第5話 小さな幸せ


 窓から差し込んでくる朝日に照らされ、俺は閉じていたまぶたをゆっくりと開けた。


 「……痛っ」


 体を起こすと同時に、腰のあたりから妙な痛みを感じる。


 寝ていた体勢を考えれば仕方がない。毛布を敷いていたとはいえ、やはり床で寝るというのは少々無理があったようだ。


 俺は痛んだ腰を上げ、側に置いてあったスマホで現在時刻を確認した。


 現在時刻はおおよそ午前十時。いつもなら寝過ぎたというところだったが、昨日の就寝時刻を考えれば納得のいく起床時間だった。


 ベッドの方へ目をやると、どうやら萌香はまだぐっすりと寝ているようで、こちらの方を向いて微かに寝息を立てていた。萌香は家出をしてからまともな睡眠を取っていなかっただろうから、今は思う存分寝てくれればいい。


 とりあえず俺は立ち上がって流し台へ向かい、顔を洗った。


 すすいだ顔をタオルで拭きながらなんとなく寝ている萌香へ目をやってみると、自分のベッドで女の子が寝ているというあまりに非現実的な状況を突きつけられる。まるでまだ夢の中にいるような気分だった。


 ……と、その時。


 寝ていた萌香が動き出し、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。


 「おはよう」


 声をかけると萌香はゆっくりと起き上がり、まだ開き切っていない目を擦りながら俺の方を見た。


 「おはようございます……」

 「ゆっくり寝れたか?」

 「……はい。こんなに気持ちのいい朝は久しぶりです」

 「そうか。家出してから大変そうだったもんな」

 「ほんとですよ……。ゴミ箱の中で朝を迎えるってどんな気分かわかります……?」

 「想像を絶するな……」


 まだ起きてから少ししか経っていないが、萌香は口調からして随分と快調そうだった。


 「ちょっとお手洗い借りてもいいですか?」

 「ああ。朝ごはんだけど、パンとコーヒーでいいか?」

 「はい。ありがとうございます」


 そうして俺は萌香がトイレに行っている間にトースターで食パンを焼いた。


 朝食は一人暮らしを始めた当初こそ食べていたが、最近はほとんど食べていない。それはただ単に作るのが面倒というだけであって、朝食を摂った方が何かと良いことくらいはわかっていた。


 家にはまともに食卓と呼べるような机はないが、高さ五十センチくらいの机ならあるので、トーストとコーヒーはそこに置いた。


 床に座って食べるというのは窮屈だろうから、俺はベッドに座りながらマグカップに注いだアイスコーヒーを啜った。


 トイレから出てきた萌香に俺の横に座れと目で合図をすると、萌香は微笑みで返してから颯爽と手を洗いに行き、それから俺の横に腰を下ろしてきた。


 「バターは塗っといたから」

 「ありがとうございます。いただきます」


 萌香は丁寧に手を合わせてからまずはコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばした。


 それからしばらくの間、部屋には俺たちがトーストを食べるサクサクという心地の良い音が流れた。


 「……幸せです」


 萌香が食べながら呟いた。


 「こんなんで幸せなんて、安いもんだな」

 「そうですかね。結局幸せっていうのは、こういう些細なことだと思うんです」


 そう言われて、なんとなくわかるようなわからないような気がして、俺はふと考える。


 「……人生ってなんなんだろうな。だって人って、結局は幸せになるために生きているわけだろ?」

 「急にどうしたんですか」

 「いや、俺はこう見えてセンチメンタリストなんだ」

 「そうは見えませんが……」


 萌香は俺に対して苦笑してきたが、それでも何か答えを考えてくれているようだった。


 「そうですね……。人生っていうのは、小さな幸せの積み重ねだと思います」

 「小さな幸せ?」

 「はい」


 すると、萌香はマグカップを手に取ってコーヒーをひと啜りした。


 「あぁ……幸せ。……つまりはこういうことです。コーヒーを飲んで美味しいなぁ幸せだなぁって思うことにこそ、人生の本質があるんです。そうやって小さな幸せを積み重ねていって、気づいたら死んでましたーっていうのがいわゆる幸せな人生だと思います。人生なんて所詮はこの程度なんですよ」

 「なるほど……」


 なんとなく萌香の言わんとしていることは伝わった。


 ————小さな幸せを積み重ねていく。


その発想は一見単純だが、かなり真理に近いような気がした。


 「十六歳にして人生の本質を導き出しているなんて、さすがは無謀な家出をするだけあるな」


 人生に対して自分なりの理解をした上で家出という決断を下しているのなら、それはとても立派なことのように思えた。


 「そうは言っても私の場合、そういう小さな幸せじゃ満足できないから家出をしたわけなんですけどね。私には許嫁がいるって言いましたけど、親の言うことに従って許嫁と結婚しても、多分それなりにその生活の中に小さな幸せはあったと思うんです。だけど私はそれを嫌って、イラストレーターになるという、ある種大きな幸せを得るために家出をしたんです。人間っていうのは、本当に欲深い生き物です」

 「……やっぱり、人生って難しいな」

 「まったくです」


 萌香はまるで自分自身に呆れているような顔をしたが、そんな萌香のことを俺はどこか尊敬の眼差しで見ていた。少なくとも、今の自分は萌香のように何かに対して情熱を注いでいるわけではないし、かと言って平穏な日々に幸せに感じているというわけでもない。ただ毎日を惰性で過ごしている俺からしてみれば、萌香のことはとても輝いて見えていた。


 「どうしたんですか。そんなにじっと見られると恥ずかしいんですけど……」


 「あ、いや、悪い。なんて言うか、萌香はすごいなぁと思って」


 俺が言うと、萌香は訳がわからないといったような顔をした。


 「どこがですか? 親に無断で家出をするような馬鹿娘ですよ?」

 「家出と言っても、しっかりと自分の意思を持って決断して実行しているわけだろ? それって普通の人じゃできないことだと思う」

 「……これは私、褒められているんですか?」

 「もちろん」

 「ありがとうございます……」


 萌香は気恥ずかしそうな顔をした。


 「……まさか家出をして、そのことを誰かに褒められるとは思ってもいませんでした」

 「まあ少なくとも、俺に家出をする勇気なんてないからな。ましてや家出で知り合いが誰もいない県外に行くなんて、怖くてとてもできない」

 「たしかに、普通はそうなのかもしれませんね……」


 萌香はそう言いながら、自分自身に対して呆れたような顔をした。


 「この際、家出したことを誇りに思えばいいと思うぞ。悲観的でいても良いことなんてないだろし」

 「それもそうですね……わかりました! 家出をした自分を誇りに思えるように、努力していきます!」

 「その調子だ」

 「はい!」


 この時そこには、家出をしてきた者がいるとは思えない、和やかな雰囲気が生まれていた。




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