第2幕.『渇き』

 薄ぼんやりと煤を上げて、めらめらと燃える蝋燭が宙に浮きながら血を滴らせていた。赤い蝋燭の血が、祭壇に近づくものを焼き払いながら、そこに横たわる薔薇の香りを守り鎖していた。力ない軀を祭壇に横たえているのは、麗人だった。凛々しい柳眉を物憂げに、鋭い険のある眦の明眸を明滅させ、長い睫毛が傲慢に瞳に影を塗る、美貌。至高と崇高を兼ね備える高貴は、誰の目に映ろうと美を顕然かつ客観的事実として焼き付ける。緩く波を描く黒緑の髪の一本一本にさえ、美神による祝福が脈を打っている。蝋燭が焼けながら、血を流しながら守っていたのは、麗人を害するものであるのか、それとも麗人が放つ瘴気に触れたら脆く壊れてゆく外界にあるものなのかは、今や曖昧になっていた。蝋燭は、燃え尽きようとしていたのだった。此処にある蝋燭とて、初めは炎を宿すことはなかったのである。麗人を拘束しておくために、蝋燭は焼けることを強いられたのだ。

 麗人は目を見開いたまま、瞬きもせずに、聖堂の祭壇の上で、薔薇の馥郁に包まれていた。その香りが外界のものにとっては猛毒を持つ魔性であることを知らず、無防備に痩躯を薔薇の褥に曝していたのだった。

 神の死に似た仰臥だった。処刑を待つ神を思わせる厳然が、白皙の面上から匂い立つ。朽ちる前の薔薇の香りを、故意に香らせるような、死脈の偽装。その存在の覇気のみで蝋燭の命を、炎に宿る美の欠片へ無粋な言葉を介さずに囁きかける。

 麗人は長い睫毛を、深海色の瞳に翳らせて微睡んでいた。蝋燭が一本、また一本と溶け落ちて、自らの血の涙に呑まれていく。蝋燭が減っていくと、麗人を拘束する目に見えない荊棘が焼き切れていく……

 彷徨う虚ろの影が、其処彼処から現れたのはそんな時だった。麗人を外界から守り、麗人から外界を守る蝋燭が燃え尽きて均衡が崩れる。彷徨う虚ろが麗人の美を感知して、醜い土地から現れたのだった。彷徨う虚ろは、醜い存在だった。眩いものに群がり、強いものに引きつけられ、常に飢えていて何でも食べてしまう。特に、美しいもの、美は、彼らが好んで奪おうとするものだった。

 彷徨う虚ろたちは、動かない麗人に群がった。虫がかさかさと動くようでいて、また這うようでもある奇妙な動きをしながら、麗人をかじっていく。麗人は目を開けたまま眠っていた。目を閉じることも、面倒だったのである。麗人はかじられた傷から血を流していた。

 麗人は血を流しても、尽きることを知らない泉のように仰臥を続けていた。しかし、麗人を食らった彷徨う虚ろたちには、変化があった。身体の内側で、異変が起きる。身体が、中心部から炎をもったように。彷徨う虚ろたちの、喉が渇きはじめる。

 麗人が眠っているので、虚ろたちはまだ麗人を食らいたいところであった。それでも、喉の渇きは尋常ではなかった。彷徨う虚ろたちは、水を飲みたくて、ふらふらと戻っていく。

 彷徨う虚ろたちは水を求めて聖堂の地下水脈へと降りていった。幾千もの影が、のそりと移動をした。身体の中で水を求めている何かが、猛威を振るい出していた。虚ろたちは渇いていった。水を求める道は、砂漠の旅にも似ていた。多くの虚ろたちは、水を夢見るくらいに朦朧としながら、息絶えた。幾千もの彷徨う虚ろは、水脈にたどり着く前に、醜い土地で渇いて死んだ。醜い土地は、醜いものの死骸であふれた。

 虚ろたちの中で暴れていたのは、彼らが食らった麗人の美であった。命とは潤いであり、美もまた瑞々しさであるがゆえに、麗人の美が虚ろたちの中に住まう美の欠片を啜り尽くしてしまったのだ。乾燥した花のように、虚ろたちの死骸は形を保ったままで、命を焼き尽くされたのであった。

 彷徨う虚ろたちは、水を求めて水にたどり着く前に、潤いに渇き餓(かつ)えて落命した。暗く、汚れた、地下水脈で。その苦しい死を照らす光も、顧みるものとてない場所で。

 麗人は、祭壇の上でおもむろに花瞼を下ろした。そして注がれる猛毒のようにたっぷりの沈黙を経てから、伏せた睫毛を上げたのだった。彫り深い二重の線に花びらは埋もれて、鋭いが大きな明眸が、中空を見上げた。

 蝋燭は全て、溶けきっていた。瘴気の炎は涙を降らせて、祭壇の周りは血の雨の波紋を、時を留めたように生々しく刻んでいた。冷たい床の、上で。死んだ蝋の血は、床の上で弾けて波紋を広げると、そのまま冷たい血の海になった。

 麗人はゆっくりと半身を起こした。物憂げに、横分けの長い前髪に指を通した。蝋燭が焼けて啼く声も、彷徨う虚ろが渇いて喘ぐ苦鳴も、麗人の可聴域には届かないようであった。己の内で猛威を振るう美が落ち着くのを待つように、麗人は息を吸った。何処かでまた、彷徨う虚ろの群れが、死んでいった。

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