう、と思い直した私は、決して洒落ているとは言い難いトートバッグからハードカバーを一冊取り出した。付箋を数枚貼っていたので、しばらくその箇所を流し読みし、開場がアナウンスされると他の参加者がわらわらと入っていったので、それに倣った。前方にホワイトボードと主催者らが座る椅子と長机があったので、私は最後列の一番右の椅子に座った。胸に抱えていたままのハードカバーを膝に置き、イベントへの期待を募らせる。私は海外文学ばかり読んでいて、日本文学に関しては近代のメジャーどころしか分からない。今日はその意味で、現在進行形の作品や小説家との出会いがあればいいな、と思っていた。


 だからイベント開始直前に、

「すみません、ここ空いてますか?」

 という男性の柔らかい声がふってきた時は一瞬硬直してしまい、小声で「はい」と言いながら頷くことしかできなかった。

「失礼します」

 その人がそう言いながらコートを椅子に掛け、おそらくは彼の『今年のベスト本』と思われるハードカバーを黒いリュックから取り出した瞬間、私は思わず、


「えっ」


 なんて素っ頓狂な声を挙げてしまった。すると彼も私の膝に載っている本を見て、


「あっ!」


 と、前方の参加者が振り返るほどの音量で叫んだ。そして私の横に着座し、

「すっごい偶然ですね! まさかベスト本がかぶって、しかも隣に座っちゃうなんて」

 そう邪気無く言う彼は、くるくるの黒い巻き毛で、顔立ちはさほど整っているとは言えないが愛嬌があり、何より肌が異常なまでに白かった。切れ長だが黒い瞳が映える、その瞳の中に、私は極めて危うい美しさを見出した。

「そうですね、ギュスターヴ・マルをご存知の方が、しかもベストに選ぶ人がいるなんて私もびっくりです」

「俺もです。日本ではまだ知名度低いですし、過小評価されてますから」

「ですよね。でも私は初期の荒々しい感じも好きですよ、心理描写が生々しくて」

「うわぁ、全く同じ意見です! 彼まだ三十代ですよね? 今後もっと化けると思ってます!」

 そんな会話を押し殺した声でイベント開始まで続けた。

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