第34幕.『僕の薔薇はいつもなくなる』
麗人は城へ帰る道を、一人歩いていた。大きな薔薇の、花束を肩に乗せていた。麗人の所有する黒い巨城、極夜の孤城、あるいは常夜城ことデュラフォワ城は、高級住宅街の先にある。住宅街と城の区画は大きく二分されていて、住宅街の数倍もの敷地を、麗人の城と庭が占めていた。城がある区画への道は、一つしかない。白は現在、公には閉鎖されていることになっていて、人が立ち入れるのは住宅街までとなっていた。尤も、麗人はこの決まりに当てはまる存在ではなかった。城へ続く道に人影はなく、幅の広い一本道に亡霊のような街路樹が並んでいる。街灯も一定の間隔で設置されていたが、火を入れられていないことが久しい様子がひと目で分かる有様だった。硝子が割れている。街路樹も手入れがされていない。城門に続く長い道には、休憩を取るためのものなのか用途が不明な長椅子がぽつぽつと点在していた。麗人が来た道を顧みたのは、そんな人気がない場所に不審を感じたからだった。麗人が後ろを見ると、青いリボンで結いた長い髪が、緩い波を描きながらふわりと肩の上を流れた。
麗人は足を止めて、薔薇を肩に乗せたまま、何もないところを見ていた。もう、町の残り香を自分が連れてきたわけではあるまい。香りは薔薇だけで足りている。振り返って立ち止まったまま、麗人は詩のないメロディーを一節だけ、歌った。肩の上で風に吹かれた薔薇の花束が、赤いリボンをひらりとさせただけだった。
一節だけ歌ってやめると、麗人は青いレンズの色眼鏡の下で、倦怠とも心の赴くまま自由に思考することとも違う、曖昧な目をした。
(誰かいるな……)
顧みた道に、人が隠れられるものは何もなかった。それでも麗人は、空気を見ていた。視線を向ける焦点となる対象がないので、見るものがない目が些か困ったが、麗人は立ち止まったままその場を動かなかった。
気配はある。見えないだけだ。麗人は赤い薔薇の花束から、薔薇を一輪抜き取った。青いレンズの下で目は凝らしたまま、曖昧な倦怠を鋼のように光らせた青い瞳に力を込めている。抜き取った薔薇は、唇に運ばれた。物憂げであるにも拘らず、殺伐とした目をしたままの美貌に、薔薇は差し色のように添えられる。俄かに妖美な気迫が漂うと、薔薇は麗人の唇の微熱で赤くとろけた。麗人は手の中に、溶けた薔薇を掬うと、見えないが存在を感じる相手の構成要素を睨んだ。
赤に変えられた薔薇を、麗人は気配の居場所に投じた。すると溶けた薔薇の赤は地面に落ちて血溜まりのようになるわけでもなく、麗人の目に見えなかった気配を赤く染めた。赤い薔薇だったものを浴びて、可視化されたのはエーテル状の人影だった。濡れたマントみたいだった。風にひらひらしている洗濯物にも見えた。
麗人は自分が見るために便宜上赤くした透明のマントに尋ねた。
「何をしているの、貴様、ずっと僕について来ていたよね」
雑に薔薇染めされた色付きのゆらめきは、恭しく腰を折った。
「名乗る名前は、遠くにあって忘れてしまいました。この辺りの、近くにある森に住んでいる者です」
「ふうん」
麗人は近くにあったベンチに座った。長い脚を組んで、薔薇の花束を傍に置く。近くの森、と言われて、首を巡らせていた先にあったのは、城と住宅街を大きく隔てるように存在している黒い森だった。麗人は黒緑の長い髪を結んでいたリボンを解きながら、森を見つめていた。長い髪が、はらりと肩に落ちた。あの森に、今住んでいる者はいないはずだった。目が識別できなかったことからして、目の前の人物が何なのかは大方想像がついていた。麗人は目に見えないものを信じない類の人間ではなかった。自分の目に、信用できる形で可視化することができるので、深く考えるようなことではない些末な問題だった。
便宜上薔薇染めされた者は続けた。
「領主様のお城へ続く道は、人が通りません……だから散歩をするときに通ります。散歩の途中であなたを見つけて……その、ついてきてしまったのです。あまりにも、お美しい方だったので」
「駄目じゃないか、知らない人について行ったら危ないよ」
「すみません……」
「君は自分が誰の目にも見えないから大丈夫と思っていたみたいだけれどさ、現に僕に見つかったじゃないか」
麗人は奇妙な相手を相手に窘めながら、腕を組んだ。便宜上染められたゆらめきは、肩を落とした。赤い布がひらひらしているような姿は、竦然としていて、そよ風にでも飛ばされてしまいそうだった。赤いゆらめきは重たい嘆きで沈みそうな声で言った。
「あなたは美しい」
「そうだろうね」
薔薇染めされた揺らめきは、麗人の隣に座ろうとはしなかった。
「美しいものが呼び集めるのは、鳥や花、蝶のようなものばかりではないのです。例えば、私のようなものも呼んでしまう」
「君のような? ……君のようなとは、どんなもののことだい?」
「美に憧れて……彷徨うことしかできない者です」
麗人は急に、興味深げに微笑んだ。笑窪にあるのは変わらず、倦怠のこもった憂いの影であったが、揺らめきの発言に思うところがあったのだ。
「そうね、そうだね……確かに、君のいうことは僕もそうだと思うよ。でも」
麗人は一度言葉を切って、浅ましい者でも見ているような酷薄さを、白い美貌にかすめさせる。
「鳥や花、蝶だって……彷徨っていて心は持っていないんだ。何か外にある美しさに色めきだっている気分でいながら、自分が発した熱に浮かされているだけなんだよ。自分の熱を炎にして、勝手に焼け落ちるんだ……『失望』っていう、形で」
麗人は酷薄に笑う声を厳かに響かせていた。憧れに心を彷徨わせた者たちが見たいと願う美しさを演じることに慣れきった、心の彷徨への蔑みがあった。演じること、他者が自分に見たいものを、よく理解している冷めた視点が、麗人に残酷なことを語らせていた。冷たい眦の傲慢さえ、美貌が冴えるだけだった。揶揄する言葉さえ、麗人に喋らせると祝福のようだった。
便宜上薔薇染めされた揺らめきは、微かに震えていた。震えながら、ない膝をついて麗人に跪いていた。俯き加減に低く笑っていた麗人は、また何の義理のない何者かに何かを捧げられていることに気付いて小さく笑った。麗人が呆れていたのは目の前の揺らめきではなくて、何処ででも誰かに従われることで奪うことをしている自分だった。麗人がぞんざいに投げ捨てた笑みに、色付きの揺らめきは胸の前で指を組む動きをした。
「息が、止まってしまいそうです」
「君の息は、止まっているのに?」
「あなたが美しすぎて、私は死んでしまいたい」
「君はもう、死んでいるのに?」
麗人は物憂い微苦笑を浮かべながら、戯れを過ごしていた。様々な笑い方を持つ美貌が、ほろほろと淡く、長い睫毛を伏せては唇の端で微笑んでいる。真面目に、正気で嘆いて膝をついたままの、薔薇色の揺らめきは続けた。
「祈らせてはいただけませんか──惨死する他ない、私に」
「僕は、神様とかじゃないけれど……好きにするといいよ」
亡霊が祈りを捧げている間、麗人は退屈しながら何も言わずに、ベンチに座っていた。睫毛の長さが傲慢な目の縁に、遠くの景色を映しながら。黒い森は、麗人が何を見ようとしたところで、黒い森でしかなかった。外にあるものに、何の影も、投げかけることなく──
麗人はベンチに薔薇の花束を置いて、城に帰った。
後日、薔薇は消えて無くなっていたが、それは麗人が知ったことではなかった。
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