「なんっっなんだあのクソ親父は!!」


 次の日の朝、早起きして約束の庭に来たセドリックの第一声はそれだった。

 前日よりも早めに来たのに、既にエリスは一人での鍛錬を始めていて、汗を流していた。

 セドリックが来たことに気づき、剣を丁寧に置く。


 ユリアとレオハルトは、今日はいないようだ。

 まだ寝ているのだろう。


「えー、あれがお話していた俺のクソ親父です。……分かってもらえて嬉しいよ」

 

 セドリックのいるほうへと歩きながら、エリスがなんてことないかのように、穏やかに笑いながら言う。

 その様子から、昨晩のあのクソ親父の言葉がエリスにとって、よくある日常的に言われている言葉なのだということが分かる。


 きっと何度も。

 今までに何度も何度も、あんなようなことがあったのだろう。

 慣れてしまうほどに。


「なにが『怪盗エリス』だ。あんなバカげた話を信じる奴なんて、いるわけがないだろう」

「……」


 今度も当然、「そうだ、そうだ」と返事があるものだと予想していたセドリックは、エリスが黙り込んだので、不審に思ってその顔をのぞいた。


「……いやいや。それが結構、皆信じちゃってるんだけどね」

「はあ!? なんでだ? 証拠でもあるのか? まさか本当に盗んでいるわけじゃないんだろう?」


「……逆に君は、なんでそんなに俺のこと信じるのよセディ君……」

「お前はそんなことしない。分かるだろ」

「……」

「おい、どうしたエリス」


 間髪入れずに、なんの疑いもなくエリスを信じると言ったセドリックを、エリスは表情の読めない顔で、しばらくボーっと見つめてきた。

 笑うべきか、泣くべきか、どういう表情をするべきか分からなくて、結果的にただの無表情になってしまったかのようだった。


「……おいおい、どうした」

 セドリックが次にそう声を掛けたのは、エリスが急に下を向いて、しゃがみこんでしまったからだった。

 本当に急に、まるで崩れ落ちるようだった。

 しばらく無表情だったエリスが、突然慌てて下を向いて、まるで何かを隠すように、ストンとしゃがみこんでしまった。


 しかしその顔をずっと覗き込んでいたセドリックには、エリスが下を向く直前、耐えられないというように、くしゃりと無表情が崩れたのが見えていた。


「おい、エリス?」

「……ちょっと待って」


 一体どうしたんだと追い打ちをかけるセドリックに、掠れた小さな声で、エリスが答えた。

 その声の響きを聞いて、セドリックは言われた通り大人しく待つことにしたのだった。





*****





「いやー本当、お前すごいね。俺とは別の世界を生きてきたんだろうね」


 10分近く待ってようやく立ち上がったエリスが、セドリックの座っているテーブルに近づいてきた。

 あまりに沈黙が長すぎて、セドリックは庭の隅に置いてあるテーブルセットに座って待っていたのだ。


「別の世界? なんのことだ」

「……なんでもないです」


 エリスはそう言うと、一瞬いつものヘラリとした顔で笑ったが、セドリックが全く笑わないことを悟ると、すぐにやめた。


「お前、なんであいつらのいう事をヘラヘラ聞いているんだ。なんとかならないのか」

「例えばどうやって?」

「例えば……そうか。騎士になれば、騎士爵が貰えて独立できるのか」

「貴族の子どもが騎士学校に入るのに、親の許可がいるって知っている?」

「…………」


 知っているに決まっている。

 騎士学校に限らず、貴族の子が学園に通うには、親のサインが必要だった。


「エリス、お前が学園を中退して騎士学校に入ると言っていたのは、あれは……」

「学園に入って、3年間ずっと学年10位以内の成績を収めたら、騎士学校に入るサインをしてやる。お前には無理だろうけどなってクソ親父に言われてたんだよなー。バカ正直に信じて3年間頑張って、10位以内クリアして、よくやったサインしてやるって言うから学園を中退したら、やっぱり止めた。家の為に働けってさ」

「そんなことが許されるのか……」


 言ってから、許されてしまうことに気が付く。

 貴族の次男なんていうのは、本人には実質的になんの権力もない。


 きっとケーヴェス子爵は分かっていたのだろう。

 エリスが騎士爵を得て、ケーヴェス家から離れようとしていることに。


「……騎士学校に入らせたくないのなら、なぜ学園を中退させる必要があるんだ」

「跡継ぎである兄貴より、次男である俺がいい成績なのが、気に入らなかったみたいよ」

「……」


 エリスの返答に、セドリックはいちいち黙り込んでしまう。

 あまりに予想外過ぎて。

 セドリックが考えもつかないような理由。

 『別の世界』とはこれのことなのだろうか。


「……見習い騎士から成り上がれば……」

「誰が子爵に恨まれる危険をおかして、見習いにつけてくれるんだ? ……色々と頼み込んでみたけど、ダメだったな」

「それは……そうだろうな」


 この答えはなんとなく予想ができた。

 だけど例え騎士学校に入れなくても、エリスは見習いとして1からやっていける可能性を捨てずに、鍛錬を続けていたのだろう。

 ……もうとっくに騎士になるのを諦めた様子の今でも鍛錬を続けているのは、きっとそれが好きだからなのだろうが。


「じゃあ商人として、独立して商会を……これも無理か」

「商会設立の届け出の時に、親の貴族の許可がいるねぇ。平民だって商会設立時に、身元調査があるくらいだし」

「あとは……跡取り娘と結婚するくらいか。生家の支配から逃れられるのは」


 跡取り娘と結婚して、その家を継げば、爵位を継げる。

縁を切るまではいかなくても、少なくともケーヴェス家の言いなりになる必要はなくなる。


「ま、それが一番望みがあるな。今まで何人か、こんな俺と結婚したいって言ってくれる子がいたけど。あのクソ親父が兄貴の方と結婚しろって言って相手の家に乗り込むから、今のところ全部話は潰れてきた。本人はそれでも俺と結婚するのを諦めないって言ってくれても、その子の家族が止める。当然だね」


 それはそうだろう。

 いくら本人はエリスと結婚したい、父親や兄貴がどんな人かなんて関係ないと言ったところで、やはり家族は止めるだろう。

 本人の幸せのためにも。

そして家のためにも、あんなクソ親父と関りを持ちたくはないはずだ。


 ならば止める家族がいなければどうだろう?

 本人が既に女当主となっているとか……。


「あ、ルガー夫人」

「それな。ルガー子爵家の女当主代理。とある夜会で、ルガー夫人が一人でウロウロしていて、絶好のチャンスだと思って狙ってたら、どこからともなく現れた色男にもっていかれたんだけどな」

「いやあれは……」

「まあいいさ。そんな下心満載で近づいても、ルガー夫人だって困っただろうし」


 軽い調子で言うその言葉は、重い。


 『やってみたけど、だめだった』


 言葉で言うのは一瞬で済む。

 だけど実際にやってみるのに、エリスは一体何年掛けてきたのだろう。

 3年間上位の成績をキープして。

 見習い騎士になれないか、鍛錬をし続けながら色んな人に頼んでみて。

 何人かの恋人との縁談が潰れて。


 何年かけて、何回かけてエリスは、こうやって穏やかに、諦めてきたんだろう。


「さ。それじゃあいい加減に、今朝の鍛錬を始めますか」


 レオを助けてもらったセドリックが、エリスにお礼をすると言った時、なぜエリスは「特にやってもらいたいことはない」と言ったのだろう。

 伯爵家の跡継ぎであるセドリックに、なんとかしてほしいとは思わなかったのだろうか。


 そこまで考えて、セドリックはエリスの為に、自分が何もできないことに気が付いた。

 まだ伯爵でもなんでもないセドリックには。

 ……剣の鍛錬時にカカシとして突っ立っていること以外に、何も。





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