死に寄り添わん黒きもの

冷泉 伽夜

おもちゃ




 孤独では生きていけない、と言ったのは果たしてだれだったか。


 元来群れる生き物ではない私には、関係のない話だ。


「ああ、来たのね」


 窓から入った私に、その女は振り向いた。


 クマが浮かんだ貧相な顔だ。

 この世の絶望をすべて詰め込んだような目をしている。ショートカットの黒髪に、生地の薄いワンピースを着ていた。うっすら笑う彼女ははかなげで、見る者によっては大層魅力的に映るのだろう。


 野良のららしく汚い、ただの黒猫でしかない私に、彼女は透き通る弱い声で続けた。


「今日は、さくらんぼ。いただいたの、となりの大学生から。……食べられるでしょ? 種は抜いたから」


 皿に入ったさくらんぼを、目の前に置かれる。血で染めたような深い赤色をして、丸々と大きい。


 かみ締めれば、皮がはじけるとともに、甘酸っぱい果汁があふれてくる。……悪くはない。


「今日も、来てくれて嬉しい。わたしのところに来てくれる友人なんて、いないから」


 彼女の名前は小夜子さよこといった。小夜子は私から離れて丸椅子に腰かける。遠目から私の食事を見守った。


 その背後には、大きいキャンバスがイーゼルにかけられている。真っ赤な色で塗りたくった絵だ。固まりかけの血のようにどろどろとして見えるし、炎のように燃え盛っているようにも見える。


 小夜子は、いわば画家なのだそうだ。自分の絵を下手の横好きレベルだと言っていた。本人がそう言うのならそうなのだろう。


 私にはヒトの芸術というものがよくわからないから、あの絵にどれほどの価値があるかはわからない。


「大学生かぁ。いいなあ。若いってだけで、何でもできる時期だよね」


 私がここへ来るのは、なにも食事をするためだけではない。この女は、私にとって有益な情報を持っているのだ。


「でも若いからこそ、自分本位で、やけに楽観的になったりもする。若いからこそ集団の空気に飲みこまれたりもする」


 常人にはありえない光景を、ありえないほどの数、目にしているのだ。それは、世間一般的には現実味のない話、なのかもしれない。


「ああ、嫌なこと、思い出しちゃったな……」


 本人にとってはまるで終わらない悪夢だ。……現実と幻想を行き来しているかの繰り返し。


「おまえに話しても、きっとわかりゃしないよね。これはただの、私の自己満足。私がただ話したいだけ」


 彼女の口から放たれる穏やかで陰鬱な声。その声だけでもう、彼女の心の闇を感じ取ることができた。




          †




 私が、美大生だったころの話。


 あの頃の私は……いいえ、昔からずっとそうね。私は、だれかと一緒にいることが苦手だったの。


 だれかと一緒にいるほうが、病んでしまう。だから、いつも一人。


 今でこそ、このままでいいと思えるのだけれど、そのときはまだ、一人じゃダメだって思ってた。


 周りに話題を合わせたり、はやりのものを追ったり、人づきあいに関する本を読んだりね。……それなりに、頑張ってたと思う。


 でも、うまくいかなかった。みんなに合わせて笑みを浮かべる中でいつも不安だった。群れの中になじめない私が、ずっとおかしいんだって思ってたの。


 ……でね。その日は、急いでたの。授業が長引いちゃってたから、このままじゃ友達と遊びに行く約束に遅れそうだった。


 校舎の出入口から出ようとしたんだけど、足が止まった。だって嫌な予感がしたから。


 出入口の先には誰も通らないスペースが開いて、その先で学生たちがスペースを囲むように集まっているの。


 誰もが上を向いていた。スマホを上にかざしている人もいた。なにを言っているのかわからない声が響いていた。


 このままじゃ約束に遅れちゃう。そう思うとなんだかいら立たしくなって。もうこのまま外に出ようかと、足を踏み出したときだった。


 湧き上がる悲鳴。なにかが出入口のひさしにあたった鈍い音。


 そのなにかは、開いていたスペースに、べちゃりと落ちた。


 進まなくて正解だったの。私が、巻き込まれていたかもしれないから。


 地面におびただしく広がっていく、血。血じゃないものも、頭から流れてた。


 ……飛び降りだったみたい。集まってた人たちも言ってた。


 でもね、私がそのとき思ったのは、嫌なものを見てしまったとか、かわいそうとかじゃなかった。


 こんなとこにいる場合じゃない。はやく約束してた場所に行かなきゃ。……だった。あの人の血が飛び散って、私の服につかなくてよかった、とも思った。友達になんて言われるかわかんないから。


 そんな姿で行って、空気を悪くするわけにもいかないでしょ?


 私にとっては、だれがどうして自殺したかよりも、自分が変に思われないことのほうが大事だったの。


 目の前で人が死んでいようが、結局は人ごとなの。通報だって私がする必要はない。スマホをかざしてた人たちの誰かがするでしょう。


 ……でもね。これに関しては私だけがおかしいってわけでもないような気がするの。


 あの場にいるみんな、おかしかった。


 死体の周りを興味深そうに囲む、人の壁の異常さは今思い出しても恐ろしい。


 誰も止めようとはしなかった。誰も助けようとはしなかった。助けられるとも思ってなかった。


 それなのに、今にも飛び降りそうな現場に群がり、ここぞとばかりに死体を見下ろしている。通報も誰かがするだろうと放任していた。


 ある者は写真を撮って、ある者は指をさしながら新たな目撃者を増やす。ある者は死体の状況をおもしろおかしく話し合って、ある者は嫌な顔をしながら「誰か通報してやれよ」と去っていく。


 あの人だかりは、死体を使って遊んでいたの。人の死体も、人にとっては娯楽になり得るのよね。私もこうやって、話のネタにしているくらいだし。


 あの場で飛び降りたあの人は、そうなることを予見できたのかな? そんなことよりも死への望みが強かったのかもしれない。死ねば恥も外聞がいぶんもないだろうから。


 ……そのあとのことはよく知らない。私は結局、死体に干渉することなく、通報することもなかった。


 約束の場所に駆け付けて、友達と街で遊びまわった。ただ疲れただけで何が楽しいのかわからなかったけど。


 死体は、翌日にはなくなっていた。きれいさっぱりね。学生たちも、何事もなかったように過ごしていた。


 それが、ヒト、なのよね。


 みんな、しょせんは他人なんかどうでもよくて、他人の死体ですら蹂躙じゅうりんすることができて……そのあとのことはどうでもいい。


 ……そう。集団になじめない私だけが、異常ってわけじゃない。



         †



「……おいしかった? 」


 私は口についた果汁をなめとる。皿はからになっていた。


 小夜子は目を伏せてほほ笑む。


「どうして人は、集団の中にいると安心するのかな。集団の中が安全だなんて保障は、どこにもないはずなのに。自殺までして、逃げようとする人もいるくらいなのに」


 腹は満ちた。私は窓に顔を向ける。


「……また来てね。孤独の日々はステキだけど。たまにはだれかと話さないと、声が退化するような気がするの」


 はかない声だった。私は返事もなく飛び立ち、窓枠を蹴って外へ降りる。


 振り返れば、小夜子が窓枠に手を置いて私を見下ろしていた。


「ほんとうはきっと……あの人は幸せだったのかもしれない。不特定多数の人に遊ばれても、簡単に、死ぬことができたのだから……」


 小夜子は、生に執着がないらしい。ヒトの子のくせにヒトと渡り合えないのだから無理もないだろう。


 皮肉なものだ。そのくせ小夜子は、見ず知らずの死を数多く見つめているというのだから。


 ――こんなものはまだ序の口。小夜子から引き出さなければならないことはたくさんある。


 私はふらりと歩き出しながら、口角を上げた。小夜子が語る、次の話に期待を込めて。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る