2 モンちゃん
「もう遅いのでなかなかお店がありませんね。
タクシーでも呼びましょうか。」
しばらく彼と歩いたが時間も遅い。
空いている店は無かった。
「そうですね……、」
と彼女は言ったがここから少し歩くと遅くまでやっている
お好み屋がある事は知っていた。
彼女は何度か行った事があった。
安くて味は良いが年配の口の悪い女将がいる。
さすがにそのような店に築ノ宮を誘うのは気が引けた。
だが彼女は確かにお腹が空いていたのだ。
「あのう、好き嫌いってありますか?
あの、その、」
そう言えば波留は彼の名前を聞いていない。
「すみません、お名前を……、」
築ノ宮がはっとした顔をした。
「ああ、申し訳ありません。名乗っていませんでした。」
彼は慌てて胸元から名刺を取り出した。
「築ノ宮彬史と申します。」
彼女は両手で名刺を受け取った。
厚めの和紙に微かに模様がついている。
高そうな名刺だ。
黒い文字で「築ノ宮彬史」と名前だけ押してあった。
「ありがとうございます。
あの、私は名刺ではないですけど、」
と彼女も小さなチラシを取り出した。
「中島波留です。占いの宣伝用のチラシなので
名前は波留だけですけど。」
築ノ宮がチラシを見る。
「これも可愛いものに変えましょう。」
それを見て波留がくすくす笑った。
「築ノ宮さんはとても真面目なんですね。」
「真面目、ですか?」
「はい。そのアドバイスもありがたく頂きます。」
彼の名前を聞いて波留は少しばかり距離が縮まった気がした。
もしかするとあのお好み屋でも大丈夫かもしれない。
「あの、あの角を曲がった所にお好み屋さんがあるんです。
古い所ですけど味は良いです。良かったら……。」
お好み屋「モンちゃん」はまだ開いていた。
「こんばんは。」
木枠のガラスがはめられた建付けの悪い引き戸を
波留が開けた。
ガラガラと大きな音がする。
「終わりだよ!」
カウンターから勢いの良い声がした。
入りかけた波留の後ろに築ノ宮がいた。
暖簾を少し開けて彼が顔を見せると
カウンターの中の女将の顔がぽかんとなった。
「終わりですか、残念でしたね。」
彼が波留に言うとそれを見た女将の声質が変わる。
「いやいやいや、やってますよう、どうぞどうぞ。」
彼女がいそいそと扉の方にやって来た。
「終わりではないんですか?」
「いやねえ、客も来ないから終わりにしようとしたけど
全然良いですよぅ。」
それでももう終わりなのだろうか彼女が暖簾を下げた。
本当に閉店のつもりだったのかもしれないが、
築ノ宮の顔を見て気が変わったのだろう。
女将がカウンターに戻り二人を見た。
「何にする?」
「じゃあ私は豚で。」
築ノ宮が興味深げに店内を見た。
どこもかしこも油だろうか色が少しばかり変わっている。
壁に貼ってあるメニューも古い物だろう。
価格は驚く程安かった。
「じゃあ私も同じものでお願いします。」
「あいよ!」
女将は上機嫌だ。
彼女は手際よくお好み焼きを作り出した。
「そういやあ、あんたここんとこ何回か来たよね?」
女将が波留を見て言った。
この桜色の髪は印象深い。
「は、はい。最近近くで仕事を始めたので。」
「そうかい。それで今日は彼氏連れかい?」
女将がにやにやと二人を見た。
「いえ、違います、この人は仕事でアドバイスをして頂いて……、」
「なんだい、違うのかい。」
女将が器用にお好み焼きをひっくり返した。
それを築ノ宮が面白そうな顔をして見ている。
女将はそれを見てふふと笑った。
「あんた、こんなもの見たこと無いだろ?」
「見た事はありますよ。でも頂いた事はありません。」
「だろうな。」
女将が焼き上がったお好み焼きを皿に乗せて二人に出した。
「たっぷりソースをつけて青のりと鰹節をかけな。」
波留が言われた通りに刷毛でソースを塗り付ける。
そして青のりと鰹節をかけた。
築ノ宮がそれを見て同じようにする。
彼は手を合わせてお好み焼きを口にした。
「……
彼にとっては初めて食べたものかもしれない。
波留はその様子を見てほっとし、彼女もお好み焼きを食べた。
昼からずっと食べていなかったのだ。
体に染みる気がする。
そして目の前でお好み焼きを食べている人、
その人も実に美味しそうに食べている。
誰かと一緒に何かを食べたのはいつだっただろうと彼女は思った。
そしてそれが楽しみを倍にすることを彼女はすっかり忘れていた。
ちらりと築ノ宮を見ると歯に青のりがついている。
彼に教えて良いのかどうか迷っていると女将が言った。
「あんた達、歯に青のりついてるよ。
デートが台無しじゃないか。」
と彼女はははと笑った。
「あんた、名前はなんと言うんだい。」
女将が波留を見て言った。
「あ、波留です。」
「波留ちゃんかい、正直このぼろ店に
こんないい男連れて来てびっくりしたんだが、
デートならもっと良いとこが良いだろう?」
女将がビールを開けて飲みだした。
「まあ時間外だから良いだろ?な。」
と彼女はにやりと笑う。
「デートじゃないです。その……、」
「あたしの事はモンちゃんと呼んでよ。」
築ノ宮がにこにことして女将のモンちゃんを見た。
「お店は確かに古いですがそれがとても良いと思います。
お好み焼きも大変美味しい。」
「おお、おにーさん、嬉しい事言ってくれるね。
ほら一杯どうだい。車で来たのかい?」
とモンちゃんがコップを差し出しビールを注いだ。
「歩きですよ。ぜひいただきます。」
と築ノ宮がそれを受け取り一気飲みした。
波留は驚いてそれを見たが、モンちゃんは大喜びだった。
「良いねぇ。あんた何の仕事してるんだい。」
「まあ色々と。」
彼は少し微笑む。
「築ノ宮さん、私の仕事のアドバイスをしてくれたんです。
そうしたらお客さんが来るようになって。
アドバイザーとかそんなお仕事ですよね。」
波留が彼を見る。
「へぇー、客が増えるんかい。
ならここもアドバイスしてもらうと増えるかね?」
築ノ宮が店を見渡す。
「いえ、ここはこのままの方が良いでしょう。
店構えも内装も時代を感じます。ムードです。
それにモンちゃんの人柄も良い。
そして一番はお好み焼きの味です。随分凝っていますね。」
モンちゃんがにやりと笑った。
「驚いたね。あんたは只者じゃないね。
漁師町の知り合いから鰹節と青のりを仕入れているんだよ。
ソースも特別さ。」
しばらくして二人は食事が終わった。
「ありがとうございました。大変美味しかった。」
築ノ宮が席を立つ。
「支払いはカードでもよろしいでしょうか。」
「うちは現金だけだ。電子マネーもだめだよ。」
築ノ宮が戸惑い顔になった。
実は彼は今日は現金は持っていなかった。
「あ、私が払います。」
波留が慌てて財布を取り出した。
「いや、それでは……、」
築ノ宮が制止するがお金が無いのは確かだ。
「大丈夫ですよ、色々とアドバイス頂いたお礼です。」
「ビールだけは奢ってやるよ。」
とモンちゃんは代金を受け取った。
二人は頭を下げて店を出た。
モンちゃんがカウンターに戻り後片付けを始めた。
「驚いたね。あの腕時計。」
彼女は築ノ宮が付けていた腕時計を思い出す。
ヴァシュロンだ。
派手でなくシンプルな時計だったがとても品が良い。
「高い車一台買えるぐらいだね。」
あの波留と言う子は三回ぐらい店に来たと彼女は思った。
どちらかと言うと貧乏くさい格好で地味な様子だ。
値段が手ごろなこの店にはそんな出で立ちの人が多い。
だが彼女はそれで良いと思っていた。
なので波留が何もかも高級そうなものを身に付けている
築ノ宮とやって来て驚いたのだ。
「しかしまああの男も時計も眼福だったねぇ。」
モンちゃんはにやにやとする。
実は彼女は時計マニアなのだ。
店を出てしばらく歩くと築ノ宮が波留に頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした。」
「いえ、問題ないです。あの店はとても安いし。
それに一度お礼もしたかったから。」
「家まで送りましょう。タクシーを呼びますね。」
「いえ、そんな、ここから近いので。」
近いと言っても結構歩くのだ。
交通費の節約だ。
それにここで波留はさよならをするつもりだった。
だが築ノ宮は肘を差し出した。
「じゃあ歩きましょう。」
「えっ、ダメです、近いと言ってもそれなりに歩きますよ。」
「それは良かった。私はあなたと話がしたかったのですよ。」
彼はにこにこして彼女を見た。
すっかり彼のペースだ。
もしかすると築ノ宮は少し酔っているのかもしれない。
さっき飲んだビールだ。
でも彼の顔色は全く変わっていない。
それでも波留はそう思う事にしておずおずと彼の肘に手を掛けた。
背広の布の感触の向こうに彼の体温を感じる。
多分こんな経験は二度とないだろうと波留は思った。
少なくとも彼は今日の事は忘れないだろう。
なぜ彼がここまで自分に付き合ってくれたのかは分からないが、
今日の事があればもう二度と会えなくても良いと思った。
「波留さんはずっとこの辺りにお住まいなのですか?」
「いえ、父が亡くなってからしばらくして引っ越しました。」
「そうですか、今はお母様とお住まいですか?」
「いえ、母もいません。」
築ノ宮がはっとする。
「すみません、嫌な事を聞きました。」
「いえ、構いません。
母は私を産む時に亡くなったんです。顔も知らなくて。」
歩きながら築ノ宮は彼女を探った。
彼女は明らかに半分物の怪の血を持っていた。
だがとても薄い。
人の世界で暮らしてかなり長いのだろうか。
もしかすると本人も自分にそのような血筋がある事を
知らないのかもしれないと築ノ宮は思った。
「占いはいつからされているのですか?」
「4年ぐらい前かしら。何となく……。」
築ノ宮が驚いた顔をした。
「そうなんですが、昔からなさっているかと。」
「いえ、そうじゃないんですけど……。」
もう夜も遅い。
歩いている辺りは民家が多い。
それぞれの家には電気がついて、
家によっては中から子どもの声が聞こえてくる。
波留は窓辺の暖かい色をした明かりを見た。
街路灯に築ノ宮の顔が照らされる。
見上げた彼の顔は優しかった。
「あの、どうして私に構うんですか?」
少し前に聞いた疑問だ。
その時彼は気になるからと言った。
だが本当にそうだろうかと彼女は思った。
ただ通りすがりに見つけたおもちゃをいじりだした
お金持ちの遊びに思えて来たのだ。
「えっ、それは……、」
波留が彼の腕から手を離した。
「本当にありがとうございました。
ここまでで大丈夫です。さようなら。」
波留は少し後ろに下がって挨拶をした。
そして築ノ宮の返事を待つ事なく走り出した。
突然で築ノ宮はしばらくぽかんと彼女の後姿を見た。
そして曲がり角でその姿が消えると思わずそちらに走った。
「……、」
そこには彼女の姿はなかった。
「なにか……、」
なにか彼女の気に障る事をしてしまったのだろうか。
思わず彼は呟いた。
どちらかと言えば今日は自分の方が彼女に迷惑をかけたのだ。
「支払いをさせてしまったのがいけなかったのか。」
彼女はどちらかと言えば生活は苦しそうだ。
その中からのあの金額は決して安くはないだろう。
そこに気が付かない自分にどんよりとした気持ちになる。
だが、今日はどうして彼女に会いに来たのかと
彼ははっと思い出した。
彼女はいわゆる人と物の怪の間の人だ。
そして世を騒がせるような存在ではないのを
確認しなければいけないのだ。
彼は元々人と物の怪の共存を目指している。
そのために色々と手を回しているのだ。
物の怪の聖域である広大な地域を
国有林と言う形で確保するのに成功していた。
そのために彼はとてつもない苦労をしたのだ。
今でもそれは続いている。
そのような大きな事をこなしつつ、街を歩き様子を探る。
その中で築ノ宮は彼女を見つけたのだ。
色白の桜色の髪を持つ彼女。
大きな眼鏡をかけて人が良さそうな、素直そうな、
放っておいたらどこかに行ってしまいそうな、
脆く、微かな……、
初めて会った時に薄暗い小部屋で
彼女はぽかんと自分を見ていた。
あの顔を思い出すと築ノ宮は思わず口元が緩む。
彼は毎日気を張り愛想笑いを浮かべているのだ。
彼の元に持ち込まれるのは種々雑多な話だ。
権力を持つ者の悩みでもくだらない話は山の様にある。
それでも彼は自分の地位と社会的な力を保つためにそれを聞くのだ。
ずっと仮面を被っている気がする。
そんな生活の中で
あの彼女の顔は久し振りに見た気がした。
あまりにも無防備だ。
かつて自分の手の平にいた小さな物の怪のように、
温かく柔らかい存在。
彼は思わず彼女の後を追いたくなった。
気配を辿れば分るかもしれない。
だがふと自分の理性が頭をもたげた。
今日は大きな案件を抱えているのだ。
それをどうするか考えなくてはいけない。
築ノ宮は大きなため息をついた。
彼は周りを見て大き目の道を探した。そしてそこに出るとタクシーを呼ぶ。
家に帰ろう。
そして近々彼女に会いに行こう。
あの占い部屋に行けば彼女はいるはずだ。
それを考えると築ノ宮の心が少しだけ暖かくなった。
波留は築ノ宮にさよならと言うと走り出した。
近くの角をすぐ曲がる。
とても失礼な行為かもしれない。
だが彼女はもう我慢が出来なくなったのだ。
最初から魅力的な人だった。
占い師として働き出して日の浅い自分は
仕事が全く上手く行っていなかった。ともかく客が少ない。
元々地味な自分だ。
それもだめなのかもしれない。
占いの力には自信があったが
どんどんと気力が無くなっていたのだ。
そんな時に入って来たのが築ノ宮だ。
一瞬目を疑った。
あのような綺麗な人を見た事が無かったからだ。
だがその人は目の前に座った。
その時自分は酷く緊張しておどおどとしていた気がする。
少しばかり彼が怖かった。
そして占うとキングが4枚、10が4枚出た。
こんな結果は彼女は初めてだった。
彼女の占いは独特だ。
トランプを占う人に触れてもらってからそれを切る。
その間に相手の何かが波留には分かるのだ。
そこから彼女はカードの意味も考えつつ、
インスピレーションで結果を出す。
それを外したことはない。
その築ノ宮にも彼の何かを彼女は感じた。
とても重い物を背負っている感じだった。
だがその本質はまっすぐで清らかだった。
神聖な光が彼を包んでいた。
それは重々しく淀んだなにかに負けない強い光だ。
そんな人も波留は初めて見た。
そんな人が彼女にアドバイスをする。
髪が美しい、可愛らしいと今まで彼女は言われた事が無かった。
そのように言われて相手を意識しない女はいない。
しかもあのような男性に言われては忘れる事は出来ないだろう。
そしてその築ノ宮は再び彼女の前に現れた。
また会えるとは思っていなかった。
その彼が色々と考えた身なりを誉めた。
どうして来たのかと聞くと気になるからと言った。
それは本当の事だろう。
そして食事にも誘われてお好み焼きを食べた。
彼は現金を持っておらず自分が奢った……。
波留はなぜか泣けて来た。
暗い夜道を早足で歩きながらハンカチを出して涙を拭った。
そのうち嗚咽まで出て来てハンカチで口を押えながら家に向かう。
多分あのまま自宅まで彼と来たら
もう二度と彼を忘れられないだろう。
今住んでいる古いワンルームマンションも見られるのが嫌だった。
そして彼女は感じていた。
築ノ宮にとっては自分はただの暇つぶしかもしれないと。
飽きたら捨てられる。
だが自分は絶対に彼を忘れないのだ。
あの紳士的な築ノ宮は乱暴な事はしないだろう。
だがいつの間にかいなくなるのが怖かった。
そうなる前に彼女は築ノ宮を切り捨てたのだ。
波留は一人になってから何度も痛い目に遭った。
父親が死んだ後もそれにつけ込む人が何人も来た。
それ故にこの街に来て自信がある唯一の力の
占いで生計を立てようと思ったのだ。
波留は自分のマンションの前に着く。
他の部屋には電気がついている。
だが自分の部屋だけ真っ暗だった。
彼女は力なく階段を上がった。
安普請のワンルームマンションだ。
周りの音もよく聞こえてしまう。
隣の人は在宅のようだ。シャワーの音が微かに聞こえる。
隣人は顔しか見た事が無い人だが
今日は隣に誰かがいるだけで少し救われた気がした。
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