第40幕.『人生の断頭台を飾るために』

 眼下に見下ろせる薔薇庭園の遥か遠くの何処かから、金木犀の匂いが風に乗って漂っていた。薔薇庭園の向こう、広い敷地の先にある門を、麗人は見つめた。黒地に白く大きな薔薇模様をあしらった大判のストールを肩にかけて、黒いシャツの襟をかき寄せる。

 麗人がいたのは、城のバルコニーだった。ラム酒を垂らしたコーヒーが冷え切って、重ね置かれた分厚い本の山を築いた隙間で肩身が狭そうにしている。雑然としたテーブルの中央には、赤い薔薇の飾られた細い花瓶が置かれていた。

 麗人は本を読んでいた。冷めたコーヒーを時折啜りながら、ラムダークと甘みのないコーヒーの二つの苦みを、寂しい空気に香らせて。

 麗人は長い脚を組んで、悠然と本のページをめくっていた。長い睫毛の物憂げな影さえ、麗人の悠揚とした態に薔薇が咲くような華やぎを含んでいる。庭園の秋薔薇を見下ろしながら、過ごしやすい気温の中で本を読むことを、麗人は好んでいたのであった。

 青い明眸は本の上にしっかりと定められている。しかし、麗人は殆どページをめくっているだけのような速さで、瞬きだけを繰りかえしていた。瞬きは写真を撮るときの音の代わりのように本の内容を取り込んでいたのであった。それが麗人の読書だった。いつからこんな風に文字をとらえるようになったのかは覚えていないが、この方法のために「どの本の何処にこの記述があったか」などを諳(そら)んじられるようになった。今のところ、あまり役立ったことはないのであるが。そうやって文字を取り込むことが、麗人にとっては一番楽なのである。

 積み上げられているのは詩や戯曲、脚本ばかりであった。小説はひとつもない。子供の頃の夢の影響が未だに心に小さな傷を残していて、麗人は置き去らざるを得なかった運命をなぞるように、脚本を読むのだった。テーブルの上に開かれた年季の入った黒革の手帳には、気に入った台詞や文章が書き写されている。

 物憂い角度に首を傾け、麗人は苦い想いに添える苦味が欲しくて、マグカップに手を伸ばそうとした。紙の栞を手に取って、読んでいたページに指先が触れる──風が吹いたのは、そんなときだった。

 突風が栞を攫った。本に挟もうとした紙は、風に奪われて飛ばされてしまう。麗人は硝子細工のように繊細で美しい指先を空に伸ばしたが、整った爪先は風を薙いだだけで虚しさを握りしめる。指先をすり抜けた栞がひらひらと遠くに落ちていく様子を、麗人は風に遊ばれる長い髪を耳にかけながら見送ることしかできなかった。読みかけの本が、ばらばらと音を立ててめくれていく。読みさしの文章が行方を晦(くら)ませる 音を、近くの出来事なのに遠くに思いながら、麗人は風にめくられている本に目線を落とした。どうして本を読んでいたのかを忘れながら、同時に何かを思い出しているような気分であった。

 ストールの襟を掻き寄せて、麗人は椅子に腰掛けた。どこまで読んだか分からなくなった本、そのページの端の紙のぱさつきを指先でなぞる。

 庭の薔薇がよく見渡せた。かすめていく静けさ、時が留まったように一定の方向にだけ流れる風が崩れた先刻の一瞬。麗人にはふと、今という時間が、人生に栞を挟んでいるような期間に思えた。或いは、人生という脚本の、執行猶予と言うべきか。

 誰もが一つの脚本なのであると、麗人は思っていた。自分は美しい物語であり、血まみれのシナリオである。

 人生に挟んだ栞は何処へ行ったのやら、失くしたのか、消えたのか、分からない。麗人が本を読む理由は一つだった。他者の人生を知るためである。他者の人生など、本来麗人には不要なのであるが、麗人がおぞましくあるために必要な知識であったのだ。麗人は他者の心が分からない自分の問題に、早くから気がついていたために、本を読んで「普通の人間」の人生を知り、他者を観察している。誰の気持ちにでも寄り添える人格者、素晴らしい人間性の真人間を装うべく、麗人は常に他人を観察して、他者と接する際に用いる応対手引書を自分の中で常に更新している。自分という脚本の脇役である他人を、自分を引き立てるために理解する悪辣な努力である。

 だが麗人の読書にはまた別の目的も存在していた。

 麗人は読了した本のことを心の内で「殺戮が済んだ本」という名前をつけていた。脚本を読み終えて殺戮し、本の屍を築いていく。まるで物語の終焉だけを切り取って蒐集するかのように、殺戮を終えた本は麗人の内側に取り込まれて、針によって心臓を刺されるのである。本は終焉だけを切り取られて、標本のように閉じ込められる。自分という物語、その断頭台の幕を引く瞬間を彩るために。

 麗人が本を読むために今一度ページをはぐると、本に印字された黒いインクがばらばらと音を立てて、黒蝶の群れと化した。本は崩れ、文字は羽ばたき、飛んでいく。

 麗人は羽ばたいていく黒インクを見つめながら、花瓶に挿してあった薔薇を一輪抜き取った。

 血塗られた生涯を飾るのにふさわしい、目を盲するほど美しく華やかな終焉というのは、どんなものかと考えたのだった。

 文字だった黒蝶が飛んでいく。麗人は摘んだ薔薇の茎を薄い唇に当てた。そして今まさに飛び立って、物語を白ませた最後の黒蝶に狙いを定めて薔薇で貫いた。黒蝶の刺さった薔薇を鎖した本の薄い表紙に突き刺すと、麗人は薔薇柄のストールを翻してマグカップを掴んだのだった。

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