4-15
公演本番当日。恋は高円寺の劇場を訪れた。紫を襲撃した事件のこともあり、劇場には至る所に警官が配置されている。客席にも、四方に配備されているという徹底ぶりだ。ルルイエ教団の信者が普通の人間であるならば、手が出せないだろう。
関係者席に案内された恋は、前方の席に座っている小田牧を見つけた。それほど広いわけではない劇場だ。見知った顔がいればすぐにわかった。
「来たのね」
通路になっている階段を下りて、背後から彼に声をかける。
「チケット、ありがとうございます。しかもこんな良い席に」
「紫さんが手を回してくれたの。感謝なら彼女に」
「それはすごいな」
機嫌良さそうに言う彼から、緊張や怯えといった様子は見られない。
「怖くないの?」
曰く付きの戯曲であるということは彼が一番良く知っているはずだ。策を講じたとはいえ、それが確実に成功するという保証はないのに。
「ハスターへの対抗策を調べたのは僕ですよ」
「それもそうね」
「それに、片須さんが実行してくれるじゃないですか」
「随分信頼してくれるのね」
「信頼というか、なんか、大丈夫だろうなって」
彼は長い袖で口元を覆う。癖なのだろうか。
「本日は、神威歌劇団の本公演にご来場いただき、誠にありがとうございます」
紫の声でアナウンスが流れる。
「それじゃあ、良い観劇を」
関係者席に戻る。犬養も車椅子を押されて席についていた。待ちに待ったであろう本番だというのに、険しい表情のままだ。彼に紫の行動が気取られていないことを祈るしかない。
開演のブザーが鳴る。客席の照明が消え、自分の手元すらも見えない暗闇に包まれる。こんな状況でなければ、劇の始まりに胸を高鳴らせる瞬間だ。だが、今はこの暗闇に既に何かが潜んでいるのではないかと気が気でなかった。
舞台にライトが当たり、反射で客席が仄かに照らし出される。犬養の険しい横顔も、仄暗く浮かび上がってくる──はずだった。
恋の視線の先に、犬養はいなかった。薄明かりに照らされた車椅子には、彼の代わりに黄色いフードを被った人影が座っていた。煤けたような生地とくすんだ黄色が、客席に不気味に浮かんでいる。
驚愕に息を呑む。その一瞬で、黄色いフードの人影は犬養に戻っていた。
見間違いだったのだろうか。気が立つあまりに、ありもしないものを見たのだろうか。恋は頭を振って、舞台に視線を戻した。
舞台は粛々と進んでいく。宇宙に存在する地、カルコサを舞台とした群像劇だ。かつてカルコサの地を恐怖で支配した黄衣の王の影に怯える人々。王に魅入られ、狂信者と化した男は従兄弟である騎士団長を殺害する。そして訪れる混沌。ある者は呪われて死に、ある者は発狂死し、ある者達は殺し合う。
役者達の演技は本当に素晴らしかった。あの恐怖の稽古を乗り越えてきた人々だ。気迫が違った。純粋に夢中になって楽しむことができないのが本当に残念だ。
舞台の中央に、美しいドレスに身を包んだ紫が立つ。彼女はカルコサにおける姫、この劇におけるヒロインである。その彼女に、黄色いローブを頭から被った人物──黄衣の王、ハスターが迫る。確か、これはクライマックスシーンのはずだ。
「皆を惑わす不届きものめ! その薄気味悪い仮面を外しなさい!」
カルコサの地に狂気と殺戮を齎した怪人に対して、姫は勇敢に立ち向かう。
「仮面はつけておらぬ」
「この期に及んでまだ言うか! 正体を現しなさい!」
姫は、ハスターの青白い顔に手をかける。しかし、その仮面はびくともしない。そして姫は気付くのだ。その仮面が、ローブの隙間に隠れた顔に、どろりと癒着していることに。
「仮面ではない? ──仮面ではない!」
轟音と共に、世界がちかちかと明滅した。無論、演出による効果音と照明の点滅だ。だが、自然と恋の目は犬養の方を見ていた。
そこには、目を疑う光景があった。
薄暗がりの中で、微動だにせず舞台を見つめる犬養の姿。彼の体は車椅子から離れ、立ち上がっていた。痩せた体が、ぼんやりと客席に浮かび上がっている。
そんなはずはない、不可能なはずだ。彼の症状は、気合いだの根性だのでどうにかなるものではない。周囲のスタッフ達も異常な事態に気づいたのか、犬養を見て狼狽えている。
まさか、全て無駄だったというのか。彼の身は既にハスターに乗っ取られてしまったのか──最悪の事態を想定し、犬養を組み伏せるべく恋が立ち上がろうとしたとき、観客席からわっと歓声が上がった。
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