第7話 歪み過ちそれでなお

「ついてくるな」

 銀杏の並木道を歩いていたカイは、我慢の限界が訪れて振り向いた。

 図書館で彼女に話しかけられてすぐ、彼は人違いだと言いたげに背を向け、『風立ちぬ』を借り出して外に出た。無視していればその内諦めるだろう、と高をくくっていたのだが、どうにも意思は強いらしく、彼女はいつまでもついてきつづけるのだった。

「言っただろ、一晩限りだって」

「違うよ、今日は泊めてほしいって言いにきたんじゃなくて、ただ、あなたと話がしたかったの」

 カイは〝ハトに餌をあげないで!〟と書かれた看板を看板をまじまじと見つめた。なるほど、そういうことか、と。

「金輪際関わるつもりはない、って意思表示したんだ、俺は」

 言葉自体は尖って聞こえたが、中身は実に柔らかいことは、彼女にはすぐに分かってしまった。彼は、本質的にそういう人物なのだ、と彼女は見抜いていた。

「それは私が、女子高生だから?」

「ああ、そうだ。俺は自分が一番大事だからな。分かったらもうついてくんなよ」

 言い切って、歩速をさらに速める。

「嫌。あなたみたいに優しい人、初めてだし。せっかく再会出来たんだから、もっと一緒にいたい」

 それに彼女は応える。

「お前、俺のこの顔見えてるか? 願い下げだ、って顔が」

 カイは眉間にシワを寄せて、疎ましそうな顔をしてみせた。

「じゃあ、一個質問させて?」

「断る」

 彼は彼女から視線を逸らした。心が微かに痛む理由を、必死に考えまいとしながら。

「さっき、なんで本拾ってあげたの?」

 ピタリ、と足が止まる。瞬きを一つして、大きく溜め息を吐く。少しでも質問の答えを考えようとした自分が嫌で仕方なかった。

「自分が一番大事だなんて、嘘。そういうのは、まるで動こうとも思わなかった私みたいな人のことを指すんだもん」

 彼女がどんな顔をしてそんなことを口にしているのか、知りたくない彼は消失点だけを見ていた。だが、その前に彼女はぴょこん、と跳ね出てきた。

「お前さ、もう帰れよ。日も暮れてんだろ。変なのが出てくる前にさっさと帰れ」

 手で払うジェスチャーをしたって、彼女は嫌そうな素振り一つ見せない。見透かされたような気がして苛立ちを感じるのに、その一方でどこか安らぎを感じて、思わず拳を固めて自分を諫めた。

「だから言ったじゃん。帰りたくないの。機嫌が悪かったら暴力振られるんだから」

 カイはわざとらしく右斜め上に目玉を動かした。まったく厄介な奴にターゲットにされてしまったと思って、大きめに息を吐く。心の底から聞こえる気がする声は無視しながら。

「お前、結局泊めてもらいたいんだろ?」

 立場の弱さを盾に取られたら、結局のところカイに太刀打ちする術はない。他人に無関心な現代では、いくらカイの方が被害を受けている側だと主張したところで、いたいけな女子高生を誑かしているだけだとしか思ってもらえないのは明白だった。

「え? 泊めてくれるの?」

 そして、カイは自分の発言がドツボにハマったことを理解した。少女は別に、今日の宿が無いとは一言も言っていないのに、彼が自分から流れを提供してしまったのだ。

「これでいっぱいお話出来るね」

 カイからすれば、女子高生なんてもう、異性として見るには年の差がありすぎる。世の中にはそれでも愛情は生まれ得るのかもしれないが、少なくとも彼にとっては、彼女はいつ爆発するか分からない爆弾でしかない。

「人の迷惑ってものは、考えられないのか」

 彼は眉間を指で押さえた。彼はこれまで、多くの女性と関係を持ってきたが、どこかで規範めいたものはあった。健全な男女の過ちは犯しても、社会的な何某にもとる行いは慎んできた。だがそれを、彼女の前では出来る自信がなかった。

 似ている。見れば見るほど、どこまでも。最初に会った時には、微妙に違うところがあると感じたはずなのに、今はもう、生き写しのようだとしか思えない。

「迷惑だってことは、分かってるけど……でも、私に何の色目も使ってこなかったのは、あなたが初めてだから。あれからずっと、もう一度あなたに逢ってみたいって、思ってたの」

 カイは悲しくなった。どれだけ男を知っていても、それでもなお、重ねた年には勝てないのだと思ったから。少女は知らない。内に秘めた衝動を、全く表に出さないでいられるようになる、ということを。

 彼女の言葉は、巧みだった。もっとも、意識して言ったわけではないが、彼に否定を許さなかった。否定しようものなら、彼は彼女に色目を使っていたことになる。もちろん、彼女は自分がなぜカイにとって特別な存在かなど分かるわけもないのだから、単に対等に接してくれる人、としか考えないわけで。

「どうしても、ダメ……?」

 夢が夢で終われば良いのに、とカイは思う。美羽によく似た少女と出逢って、泡沫のような瞬間を過ごした。そんな摩訶不思議なお話。そんなふうに終わってほしかった。

(ああ……似てる……。頼み事をする時に両手の指先を合わせる仕草まで……)

 ずっと追い求めてきた。美羽によく似た誰かを。美羽を思い出させない誰かを。その誰もが、美羽とはまるで違う部分を持っていたし、美羽のような部分を持っていた。みんな不完全で、彼はやり直すことが出来なかった。

 瞬間、ある思いが彼の脳裏をよぎる。

(やり直せるんじゃないか、今度こそ……)

 身も心も、美羽と同等か、それ以上の人と、本当の愛を築きたい。彼の根底には、そんな思いがずっと存在していた。叶うはずのない願いを抱いてしまったからこそ、ここまで彼は歪み、苦しむハメになった。

 でももし、それが叶う願いだったとしたら……?

「好きにしてくれ。その代わり、面倒事だけは持ち込むな。俺の平穏な生活を脅かさないこと、それが条件だ」

 情けないと思った。それでも彼は、未だに美羽に縛られていた。彼女のことを、愛していた。

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