5-10

星辰323ビルは、あの頃と変わらず佇んでいた。エントランスには煤けた看板が掲げられたままになっていた。

 三年前の自分なら、あの土砂降りの雨の日に幽霊に怯えていた自分なら、こんな廃墟に足を踏み入れるなんてことは到底できなかっただろう。けれど、今は幽霊よりもずっと恐ろしい存在を知ってしまった。

 階段を上った先では、小さなドアが恋を招き入れるように開いていた。ドアを潜った先には、あの日のように黒で統一された内装が広がっていた。埃が積もり、あちこちが煤けている。三年前の栄華は、見る影も無い。

 店の奥に進むと、何一つ変わらない姿のままで、冷はソファに座っていた。彼は立ち上がると、昔のように両手を広げて恋を迎えた。

「やっと逢えたね。ずっと探してたんだよ」

「あたしもよ」

 顔も、声も、仕草も、何も変わっていなかった。冷は三年前のままで、恋は三年間で随分老けてしまった。二人は、同じ時間を生きてはいない。

「旧交を温める必要はないわ。さっさと殺し合いを始めましょう」

「僕のこと、本当に嫌いになっちゃったの?」

「そっちこそ、散々嫌がらせをしてくれたじゃない」

「だってそうでもしなきゃ、貴方は僕に逢いに来てくれなかったでしょう」

 彼は少し俯き、悲しげな顔をする。それが酷く不愉快だった。

「どこかでじっとしていてくれれば、殺しに来てあげたのに。よくも余計なことしてくれたわ。嫌がらせだけじゃなく、暴力まで持ち出すなんてね」

 そう言った瞬間、俯いていた彼が顔を上げて、目をぎらつかせた。

「あの男、お姉ちゃんに擦り寄る目をしてた。あの男だけじゃない、あの売れない漫画家もそうだった。凄く嫌だった。お姉ちゃんも悪いんだよ。どうせあいつらにも愛想を振りまいたんだろ。僕が他の男を見られるのが嫌だってこと、知ってる癖に!」

「人間みたいな主張をするな、化け物の癖に」

 恋の吐き捨てるような言葉に構わず、冷は続ける。

「ああ、でも仕方ないよね。あの漫画家も、作家気取りも、僕に似てたからね。怖い物が好きで、芸術の話もできる。なに? 僕に似てる男ならなんだっていいの? 僕はずっとお姉ちゃんを待っていたのに!」

「嫉妬する振りなんてするな。吐き気がする」

 図星だった。黒木と水煙草屋で会話しているときも、小田牧と行動しているときも、自分は二人の中に、冷との記憶を見ていた。あのチョコレートキャラメルの香りを楽しんでいた頃の。掴み所のない、ふわふわとした会話の応酬を楽しんでいた時の記憶を。

「確かに僕は人間とは違うけど、こうしてお姉ちゃんと話してる僕は僕そのものだよ。お姉ちゃんが好きだって言ってくれたこの姿も、知識も、全部奪ったものだけど、お姉ちゃんを好きになったのは僕の意志だ」

 あの夜のように、姉に縋り付いて泣く幼い弟のような頼りない表情だった。腹が立つ。

「あんたは人間の思考をコピーしてるに過ぎない。そうじゃなきゃ、自分を好いた女の子を使い捨てて、あたしを見つけ出すためだけに不幸を振りまくなんてふざけた行動はしない。あんたは人間を食い物としか見てないんだ。あたしが好きなんじゃない。ただの生存戦略だ」

「そう否定するなら、僕は何者でもなくなってしまう。奪った姿で、記憶で生きてきて、貴方を好きになって、お姉ちゃんの弟になってようやく、僕は僕になれたのに」

「あたしに弟なんていない、気持ち悪い!」

 冷の目つきが変わった。あの夜のことを、覚えているのだろう。これが決別の意味を持つ言葉だということは、もはや明らかだった。

「……わかった。僕は何者でもなくなってしまったよ。だから、貴方を食べて、今度は貴方として生きていく!」

 冷の皮膚が裂け、頬に、額に、爛々と輝く目玉が表出する。体がずるりと溶けて、床に流れ出す。泥沼から腕が生え、恋に掴みかかった。生温い泥が腰に巻き付き、引き寄せられる。まるで三年前に、抱き寄せられた時のようだった。

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