第4話 すり減った心の
彼女は初めカイに声をかけれなかった。
自分の心が拙いと初めて思った。
彼にかけるべき言葉を、彼女は持っていなかった。
〝誰でも良かった〟はずなのに。
彼を見た時、世界から他の候補が消えた。
もう、彼で終わりにしたくなった。
そんな彼に、彼女がかけれる言葉は無かった。
「お風呂……ありがとう」
こぼすように口にした言葉に、彼はちらりと視線を向けると、「ドライヤーは洗面台の上から二番目」とだけ答えた。彼女の目には、彼がはめ込み合成のテレビの前に座っているように見えた。そこに映っているものが何なのか、それは彼には関係無いようだった。
一度仕切り直そうと思い、彼女は洗面所に戻った。ドライヤーは確かにそこにあった。一人暮らしに憧れた。目詰まり一つ起こしていないドライヤーを見つめながら、彼女はますます彼を選びたくなった。
髪が乾いてしまうと、いよいよ手持ち無沙汰になって、仕方なく彼女は彼の様子を伺いに行った。
相変わらず、彼ははめ込み合成されたテレビの前にいて、放っておいたら銅像になってしまいそうに見えた。ピクリとも動かず、じっとテレビを見つめている。
「入らないの?」
そう尋ねると、彼はまたちらりと彼女の方を見た。それから立ち上がって、
「ベッドが良いか、ソファが良いか」
無愛想に質問してきた。
彼女は不思議に思った。それからすぐに、彼がそういう人なんだと分かった。女を惚れさせないでいられない人。
「ベッドが良い」
「そうか。じゃあもう寝てろ」
彼女が言い終えた瞬間にそう口にして、彼は何も持たずに風呂場へ消えていった。
一人残された彼女は、一人暮らしに見えない部屋を見渡して、彼に愛おしさを感じた。この部屋には、男の美しさが溢れていると思った。ここに暮らす男はとても男らしくて、女の腐った感じがまるでしない。
だから彼は彼でいるんだと確信した。
彼女はこれまで幾度となく、使えそうな男を見繕ってきた。けれど、女を知らない男には決して声をかけなかった。そういった男は自分のことしか考えない。男を知らない人は、女を知っている男こそがそうだと思っている。でも、実際はその逆だと彼女は知っていた。深く女を知る男は、必ず線引きをする。踏み越えてはならない線は、超えたりしない。
それは、
そういった男は、女を抱く度に一つ失うのだ。彼はとりわけその度合いが大きいように感じられた。もう何も無い、そんなふうにも。
バスルームのドアが閉まる音がして、彼女は大きな溜め息を吐いた。この心の揺れを素直に信じられない気持ちが徐々に湧いてきた。目線を落とすと、無造作に置かれたリモコンが目に入った。彼女はチャンネルを適当に変えた。4番、6番、8番、7番、10番……。そうする度に光が瞳から薄れていく。
テレビはこの世で最も残酷な道具の一つだと思った。勝ち組の姿を垂れ流し続ける機械。幸せからあまりにもかけ離れた彼女に、幸せにどっぷりと浸かっている人たちの姿を見せる。
彼女は2番でようやく手を止めた。オランダの画家の特番だった。名前は知らない。ただ、彼の聖母マリアが映った時、全てのチャンネルがそうあれば良いのに、なんて感じた。本当なら消したかったけれど、彼がどう望んでいるか分からなくて、彼女はリモコンを元あった辺りに置きなおしてからベッドに横たわった。
ごろんと仰向けになると、自分の部屋と同じように白い天井が目に入って、哀しくなった。額に左手を乗せると、心の揺れへの不信はますます募った。
彼女は初めてこうした日のことを思い出した。心には愛があった。だから処女も捧げた。その痛みは今も微かにだが思い出せる。ただ漠然とした未来だけを愛おしみ、快楽の海に身を投げた。その時の彼女には、それが世界の全てだった。生きる意味も、今日という日も、全て愛の中にしまいこめた。
けれど心がカラダから乖離して、気が付けば打ち上げられていた。
それからは、愛への失望を重ねていく日々。捨て切れないから、希望の端を千切って残した。幾度となく繰り返す内、元の形なんてものはまるで分からなくなっていた。
彼で終わりにしたい。その思いは、果たして明日の自分も持ち続けることが出来るだろうか。
寝返りを打って壁の近くに顔を寄せた。壁との距離が近ければ近いほど、苦しさが大きい。
涙は涸れてしまった。流すほどの心の働きが消えてしまった。
目を瞑って、目を開ければ、何もかも捨て去れた気がして、適当な感謝の言葉を口にしたら、また何でもない朝が来る。本当に終わりが来るとしたら、それはきっと。
彼女は眼を閉じた。他人の家で眠るのは得意だった。何を言われるか分からない家よりはずっとマシだった。たとえそれが、寝込みを襲いかねない誰かと一緒でも。そこに幾らかの愛情が含まれているなら、彼女には耐えられた。
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