第95話 パニック
その日は、老人ホームのワークショップの日だった。
久しぶりだから、どうなることかと思ったけど、前教えた入居者さんから「あの時作ったお弁当、まだ飾ってあるの」と声かけてもらったり、「再開するって聞いて、真っ先に申し込んだ」と言ってもらえたり。
こんなに歓迎してもらえるなんて、ありがたいの一言しかないよ。ううう。再開してよかった。
心地よい疲労感に包まれて、家路に着いた。
陽が落ちるのが早くなり、6時を過ぎると真っ暗だ。玄関の電気をつけて、「あれ、そういえば、外の電気もついてなかった」と気づく。お母さんは、いつも帰りが遅くなる時は、外の電気をつけていく。
「この家、留守だと思われたら、泥棒に入られるから」って理由で。電気をつけるのを忘れちゃったのかな。
あれ。ジョギングシューズが出てる。珍しい。家に戻って来てから運動は全然してなかったのに。フィットネスクラブで働いてるから、体を動かそうって思ったのかな。
私は何げなく、お母さんのジョギングシューズを下駄箱にしまおうと、扉を開けた。
「えっ」
しばらく固まる。
ない。お母さんの靴が、一足も。私の靴だけ並んでいる。
突然家に帰って来てから、ここに4、5足は並んでいた。
古いから捨てたとか? でも、全部まとめて捨てるなんてこと、ある?
ざわっと鳥肌が立った。
イヤな予感。イヤな予感。
二階に駆けあがって、お母さんの部屋に入って電気をつける。
布団はちゃんと畳んである。……ちゃんと? いつも乱れたままだった気がする。
クローゼットを開けると、そこは空っぽだった。タンスの引き出しを開けても、からっぽだ。
まさか、また? もしかして、また?
机の上を見ても、何も置いてない。
階段を駆け下りて、ダイニングテーブルの上を見ても、どこにも何もない。メモか何かが置いてあるんじゃないかって思ったけど。
まさか、仕事に行くのに荷物をすべて持って行くなんてことはないよね。
お母さんのスマホに電話をかける。
だけど、何度かけても話し中で。もしかして、ちゃっきょされてるってこと?
「ええー、どうしよう……」
私は力なくソファに座り込んだ。
お母さん、また出て行っちゃったの? 何も言わずに。
どうして? 仕事で何かあったのかな……でも、フィットネスクラブの仕事は順調そうだったけど。生活費ももらえるようになったし。
……あれ、出て行くほどのお金、お母さん、持ってるのかな。戻って来た時は、お金が底をついたって言ってたけど。
その瞬間、ドクンと心臓がはねた。
口座。銀行口座。お母さんに事務を任せてた時、お金の振り込みや引き出しを任せてた。
私、銀行口座、変えてない。暗証番号を、お母さん、知ってる。
まさか。まさか、そこまでするはずないよね?
震える手で。
スマホで銀行口座を確認する。
まさか、そんな。私のお金を勝手に引き出すなんて、そんなこと、さすがにお母さんもするわけないよね?
祈るような思いで口座を開くと。
残高、58750円。
ひゅっと口から息が漏れる。
何度見ても、何度数えても。
コツコツ貯めてたお金、100万円がなくなってる。
仕事をしてない間も、貯金を少しずつ崩しながらやってきたんだ。その残りのお金が、ない。
どうし。どうしよう。
心に。心に相談する? でも、お店が忙しいのに迷惑かけちゃう。
どうしよう。お父さんに言う? ううん、お父さんに言っても、何かしてくれるわけじゃないし。どうしよう。
震えながら、私が電話を掛けたのは。
「はい、塚田です」
塚田さんの声を聞いた瞬間、涙がどっとあふれる。
「あの、わた、お、おか、お母さんがっ」
塚田さんは、すぐに私の異変に気付いたみたい。
「どうしました? 何かありました?」
「お、お、おか」
ダメだ、しゃべれない。嗚咽が止まらない。
塚田さんは泣きじゃくる私をなだめながら、少しずつ、話を引き出した。
「分かりました。僕、これからそっちに行きます」
「え?」
「鈴を預けて、そっちに行きますから、待っててください」
そんな、いいですよ。もう夜ですし。
そんな言葉が出ないうちに、電話は切れた。私は床に座り込んで、泣きじゃくった。
なんで。なんで?
純子さんが亡くなった時は、いろいろ助けてくれたじゃない? ミニチュアの仕事を再開した時、喜んでくれたじゃない? やっと、やっと親子に戻った気がしてたのに。
この間、塚田さんとのことを否定されて、反論したから?
幸せそうな私を見て、気に入らなかったから?
それとも、何かトラブルに巻き込まれたとか? それなら、お金が必要だって言ってくれればいいのに。
なんで、何度も私を捨てるの? ひどい、ひどいよ。
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