第15話 ジャガイモだけが知っている
「冷えてきたな」
カイは首をすぼめながら家路を急いでいた。
藤堂は目を丸くするほど仕事の出来る人だった。部署内でも「あんな人材を失うなんて、前の会社には損失でしかないよな」とか「珍しく人事が仕事したパターンだな」とか言って、容姿だけでなく中身にも正当な評価を与えていた。
その高い能力にあぐらをかくこともなく、彼女は発言通りにカイのところに色々尋ねてきた。だが、それはカイ以外にも同様で、特定の誰かに入れ込まないように見せているのは、彼女なりの処世術なのだろう。
家に着いて、鍵穴に鍵を差し込んだ。右に回したが、手応えがない。少し前までならゾッとしたところだが、彼はやれやれ、とわざとらしく溜め息を吐いてドアを開けた。
やはり、カイのよりだいぶ小さいサイズのローファーが脱いである。綺麗に揃えてはあるが、ど真ん中にあった。
カイは隣に添えるようにして靴を脱ぐと、足早に三和土に上がった。そのまま廊下を歩いてリビングへ続くドアを開けると、コトコトと何かを煮込む音が聞こえて、音のすぐ近くにブレザー姿のカンナがいた。
「鍵閉めろつったろが」
「あ、ごめん! 荷物重くて、先に運んじゃうことにしたら忘れちゃってた」
「出禁にすんぞ」
彼はもう一度長い息を吐くと、ソファの傍に鞄を置いて着替えに行った。カンナが同じ空間にいるという緊張みたいなものは、数日もしない内に完全になくなっていた。
出入りを許したことで入り浸り状態になるのかと思っていれば、意外とそういうわけでもなかった。家に帰りづらい雰囲気があるとそうしているのだろう、と感じるくらいにはまちまちな訪れだった。こうして帰る時間より先にいるのは稀で、むしろバイトを上がってからの遅い時間に来ることの方が多かった。場合によっては、カイが眠ってから、夜を明かす場所として利用するためだけに来ているようなこともあった。都合の良いねぐら、それでも構わなかった。
正直な話、彼は隣家の住人を知らない。入居した際には空だったそこには、いつからか誰かが入っていたのだが、他人に無関心な時代は二人を繋げなかった。それは周囲の家に住んでいる者たちについても同様だった。だからはっきり言ってしまえば、初めて会った日、彼女を遠ざけようとした理由は酷く一般的な考えでしかなかった。ひょっとしなくても、そこに住んでいるのがカイだということさえ知らない人の方が多いように思えた、
受け容れてしまった後はいつまでも続く下り坂。カンナの存在は、彼の日常の血肉に同化しつつあった。
カッターシャツのボタンを外しながら、遠目にカンナの背中を見つめる。彼はラメが落ちていくようだと感じていた。このままありふれた色になってしまうのだとしたら、美羽以外と過ごしてきた日々の焼き回しでしかなくなる、そんな気がして、最後のボタンで手を止めた。
「なあ」
距離が遠かったのか、彼の声が小さかったのか、カンナは振り向かない。
「おい、カンナ」
それが初めて彼女の名前を口にした瞬間だとは、彼女が「何? 呼んだ?」とこちらを向くまで気付かなかった。だがそんな驚きも、カイの瞳に映った彼女――彼の心をいつまでもいつまでも縛るセピア色の記憶にかき消されてしまった。
(違う)
「カイー? どうしたのー?」
(きっとこれは、違う。今までとは、決定的に)
彼が渡したのは、彼の部屋の戸を開けるための鍵。けれどそれは最早、彼の心を如何様にでも出来る権利を譲り渡したのと同じだった。
「あつっ」
カンナが大きな声を上げたことで、彼はハッとした。
「大丈夫か、火傷したのか」
そう尋ねた心は、ずっと昔に戻っていた。人を純粋に想い、幸せを願えた頃に。
「ううん! 大丈夫! ちょっと鍋のフチに手が当たっただけだから!」
「ちゃんと冷やせって」
「うん、そーするー!」
流水の音がして、彼は最後のボタンに手をかけた。
そこからはさっと着替えを済ませると、手洗いなどもいつもよりずっときびきびと終えて、カンナの隣に立った。彼女が作っていたのはシチューだった。
「何か手伝うよ、俺も」
そんなことを言ったのは初めてだった。誰かと暮らしている間は、彼は料理なんてついぞしなかったのに。
「じゃあ、ジャガイモ潰してくれる? マッシャーも買ってきたから、そこ、レジ袋の中にあるから」
彼は言われたとおりにジャガイモを潰しはじめた。ぐっ、ぐっと力を入れる作業を繰り返していく内に、思考はどんどん落ち着いてきた。まったくおかしなことをしているもんだと小さな笑みがこぼれてしまった。
「そういえば、さっき私を呼んだのは何だったの?」
「ただ呼んだだけ」
「えっ、私それで火傷したんだけど」
「大丈夫って言っただろ」
「そうだけど! そうなんだけど!」
これまでの誰かとも、自分が歩み寄ればこんな時間もあったのだろうか。ジャガイモは何も答えてくれない。
彼は数年ぶりにとても穏やかな顔をしていた。だが、キッチンに鏡はない。彼はその小さな喜びに気付きはしなかった。
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