第19話 話し合い

 母が行きたいと言うその店は、家から歩いて十分くらいの大通り沿いにあった。店の佇まいは比較的こぢんまりとしており、黒を基調としたその外観はどこか重厚感があった。


 その店は蕎麦を売りにしているらしい。とは言っても、先日萌香と行った清水寺の近くにある蕎麦屋とは異なり、蕎麦以外に天ぷらなども売りにしているようだった。


 ちなみに家から店へ向かう間、母は終始、萌香に質問を投げかけていた。俺はその様子を後ろから眺めているだけだったが、ついさっき知り合ったとは思えないほど会話は弾んでいた。母のコミュ力の高さには感心してしまう。


 店に到着してからさっそく店内へ入ると、おそらく大学生と思われる愛想のとても良い店員が迎えてくれた。


 「いらっしゃいませー。何名様でしょうか」

 「三名です」


 母が答えると、店員は「かしこまりました」と言って俺たちを席まで案内してくれた。


 店の中はかなり窮屈な感じで、通路も人が一人通るのがやっとといった感じだった。


 二階のテーブル席に案内された俺たちは、俺と萌香が隣同士、俺の向かいに母といった配置で席についた。


 「なんでこんな店知ってんだよ」


 俺は母にそう尋ねた。この近くに住み始めて四ヶ月ほどになるが、こんな店があるなんて知らなかった。


 「結構有名なお店なんだよ? もしかしたら外まで人が並んでるんじゃないかって思ったけど、来た時間が早かったから助かった」


 たしかに母の言う通り、もうすでに俺たちの次の客が来ていた。これは席が埋まるのも時間の問題なのかもしれない。


 するとお盆にお水を乗せてさっきの店員がやって来た。


 「お待たせ致しました、こちらお冷やになります。ご注文お決まりになりましたら、お声がけください。失礼致します」


 店員が去って行った後、俺たちは各自メニュー表に目を通した。


 結局三人とも、この店で一番定番メニューであろうランチ限定の『天丼と蕎麦』を注文した。


 そして注文した後、母はなおも萌香に話しかける。


 「萌香ちゃんは、圭太と一緒にいて何か困ってることとかない?」

 「困ってること、ですか……」

 「だって圭太、はっきり言って生活力ないでしょ?」

 「おい勝手に決めつけるな」


 俺は思わず声を出したが、母はそんなことお構いなしといった様子で続ける。


 「部屋を見た感じ随分と綺麗だったけど、掃除とかは萌香ちゃんがやってるんじゃない?」

 「そ、それはまあ……掃除は基本的に私がやってますけど……」

 「やっぱりねー。ちなみにご飯はどうしているの?」

 「えーっと……それも基本的には私が……」

 「へぇ……。圭太は随分と萌香ちゃんのお世話になっているみたいだね」


 母はそう言ってジーッと俺の顔を見てきた。


 俺は反射的に母から目を逸らす。


 「しょ、しょうがないだろ。俺はそういうのが苦手なんだ」

 「全く、萌香ちゃんがいなかったら一体圭太はどんな不摂生な生活をしていたことやら……。もうちょっと気を配っておけばよかったかな」

 「余計なお世話だ」


 まあ結果的に、萌香が来てくれたおかげで俺の生活の質が向上していることは間違いなかった。


 ……と、ここで萌香が「で、でも……!」と机から身を乗り出す勢い言いながら、斜め前に座る母を見た。


 「たしかに圭太くんは家事とかそういったことは苦手ですけど……でも、とても優しいし、頼りになる人です! もし圭太くんがいなかったら……私は今頃どうなっていたかわかりません。だから圭太くんには感謝してもしきれないというか……。……とにかく! 圭太くんは素晴らしい人です!」


 萌香のあまりの気迫に、俺も母も思わず数秒間黙り込んでしまった。


 しばらくすると、母はニヤリと笑みを浮かべた。


 「そんなことはわかってるよ、萌香ちゃん。圭太は困ってる人を放っておけない。そういう子なの。でも……圭太はちょっと突発的というか、考える前に行動しちゃうタイプなんだよね。だからこうなったのもお母さん的にはわからなくもないの。結果的に萌香ちゃんがそうやって圭太のことを信頼してくれるのは、もちろん母親としては嬉しいけど」

 「私は本当に……圭太くんのことを……」

 「でもね」


 母は萌香の言葉を妨げるように口を挟んだ。

 しかしちょうどその時、お盆を持った店員がこちらへやって来た。


 「失礼致します。お先にお通しでございます」

 店員はそう言って、お盆から小皿によそわれた冷や豆腐と和え物を配ってきた。


 あまりに突然のことだったので、俺たちは店員の様子をただ黙って見ているという形になった。


 「天丼とお蕎麦はもう少々お待ちください。失礼致します」


 そう言って去って行く店員に対して、俺たちは揃って軽く頭を下げた。


 さっき何か話を切り出そうとしていた母は、こうなったら仕方がないといった感じで顔に笑みを作り、箸を手に取った。


 「食べましょうか」


 俺と萌香も、母にそう促されて箸を手に取る。


 そして皆一様に手を合わせ、箸を進めた。


 お通しのお豆腐と和物は、感動するほどではなかったものの普通に美味しかった。


 俺たちは比較的ゆっくりなペースでお通しを口に運んでいく。


 やがてそうしているうちに、とうとうメインの天丼と蕎麦が運ばれてきた。


 運ばれてきたそれはとても立派で、特に天丼に関しては、今にも天ぷらがどんぶりからこぼれ落ちそうなほどてんこ盛りだった。その絶景には思わず目を奪われる。


 母はバッグからスマホを取り出し、カメラで写真を撮っていた。続いてそれを見ていた萌香もスマホを取り出し、母と同じくシャッターを切った。


 「そうだ萌香ちゃん、連絡先を交換しましょう」


 母は突然思いついたようにそう提案した。萌香はすぐに「わかりました」と言って承諾した。


 俺はしばらくの間、二人が連絡先を交換し終えるのを待った。


 「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してね」

 「ありがとうございます」


 この様子を見ている限り、どうやら母は萌香のことを歓迎しているように見える。これ以上のことはないのだが、あまりにうまく行き過ぎている気がしてならなかった。


 そして俺たちはメインである天丼と蕎麦に食べ始める————。


 俺はまず天丼から箸をつけたが、これがまた予想の遥か上を行く美味しさだった。今まで食べてきた天丼は基本的に衣とタレで素材本来の旨味というのはあまり感じられなかったが、この天丼は違った。素材本来の旨味が味わえるほど全てが調和している。


 続いて蕎麦にも箸をつけたが、天丼の後に食べる蕎麦は程よい口休めのような働きをしてくれていた。


 どちらもとてもレベルが高く、終始その美味しさに舌をつづませた。


 やがて油物を食べたとは思えないほど心地の良い後味を口に留めた俺たちは、来た時よりもどこか軽い足取りで店を出て行った。


 母はこの後、大阪で現地の友人と会う約束があるらしい。つまるところ、母はそのついでに俺の様子を伺いに来たというわけだった。


 ということで、俺は萌香と共に母を最寄りのバス停まで送ることにした。


 「一つだけ、約束して欲しいんだけど」


 バス停が目で見えるほどのところまで来た時、母は突然そう言った。


 「ああ」


 母は足を止めた。それに従って、俺と萌香も足を止める。


 「もし二人にこのまま同棲を続ける気があるのなら、夏休みが終わるまでに萌香ちゃんのご両親ともちゃんと話をしなさい。もちろん萌香ちゃんがご両親に対して色々思うところがあるのはわかる。それでも話しなさい。ご両親に会って、ちゃんと自分たちの考えを伝えなさい。言葉にしないと、何も始まらないからね」

 「わかってる」


 俺は即答した。萌香の両親と会って話をしなければならないということは、言われる前からなんとなく思っていたことだった。


 一方で萌香はそんな俺を驚いたように見上げている。


 「うん、よかった」


 母はそう言って頷いた。


 萌香も何か言葉を模索しているようだった。


 「……け、圭太くんも一緒にですか?」

 「邪魔か?」

 「い、いえ……! むしろとても心強いんですけど……なんか申し訳なくて……」

 「これは二人の問題だからな。萌香を拾った俺にも責任は間違いなくある」

 「そんな……」


 終始申し訳なさそうな顔をする萌香を前に、母は微笑んだ。


 「こう見えて圭太は頑固だから。萌香ちゃん、今は圭太を頼って」

 「……はい。ありがとうございます」


 萌香は母にそう言われ、理解したように小さく頷いた。


 それから母は会話を締めくくるように「よしっ」と呟いた。


 「ここからは私一人で行くね。二人とも、しっかりやるんだよ」

 「おう」

 「じゃあまた」


 母は軽く手を振ってからこちらに背を向け、バス停に向かって歩き出した。俺と萌香はその背中をしばらくの間黙って見ていた。




 母と別れてからの帰り道、俺は萌香と今後のことについて話し合った。


 主には、萌香の両親にいつ会いに行くかについてだ。


 結論としては、大学の夏休み中である九月の上旬頃に萌香の実家がある鳥取へ行こうということになった。今はちょうど八月の中旬に差し掛かった頃なので、それまでは一ヶ月弱の時間がある。九月に入れば八月分のバイト代も懐に入るということもあり、ちょうどよかった。

 そうと決まった以上、来たるべき日までいかにして過ごすのかというのは、俺の中で喫緊の課題として現れた。


 —————だが、どうも今までの日常が変わる気配はなかった。


 それは俺自身が特にそれといったアクションを起こさなかったからなのか、それとも萌香が意識して今まで通りに振る舞うようにしていたからなのかはわからない。ただ事実として、日常は日常のままだった。


 そして俺は————おそらく萌香も、そんな日常がいつまでも続くことを祈っていた。

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