我が竜よ、鉄塔に登れ

藍色あけび

第1話 プロローグ 鉄塔と竜

 暗闇の中、右へ左へと頬を叩く強い風。金属が軋む耳障りな音。仰向けになった顔にパラパラと降ってくる鉄臭い粉。


「おいおい嬢ちゃん、せっかくの体験だろう。目をつぶっていたらもったいないぞ。もっと肩の力を抜いて。そうそう。じゃあ次はそのギュっと閉じたかわいいおめめを、ゆっくり開いてごらん」


 頭上から響く低い声に、薄目を開けて周囲をうかがう。両肩を包むたくましい腕、その手に握られた革の手綱。私はさらに先へと顔を向け、思わず両目を見開いた。


「わぁ……!」


 雲一つない、吸い込まれるような青い空。そこへ糸を垂らしたかのようにまっすぐ続く、赤茶色に染まった鉄の塔。大量の鉄パイプで構成された、コルミア渓谷街のシンボルタワー。

 その塔へしがみつく竜の背に、私は跨っていた。

 普段見上げることしかできなかった錆まみれのオブジェは、私を天空へといざなう一本橋へと様変わりしている。

 これから、塔の先端までは一方通行。後戻りはできない。眼前に広がった未知の領域に、心の中で期待と不安が入り交じる。


「よし、いいぞ、ソリウス。登ってくれ。爬上(はじょう)だ!」

「あっ、えっと! やっぱり……やめる……」


 私のか細い声はびゅうびゅうと騒ぎ立てる風にかき消され、男の耳には届かない。再度私が口を開いた瞬間――ぐらり、と世界が揺れた。

 エメラルドグリーンの鱗がびっしりと生えた竜の前足がヌッと現れ、顔を照らしていた太陽をあっという間に覆い隠す。その大きさと美しさに圧倒され、私は繰り返すはずだった言葉を失った。

 キラキラと光を乱反射させる鱗は、まるで宝石で作られた鎧のよう。

 その前足は蒼穹へ向かって力強く伸ばされた後、勢いよく塔へと振り下ろされる。ゴンッと低く唸るような音が塔全体に響く。反動で竜の背は驚くほど左右に揺れた。

 男の両腕がなければ、私はそれはもうすごい勢いで振り落とされていただろう。


「ささ、嬢ちゃんも危ないから手綱をしっかりと握って。大丈夫、もし手を放してもおじさんがしっかりとこっちで持っていてあげるからな。さぁ行くぞ!」


 男が掛け声を上げれば、竜も合わせていなないた。

 鞍越しに筋肉の隆起をお尻で感じたかと思えば、竜は猛烈な勢いで鉄塔を登り始める。

 頭が、胸が、お腹が、グンと強い力で背中側へ押しつけられた。


「ぐぇ!」

「あっはっはっは、みんな最初はそうなるもんさ。舌を噛まないようにだけ、気を付けていればいい」


 バクバクと小さな心臓が騒ぎたてる。目まぐるしく襲ってくる情報に体が、心が、追いつけない。

 暴風と轟音に全てが押しつぶされそうになったその時。

 私は穏やかで確かなものを一つだけ、見つけた。

 それは、寄せては返す波のような、穏やかな竜の呼吸。息遣いに連動するように、筋肉が動き鱗が波打つ。それはまるで竜の体全体で奏でられる壮大な音楽。

 塔の中腹に差し掛かる頃、いつの間にか私はその心地よいリズムに全身を委ねていた。

 折れて塔から飛び出したパイプを避ける時、歩幅の間隔を広くとらなければ次の足場に届かない時。

 竜の呼吸はまるで「次はこっち、今度はこっち」と、次の動作を教えてくれるようだった。

 私もそれに合わせて右へ左へ体を傾ける。


「おっ! いいぞ嬢ちゃん、とっても上手だ! 嬢ちゃんは竜操の素質があるぞ! やっぱり子供は吸収が早いなぁ……」


 男の声は、もう耳に届いていなかった。


(すごい! すごいすごいすごいすごい!)


 全身で感じられる重力と風、空の広さと浮遊感、そして一体となった竜の圧倒的な力強さに、私は骨の髄まで魅了されていた。

 竜はぐんぐん速度を上げていき、鉄の塔はどんどん先が細くなっていく。揺れもだんだん大きく、激しくなっていった。

 私の興奮は最高潮に達する。


「嬢ちゃん、怖くないのかい? ここまで来ると大人でも音を上げるんだが」

「大丈夫だよ。だって、この子がどうしたいか、わかるもん」


 すっかり竜の背に慣れた私が鼻息荒く答えると、顔を心配気にのぞき込んだ男は苦笑した。


「はは、そんなこと言われちゃあ、操竜士も形無しだな。だが気持ちはわかるぞ。嬢ちゃんはソリウスのことを、心から信頼してくれているんだな」


 私は大きくうなずく。

 話を聞いていたのか、竜は嬉しそうにグルル、と喉元を短く鳴らした。

 自然と笑みが湧いてくる。

 巨大で力強く、姿形も自分とまるで違う存在なのに、言葉がなくても通じ合えているのだ。

 そう、まるで仲の良い友達のように。

 もう幸せのど真ん中だった。私の笑顔はコルミアの街にいる他の誰よりも輝いていただろう。


「さて、到着ーっと」


 塔の先端にある止まり台に竜が到着し、垂直に見上げていた世界が急に水平に戻った。

 私は前につんのめり、足元を覗き込む形になる。飛び込んできた光景に、私の目は大きく見開かれた。


 その時見た景色を、私は一度たりとも忘れたことがない。


 渓谷の崖壁の上には見渡す限りの岩砂漠。谷底には朝食のお粥皿ほどの大きさになってしまったコルミアの街。建物の屋根はその中でぎゅうぎゅうに敷き詰められたお米のよう。


「初めて上った高さだろう? 本当に怖くないかい?」

「うん!」

「よし。じゃああそこに、今登ってきた塔と同じような塔が見えるかな」


 男が指さす先へ目を向ければ鈍く輝く塔がもう一本、はるか遠くにそびえたつ。


「ここからあそこまで、嬢ちゃんは飛んで行くんだ。このソリウスの翼で」


 エメラルドグリーンの竜は無言で大空に翼を広げた。

 空を飛ぶ、と聞いて私は本来の目的を思い出す。

 やっと待ちに待った夢がかなう瞬間が訪れたのだ。あまりの嬉しさに、昂る感情を抑えられない。

 嬉しくて仕方がないのに、ぽろぽろと涙が頬を伝った。


「おいおい嬢ちゃん、あれ、泣いちゃったか。はは、そりゃ怖いよな。俺も初めてここまで来たときはあまりの怖さに下ろしてくれと泣き叫んだものさ。だがここまで来たら飛ぶしかない」


 しみじみと語る男をよそに、竜が首を曲げてこちらへ横顔を向ける。

 透き通る玉のような美しき黄金の瞳は私を見つめ、優しく微笑んでいた。


(……っ!)


 しゃくりあげていた呼吸も止まる、数秒間。

 私の幼い心を完膚なきまで虜にするには、十分すぎる時間だった。


「この子……欲しいっ!」

「えっ⁉ ソリウスを? そ、それは困るなぁ……。ソリウスがいないと、俺は竜運の仕事ができなくなっちまう」


「じゃあ、どうやったらこの子くれる?」


 男は困ったように後ろ頭をポリポリとかき、苦笑いを浮かべる。


「うーん、あげられないなぁ。ソリウスは俺の相棒だからな。でももしも嬢ちゃんが大きくなって、竜運商会で配達をするなら、嬢ちゃんだけの竜が手に入るだろうさ」

「わかった! 私それ、やる! 大きくなったら、また一緒にうわーって塔を登るの!」


 遠い日の記憶の中で、私は竜運商会に入ることを固く心に、誓うのだった。




 

 あれから、七年の月日が過ぎた。



 

 あの日と同じ場所なのに、世界は少しだけ色彩を失っていた。

 それは天気が曇りだから、という理由だけではないと思う。錆びついた鉄塔の頂上を抜ける風に、くすんだ灰色の髪がバサバサとたなびく。

 胸元には手にして間もない銀色のネームタグが鈍く輝いていた。そこにははっきりと【認定操竜士:リオ 所属:コルミア市】と刻印されており、続けて登録番号が並んでいる。


「天候、風速、進路、共によし」


 私は髪を結い上げながら、ちらりと目線を隣へと送る。

 そこには幼き日に私を背負った竜よりも、一回り小さな苔色の竜。ごつごつした鱗に空色の瞳が印象的だ。

 ちょうど私が見たのは、そんな竜が主食である空気にかぶりつき終え、満足そうに喉を鳴らしていたところだった。


「ベル、食事は済んだ?」


 竜は私の声を聞くと、くりくりとした目でこちらを振り返る。食いしん坊な育ちざかりが、ぺろりと鼻先を舐め上げた。

 甘えた声と共にすり寄せて来た背中を、私は愛情いっぱいに撫でてやる。

 共に過ごしてきた記憶の数々が走馬灯のように駆け巡る。


「キュル?」


 ベルが心配気にこちらを見つめてきたので、私は首を横に振り、鼻を鳴らして笑顔を作った。


「あはは……。なんでもないよ、ベル。気のせい、気のせい」


 私は震える肺を無理やり大きく広げて深呼吸し、頬をパチンと叩いて気合を入れる。


「さあ、飛ぼうか! ベル!」

「ガーゥ‼」


 まだ幼竜のベルの咆哮は、成竜が放つ全身を痺れさせるほどの音量には到底及ばない。だが、それすらも私にとっては愛おしい。

 足もとを確かめるようにベルは支柱を掴みなおすと、背中の翼膜を大きく広げる。風向きを確認しているのだ。

 私はベルの背中に跨るとフライトジャケットの前を閉じ、グローブのベルトを締めなおす。ジャケットに取り付けられた高度計や方位磁石を確認し、私は空を見上げた。


(こんな日ぐらい、晴れてくれればよかったのに)


 出発の気配を察したベルが姿勢を低くしたところで、風が凪いだ。

 パシン、と手綱の乾いた音が曇天に響き渡る。

 ベルの後ろ脚が力強く塔を蹴り飛ばし、自由落下が始まった。

 目標地点はかつてソリウスの背に乗って向かった、隣町との間にそびえたつ中継塔。

 ぐんぐんと速度を上げるベルの背で風圧に負けないよう、私は手綱を強く握りしめる。


「まだ、まだ……っ!」


 幼竜のベルはうまく上昇気流をとらえることができないため、最初の加速がすべてのカギを握る。

 十分な加速が得られなければ、飛距離は伸びない。翼を広げるのが早すぎても中継等にたどり着けないし、逆に遅すぎると地面に激突してしまう。そのタイミングの判断は、操竜士の私にしかできない。

 塔の上から見た時にはあれほどまでに小さかった街が、恐ろしい速度で迫って来た。周囲の景色に惑わされないよう、私は気を引き締める。

 風の中、ぞくり、と胸がざわめいた。


「――ここッ!」


 両足でベルの首根っこを蹴れば、示し合わせたかのように広げられる大きな翼。翼幕が風を受けて膨らみ、落下速度を推進力へと変えていく。同時に垂直方向へ圧し掛かる、強烈な重力。

 わずかにタイミングを遅らせてしまっただろうか。十分な高度を確保できず、街の工場区から伸びた高い煙突が、ベルの体をかすめた。


「……くっ‼」


 私は歯を食いしばり、手綱の力を弱めない。ここで少しでも不安や動揺を見せてしまうと、ベルが心配し、速度を緩めてしまうからだ。

 襲い掛かる建物を避けきると、下を向いていた竜の首が徐々に上を向き始めた。


(速度は十分! これなら大地を引き離せる!)


 やがて視界から街にあるすべての屋根たちが消え、曇の灰色一色に塗り替えられる。

 背中をベルの大きな背びれに押し付け額の汗を拭う頃にはもう、私たちは安定飛行状態へと移行していた。

 街の端を超えて、渓谷の間をこのまま進んで行けば中継塔はもうすぐだ。

 安堵が胸中に広がると同時に、こぼれそうになる涙を私は慌てて引っ込め、笑顔を取り戻す。


(配達が終わるまで、笑っているって決めたんだ) 


 そう自分に何度も言い聞かせた。



 操竜士としてのライセンスが発行され、竜運商会の操竜士名簿に私の名前が記載されたのはちょうど半年前。

 こまごまとした配達業務を繰り返し、やっと届いた銀のネームタグに胸を躍らせながら首へ通した同日。


 ――竜運業の休止命令と、渓谷一帯に及ぶ鉄塔解体が市議会にて正式に可決される。


 その日が、私とベルにとっての最後の配達飛行(ラストフライト)となった。

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