第3話 お風呂
「お風呂に入りたいです」
カップラーメンを食べ終えた萌香が突然そう言った。ちょうど俺もそう思っていたところだった。
「そういえば、家出してから今まで風呂はどうしていたんだ?」
ふと思ったので尋ねてみた。少なくとも、ゴミ箱に入っていた割に萌香から不快な匂いは微塵も感じられない。むしろ石鹸のようないい匂いがほのかに香ってくるくらいだ。
「ちゃんと毎日銭湯に行っていましたよ。さすがに臭いのは嫌なので」
どうやらその辺はちゃんとしていたらしい。
「それは偉いな。それなのにどうして、よりにもよってゴミ箱の中で夜を明かそうとするんだよ。全く理解できない」
「私の入っていたゴミ箱は清潔なんです。ペットボトルのゴミ箱ですから。変な匂いとかはしませんよ」
「……ほんとかよ」
ゴミ箱に入るという行為はやはり理解しかねる。だが、これ以上ツッコんだところで屁理屈を言われる気がした。
さて、問題は今晩の風呂である。
もちろん、築三十年のワンルームアパートとは言え、風呂くらいは付いている。なのでそれを貸せば解決する話ではあるのだが、それはどうも気が引けてならない。
というのも、ここはワンルームである。当然脱衣所なんて場所は存在しないわけで、風呂に入ろうと思えば必然的に裸で部屋中を歩き回ることになる。そんなことを目の前の少女に強いるのは、どう考えても酷だ。それになんと言っても、俺の理性が保たない。性欲というのはどう転がるかわからないので、早いうちに危険な芽は取っておく必要があるだろう。
そんなわけで、現状うちの風呂を貸すのはあまりにリスクが大きかった。ならばこうするしかない。
「……よし。銭湯に行くか」
俺が言うと、萌香は目を見開いた。
「え、今からですか? もう深夜の一時過ぎですよ」
「問題ない。幸い近場の銭湯は深夜の二時までやってるからな」
「本当ですか!? ……あ、でも私、お金ないです」
「いいよ、それくらい俺が出す」
萌香は数秒間黙り込んだ。
「……なんだか申し訳ないです」
「気にすんなって。ほら、そうと決まれば行くぞ。早く行かないと閉まる」
「え、あ……はい」
それから俺は適当に二人分のバスタオルと自分の下着と寝巻きをビニール袋の中に入れた。萌香は自前のリュックを背負っている。
「リュックなんているか?」
「下着とか諸々です」
「ああ……なるほど……。そういえば、寝巻きとか持っているのか?」
「いえ、さすがに寝巻きはかさばるので持っていません」
「そうか、なら……」
俺はすかさずクローゼットから適当な上下の部屋着をチョイスして萌香に手渡した。
「これ、よかったら使って」
「いいんですか?」
「サイズはかなり大きいだろうけど、そこは我慢してくれ」
「ありがとうございます!」
萌香は嬉しそうに渡した部屋着を胸の前で抱き抱えた。そしてなぜか俺のことを上目遣いで見てきた。
「お礼に下着、見せてあげましょうか……?」
「お前は俺を馬鹿にしているのか」
「冗談です♪」
やけに楽しそうな萌香を尻目に、俺は部屋の電気を消して外に出た。
家から銭湯までは歩いて五分ほどである。俺はその銭湯を特段多く利用しているというわけではないが、たまに湯船に浸かりたい時とかに利用している。
しかしながら、まさかこうして出会ったばかりの女子高生とその銭湯に行くことになるとは、人生というのは本当にわからないものである。夜道を歩きながらそう思った。
その銭湯の名は『乗苑寺の湯』といい、近くにある大きな寺の名を冠している。小道を入ったところに密かに佇んでいて、外見からは古風な雰囲気が感じられる。
「……人の気配がまるでないな」
銭湯の前に到着したものの、あまりの静寂ぶりに営業しているのか疑ってしまった。しかし銭湯の中は灯りがついており、入口のドアに書いてある営業時間からしても問題はなさそうだった。
「もう深夜の一時を過ぎていますからね」
「それもそうだな。よし、入るか」
「はい!」
中に入ると、受付のところには一人のおばあさんが座っている。おばあさんは俺たちに気がつくなり、もたれていた姿勢からゆっくりと背筋を伸ばした。
靴箱を見ると、どうやら俺たちの他に客はいないようだった。時間帯的にも無理はない。
靴をしまってから、俺は受付の前に置かれているボロボロの券売機で二人分の券を買い、それを受付のおばあさんに手渡した。
「お願いします」
「まいど。はい、あとこれね」
「ありがとうございます」
俺は受付のおばあさんから受け取った手のひらサイズのシャンプーとボディソープ、それとビニール袋に入れて持ってきたバスタオルを、それぞれ萌香に手渡した。
「上がったらフロントのソファで待ち合わせな」
「わかりました」
「それじゃあ」
俺は萌香に対して手を挙げて別れを示してから、男湯の暖簾をくぐった。
男湯の脱衣所には当然俺一人だけで他には誰もいない。
そんな貸切状態の銭湯に若干のワクワク感を抱きつつ、俺は服を脱ぎ始める。
すると、男湯の脱衣所と女湯の脱衣所を隔てる壁の向こう側――すなわち女湯の脱衣所の方から、体と服が擦れ合う音が聞こえてきた。
————その音は間違いなく、萌香が今まさに脱衣している音だった。
それは古い銭湯によくある、男湯と女湯が完全に壁で仕切られておらず、天井部分は繋がっているという特徴によって発生する現象だった。
すぐ隣で女子高生が脱衣をしているという事実に、俺は男性特有の陰部に発生する生理現象を抑えられなかった。全裸になった俺は、誰もいないにも関わらず、なぜか陰部をタオルで隠しながら風呂場へ向かった。
壁の向こう側からもドアが開く音がしたので、どうやら萌香も同じタイミングで風呂場へ向かうようだった。
風呂場の男湯と女湯を隔てる壁も、脱衣所と同様に天井部分は繋がっている。なので、萌香がシャワーの蛇口を捻る音までも鮮明に耳に入ってきた。
俺は邪な気持ちを抑えながら体と髪を洗い、早速湯船に体を沈める。
湯船に体を沈めた瞬間、心地の良い電流のような刺激が足の先から頭のてっぺんまでを一気に流れた。生き返るとはまさにこのことなんだと実感させられる。
思い返せば今日――実際には昨日は、八時間労働の末にゴミ箱で見知らぬ少女を拾うというてんてこまいな一日だった。なので疲労困憊もいいところだ。湯舟はそんな疲れを一斉にお湯の中に溶かしていってくれる。最高な心地だった。
しばらくすると、女湯の方から萌香が湯船に浸かるジャボンという音が聞こえてくる。
「あぁ……生き返るぅ……」
同時に、萌香の脱力し尽くしたような声が聞こえてきた。どうやら萌香は誰もいないのをいいことに、感じたことをそのまま声に出しているようだった。
俺は湯船に浸かったおかげで心にある程度余裕が生まれてきたので、ここらで萌香に声をかけてみることにした。
「随分と心地良さそうだな」
俺の声が風呂場に響く。すると、女湯の方からバシャンという水が弾ける音が聞こえてきた。
「圭太くんですか!?」
萌香は突然の俺の声に驚いているようだった。
「ああ。ここの天井は男湯と女湯繋がっているからな」
それから数秒間、沈黙が流れた。萌香は天井を確認しているようだった。
「なるほど、よく見ればそうですね。誰もいないと思って、つい声を出してしまいました……」
「たまにはこういう開放的な風呂も悪くないだろ?」
「そうですね。……でも、なんかだか変な気分です。異性と銭湯で会話するなんて」
「ほんとだな。俺も変な気分だよ」
「……その変な気分って、いやらしい方の『変な』気分じゃないですよね?」
萌香は『変な』の部分をやけに強調して言ってきた。
言わんとしていることはわかるし、あながち図星でもあるわけだが、ここは男として否定する以外はない。
「からかってんのか。見えてるわけでもあるまいし」
「そうですよねー。……あっ! どうやらこのお湯、育乳効果があるらしいですよ!」
「へ、へぇ……。男湯にはそんなこと書いてないけど。……てか、男に育乳効果があるとか言われてもどうしようもねぇだろ」
「ふふっ、それもそうですね」
萌香は壁の向こうで笑っているようだった。
しかしながら、銭湯のお湯の効果なんてどれもこれも疑わしいものばかりだ。ろくに信じたことがない。
「おっぱい大きくならないかなぁ……」
「…………」
そんな萌香の独り言に対して言い返すのも野暮だろうと思ったので、俺はとりあえず黙っておくことにした。
「この前Bに昇進したんですけど、やっぱりCくらいにはなりたいですぅ……」
「ごほんっ」
間が悪いので、なんとなく咳き込んでみた。
「ちょっとマッサージでもしてみましょうか。……もみもみ……もみもみ……」
「ごほんっ!」
さっきよりも大きく咳き込んでやった。
「……もしかして圭太くん、『変な』気分になってます?」
「これに関してはお前が悪いだろ!」
「すいませんっ♪」
「……サウナに行ってくる!」
「いってらっしゃーい♪」
思いもよらぬ形でのぼせてしまいそうだったので、俺は早々に湯船から出てサウナへと向かったのだった。
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