そこには音がある

夏伐

怪奇

 大学に進学したいと思っても、俺の家には金がない。

 でも奨学金は名前を変えたただの借金なのは理解している。


 しんどいし、人間関係のあたりはずれはあるらしいが俺は『新聞奨学会制度』を利用することにした。


 全く知らない町だし、地理には自信がなかったが俺にはグーグルマップがある。文明の勝利だ。

 後は俺が睡魔に勝利するだけだ。


 新聞奨学会制度は、奨学会が学費を立て替えてくれる代わりに、新聞配達の給料から奨学金が引かれる。引かれはするものの給料日にはちゃんと金がもらえる。

 最初はキツイが、俺がお世話になってるところでは家賃が無料だ。


 確かに夜遅くまで遊ぶクラスメイトとは、一緒に遊ぶことはできないから交友関係には幅が狭まった。俺には夕刊配達もあったから大学エンジョイなんて夢のまた夢だった。


 数か月もすると、配達担当の地域にもなれてきた。

 早朝の音がひびく静かな町で、大きく息を吸い込むとこの町の空気に馴染んでいくような気がする。


 佐藤は付き合いが悪い。

 そんなことを言われても、俺はやるしかない。


 子供の頃から不況のニュースばかり、進路を聞かれ夢見る幸せは「理解のあるパートナーと出会って子供が生まれたら最高だ」、そんな事を思い浮かべた。

 だが、それは贅沢な夢だ。


「佐藤くん、今度からO団地もしばらく担当してくれるかな?」


 申し訳なさそうに営業所の所長が言った。

 O団地は、いわゆる『いわくつき』だった。


「他の人には断られちゃってさ……」


 俺はその言葉に何も返答することができなかった。

 他に人はいない。でも安請け合いするにはO団地のいわくはヤバすぎる。


 所長は人差し指を立てて笑顔になった。

 まさか給料上乗せか?!


「今度お菓子あげるね」


 そうして俺は『担当配達員がおかしくなって辞める』と噂のO団地の担当になってしまった。

 所長の中で決まってしまったものを、今から「やりたくないです」と言いにいけるほど俺はできるやつじゃない。


 嫌だ嫌だと思いながらも、俺はO団地分の新聞をバイクに載せて走り出した。営業所がかりで、新しい人も探すという話だが、そんな適任がいたら俺にまでお鉢が回ってこないだろうがよ。


 薄暗いO団地はどこからか生臭い香りまで漂ってくる、気がした。うわさでは部屋のポストまで行った配達員が即日狂ったというものまである。即日狂気の暗黒団地だ。


 気のせいだろうか、首筋からゾワリと寒気が全身に伝わった。


 思い出せ! 夢を思い出すんだ、俺!


 俺の夢は『安定的な仕事、理解のあるパートナーと出会って、波一つ乱れのない安心な人生』。

 一番近い道は公務員になることだと思った。


 新しい何かを生み出して、世界がそれを認めてくれる、そんな革新的な発明。

 俺にはそんなものを思いつく頭がない。


 成績でいえば中の下。人付き合いは下の下。


 正月に祖父母からお年玉をもらうのだって、異様にいしゅくして大人たちを困らせた。

 社会に出て、会社でうまくやって立身出世なんかかなうはずがない。だからこれを頑張る。


 新聞をつかみ、団地の入り口にあるポストに突っ込んだ。

 俺は契約者分の新聞を、ポストに入れる。


 ひた、ひた。


 階段から誰かが降りてくる。こんな不気味な団地に住んでいる住民と会いたくない。

 狂ったという人はみな一様に「悲鳴が聞こえる」「声がついてくる」そんな事を言いながら姿を消してしまった。


 ひた、ひた。


 俺の後ろを住民が通った。


「は?」


 ひたひた? 裸足で歩いている?


 目を合わせないように足音から視線を外していたが、先ほどまで階段にいたやつが、急に後ろに?


 とっさに振り向くとそこには誰もいなかった。

 にもかかわらず、足音だけが響いている。ひたひたと音だけが団地を出て行った。


 ☆


 気づくと俺は寝かされていた。

 目を覚ますと、どこからか悪臭が漂ってきていた。何日も風呂に入らなかったり、ゴミ屋敷だったり。

 自分のおかれている状況が分からず飛び跳ねて起きた。


「おや気が付いたかい?」


 人の良さそうなおじいさんが俺を見つめていた。

 家じゅうにゴミがあふれている。季節に合わない家電なんかも出しっぱなしで洗濯物がのせてあった。


「……ここは?」


「入口で気絶してたから、うちで休ませてたんだ」


「ありがとうございます」


 ペコリと頭を下げると、おじいさんが頭をぽんぽんと撫でてくれた。


 ぽんぽん、


「すみません、新聞配達の途中で」


 ――後でお礼に来ます。そう口にしようとしたところでおじいさんが頭を撫でる手は、徐々に頭をつかむ手になっていった。


 ギギギ、頭がきしむ!


「ごめんなさい!ごめんなさい!!」


 何か怒らせてしまったのかもしれない、机に顔が押し付けられた。

 あまりの痛みにおじいさんの手をつかんで、振り払おうとする。だが、力がゆるむことさえなかった。


 あのおじいさんの姿から、こんなに力があるとは思えない。


 何かおかしい。何かがおかしい!

 そうだ、ここはO団地だ! あのO団地。じゃあこれは俺が『狂った』ということじゃないか?

 夢だ。覚めろ!覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ。


「狂ったなんてひどいな」


 口に出してないはずの言葉に、おじいさんはがっかりしたようにため息をついた。


「この手を離したら、君は帰ってしまうだろう?」


 ギリ、と頭をつかむ手が強まる。

 もうダメだ。なんでこんなことになったんだ。


「早朝に新聞が投函される音がなくなっただけで妻はとても寂しがってしまってね」


「し、知らねぇよ……!」


 俺の言葉に一瞬だが力が緩んだ。

 その瞬間に手を払いのけて、俺は玄関に向かって走り抜けた。家賃が安くて間取りがすぐに把握できるボロ団地。玄関を開けると、そこには何かがいて、


「キャアアアアアアアアアアア―――」


 ひどい耳鳴りがした。

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