第37幕.『悪夢を欺く仮面と悪夢を暴く美貌』

 彼岸と此岸の境界が、曖昧に霞んでいた。昨日でも今日でもない時間の青みは、灰色がかった薄靄となって漂っている。薔薇庭園を包み込む冷たさは視界を酷く煙らせている。早朝と浄闇、その瞬きの狭間。全てが淡くほどけていた。薄闇色の曖昧は何処までも広がり続けていた。

 何処かから戻ってきた黒蝶が、麗人の黒髪に吸い込まれていった。薄靄に奪われた視界の外から、旅に出ていた黒蝶がひとひら、またひとひらと、戻ってきては麗人の肉体に吸収されていく。身体の端をほろほろと蝶にしながら、麗人は薄靄に包まれた薔薇の藪を彷徨っていた。眠りの中に心を置き去ったような倦怠と虚無によって、麗人は彷徨うことを強いられていた。闇には利く悲しみよりも青い目は、青闇に惑い、手入れをされていた庭を踏み外して久しかった。長い脚は、蹌踉としていたのだった。荊の藪に、長い髪を結んでいた紐を掻かれて後ろを振り返るが、はらりと解けた柔らかな髪が肩と胸に散っただけだった。紐が何処へ落ちたのかは、一瞬で分からなくなっていた。麗人は彫り深い目元、薄い二重瞼を、曖昧に開いていた。眠りから脱獄を果たした者のようだった。静かであるが世界を飲み干すおぞましい憂愁によって、長い睫毛は重たい。麗人は荊に奪われた髪紐のことを置き去った。

 悪夢を見たのだった。だが麗人が覚えているのはそこまでだった。悪夢を見たにも拘わらず、内容を覚えていないことが耐えがたい吐き気を起こしていた。麗人は姿を隠したくて徘徊をしていた。麗人は知っているのだ。顔を見られてしまったら、自分は誰からも隠れることができないのだ。必要に迫られた徘徊だった。

 姿を隠さなければならない衝動が、麗人の内側で猛威を振るっていた。吐き気が蟠ることを続けている。麗人は吐き気を連れてきた悪夢から姿を隠しながら、同時にその悪夢を暴こうとしていた。不気味な焦燥があった。他の誰にも理解できない焦燥だった。麗人は悪夢のことを考えていた。自分の顔は、存在は、誰の目に見られても美だと識別されてしまう。仮面が欲しくてたまらなかった。美貌で悪夢を欺いたところで、同じことかもしれないが。仮面は悪夢を追い詰めるために必要で、美貌である素顔は叩き潰すために使えばいいことなのだった。

 思考の巡る速さは、麗人を開けた場所へと導いた。薔薇の茂みを抜けると、噴水の前に出る。噴水は枯れていた。絡みついていた薔薇も、蔓がひび割れた石の線を沿ったまま朽ちていた。麗人は彷徨うことに疲れて、噴水の前でぼんやりと立ち止まる。

 麗人は悲しみがもっと欲しいと望んだ。悲しみが必要なのだと、表情が乏しくなったために硬質な厳格を佇ませる美貌に慨嘆を刷いた。すると、噴水は自らが枯れていたことを忘れ出した。瞬く間に溢れた水は、漂う薄靄さえ、その水面に映していた。麗人はふらふらと噴水に近づいた。

 麗人は澄んだ水を覗き込んだ。吐き気が紛れる気分になったのだ。水は噴き出されているはずなのに、麗人が覗く水を受けている場所には、漣一つ存在しない。枯れていたことを忘れた水は、麗人の白い美貌をただ映している。麗人は自分の目をじっと見ていた。悲しみよりも青く、嘆くことより深く、死ぬことよりも従わざるを得ない自然があった。麗人は自分の瞳に祝杯をあげる気分になった。

 麗人は噴水に絡みながら咲いていた薔薇を一輪、むしり取った。素手で掴んだ薔薇に血を流した。手のひらに痛みがあったものの、その痛みは大事なことではなかった。呪われた美しさに掲げる祝杯の方が、大切なものだった。

 麗人は薔薇を蕚から持って、薄靄に煙る灰色の空に捧げた。毒杯を掲げる覇気を以て、厳かに薔薇は掲げられたのだった。麗人は酔いしれていた。美貌は眠りから逃れた者のままだった。無粋なものが何もない微睡みに酩酊していた。芸術的な睫毛が、凄絶な青みに冴える明眸、その瞬きを忘れた目が放つ魔性を狂気で縁取っていた。

 掲げた薔薇杯は麗人の手の中で溶けた。解けながら滴り、血よりも色濃い濃紫(ペルサ)となって、麗人の手首の線を流れ落ちる。麗人は薔薇の死に口付けて、死で唇を汚しながら、祝杯を飲み干した。麗人は満たされた気分になって、今一度噴水の水面を見やった。唇の端から、死が一雫、こぼれ落ち、初めて水面に波紋ができる。落ちた死の一瞬に乱されたのち、美貌を映し出す元の状態に戻る。死の痕を残した唇を、麗人は見つめていた。吸い寄せられるように、水面にある自分の写身に顔を寄せた。麗人は水に映った美貌の、血濡れた唇にそっと口付けた。漣が、唇を汚していた死を濯(そそ)いでいた。

 美貌は波打ち、歪んでいった。そしてそのまま、美貌に戻った。麗人は死が溶けた水を唇から滴らせて、目を見開く。酩酊は切り刻まれていた。恍惚の彷徨は、その心臓を止められている。生きていくために必要なすべての酔いが、麗人の探し物と引き換えに、死脈を打ち始めたのだった。

 麗人は無力にも、美貌を見つめるだけだった。悪夢を欺く仮面も、悪夢を打ちのめす美貌も、探す必要はなかった。

 仮面は美貌なのか。美貌が仮面なのか。仮面を外し、美の皮を剥いだところで、仮面も美貌もそこにある。取り去ってなお、美にしかなれない。麗人は目眩を覚えた。盲目の瞳孔に、酷薄な電流が突き刺さる。

 吐き気が消えていた。悪夢の正体は蟠ったまま、悪夢を暴く必要はなくなって、劇場だけが忘れられていた。麗人は緊張の糸が短絡すると同時に、噴水に転落した。聞こえたのは激しい水音だけだった。噴水に、麗人が溺れて死ぬような深みなどなかった。麗人は水の中から這い出ると、噴水の淵に半身を乗り上げて、心の中で死のうとしていた酩酊に尋ねたのだった。


(今は、何時……?)


 放棄された日常が、死骸となって横たわる。麗人は濡れた髪を掻き上げると、羽のような睫毛を伏せた。市街地の方から、早朝を告げる鐘の音がぼんやりと聞こえてきた。時計が語るのは時間だったかもしれない。だが麗人が確かめたのは時刻ではなかった。眠りの支配圏、その外で麗人は、欺くことと誠実であることを同時に行う美貌の在処を見つけていた。


(ああ、まだ)

(こんな、時間だ)


 薄靄が晴れていく。斜めに差し込んだ朝日。麗人は空気の中にある灰色と青の均衡が変わっていく様子を、濡れた頬に触れる風だけで感じていた。悪夢を暴こうとしていたことは、麗人にとってどうでもいいことになっていた。まだ青い光を白皙の肌に受けながら、麗人は半分だけ目を伏せた。何処からか戻ってきた黒蝶が、麗人の手の甲に舞い降りている。蝶が麗人の肉体に戻ると、麗人は広義でいうところの朝を取り戻したのだった。旅立っていた肉体が帰ってくる。

 悪夢を暴きたくて彷徨った時間は、靄が晴れて浄らかな朝露の香りへと姿を変えていた。眠らない夜は、明日にはならないのだった。明日になれなかった悪夢は、麗人の激情に葬られたのかもしれなかった。

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