4-11
さっさと家に帰って寝ようかとも思ったが、真っ直ぐ家に帰ってしまうとあの悪い空気を引きずって、寝るまで落ち込みそうな気がした。少し、誰かと話したい。ここ最近異変続きで、仕事か冷の行方に絡む話しかしていない。流石に疲れる。
どうするか、と考えた時、先日紫に連れて行ってもらったバーを思い出した。セレファイス。あそこの空気が読めるマスターなら、不愉快な思いをすることもないだろう。
電車を乗り継ぎ、三ツ門町に向かった。初めて来た時と変わらず、店は静かに佇んでいる。
「いらっしゃい……恋ちゃん? 来てくれたんだ!」
まだ会って二回目だと言うのに親しげに呼ばれるのも、彼女──いや、彼と言うべきだろう──の人懐こそうな雰囲気のためか嫌味がない。
「こんばんは」
「大丈夫? なんか、すごく疲れた顔してるけど」
「でしょうね。今日取材した先で、ちょっとトラブルに巻き込まれちゃって」
柔らかいソファに腰掛け、カルーアミルクを頼む。すぐに出されたカクテルの甘みに、やっと精神が落ち着いた気がした。
「また来てくれるなんて思わなかったよ」
「疲れちゃって、誰かと世間話がしたくなったの。それで、ここを思い出したから」
「それは嬉しいな」
女性としては低く、男性としては高めな声。その微妙な中間点に位置する声が、怒鳴り合いに晒されて疲れた身にとっては耳障りでなくて良い。ここを選んだのは正解だったようだ。
「恋ちゃんは、もうライターやって長いの?」
グラスを拭きながら、彼は問い掛けてくる。
「三年だから、まだ新人扱いかな。あたし、社畜から転職してるの」
「思い切ったね。なにか切欠があったの?」
「丁度色々重なった時期でね。社畜でいることに限界を感じたり、失恋したり」
嘘ではない。実際あの頃、もう勤め人でいるのに嫌気が差していたのは事実だ。だから冷につけ込まれる羽目になったのだが。
「マスターは、ずっとバーテンなの?」
「実は、俺も丁度三年前まで看護師やってたんだ」
少し驚いた。意外な経歴だ。正直、勿体ないようにも思う。
「歌舞伎の病院に勤めててさ。場所が場所だから、訳ありな患者が多かったんだよね。ウイルスのせいで歌舞伎が潰れちゃって、じゃあ三ツ門町に行くかって」
「そんな患者ばかり相手にして、歓楽街が嫌にならなかったの?」
「全然。そういう人達って、人と違う生き方してるから話してると楽しくてさ。だからここでも、そういう人達のための居場所を作ろうと思ったんだ」
そう言われると、すんなりと腑に落ちた。彼はきっと、人間が好きなのだ。
「でも、看護師を辞めるのって勇気が必要だったでしょ」
「……そうでもなかったかな。俺も、その時期色々と思うことがあったからさ」
その時、背後のドアが開いた。
「いらっしゃい……ああ、
巽の言葉を聞いて振り返る。ドアの前には紫が立っていた。恋は咄嗟に立ち上がって挨拶する。
「お疲れ様です」
「あ、来てたんですね……」
あの騒ぎを収めてきたせいか、疲れ切っている様子だ。
「紫ちゃんも、大分疲れてる感じだけど」
「うん、仕事と関係ない人と話したくなって」
「ああ、それだと私がいるとやりづらいですね」
ここは彼女の秘密基地だと言っていた。客に顔見知りがいない方がいいだろうと思い退店しようとすると、紫に手を掴まれた。
「いいの、いて。事情がわかってる人がいた方が、巽さんを困らせなくて済むし」
彼女は崩れ落ちるようにソファに座り、両手で顔を覆った。
「もう、どうしたらいいの……」
「これは、ただならぬ気配だな」
巽が心配そうに彼女の横に屈み込む。恋は手短に今日稽古場であったことについて説明した。
「私、誓に酷いこと言っちゃった」
恋が説明し終わると、彼女はそう呟いた。犬養を激昂させた、あの発言のことだろう。
「私は二年間、好きにお芝居できてた。でも、その間ずっと、誓は悩んで、辛い思いしてたのに」
「あの状況じゃ、口が滑るのも無理はありません。それに、いくら辛い思いをしてきたからって、主宰の態度は異常です。役者さん達を傷つけていいことにはならない」
恋の言葉に、紫は激しくかぶりを振った。
「誓がおかしくなっちゃったのは、きっと私のせいだ。もっと、寄り添うべきだったのに、私、自分のキャリアのことばっかり……!」
紫の背中を擦りながら、恋は悩んだ。事情を彼女に説明するべきか。知らないでいられるなら、それに越したことはない。だが、このまま彼女が自分を責め続けてしまったら──その方が、取り返しのつかないことが起きてしまうかもしれない。皆、追い詰められているのだから。
一瞬、
「桔梗さん、今から私がする話は、信じても信じなくてもいい。マスターは、私が酔って変なことを言ってると思って」
二人とも揃って怪訝そうな顔をした。
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