第42話 続!潔癖症さよなら大作戦!

「何を言い出すかと思えば、やっぱりか……」

 澪が腰に手を当て、大きく胸を張る時、もはやそれが「潔癖症さよなら大作戦」を開始する合図になっていた。

「最近ご無沙汰だったでしょ?」

「まぁ、そうだな」

 GWが明けたあと、一学期中間試験や三者面談、球技大会準備と、なかなか「潔癖症」に向き合う時間が取れていなかった。

 俺の「潔癖症」は、小学生の頃に同じクラスだった秋月 穂乃あきづき ほのという女子の言葉による、精神的要因が強かった。

 当時好意を寄せていた秋月に、「汚い」「触らないで」と言われたことから、俺は自分が汚い人間だと思い込み、自分を過度に除菌する「潔癖症」を発症した。

 澪の提案により、何か物を触ってすぐに除菌する、といった行為はほとんどやめることができるようになったものの、人に触れることにおいては、まだまだ克服するには時間が掛かりそうであった。

 秋月に「触らないで」と言われたのが、幼少の頃の俺の精神に相当なダメージを与えたようだ。

 澪の指先に少し触れたことはあるが、それ以降は特に進展もなく、今の今まで来てしまったというわけだった。

「こういうのはやっぱり、勢いが大事だと思うの!前回の項目もちゃんと上手くいったし、今回もきっと大丈夫だよ!」

 澪の力強い言葉に、俺は頬が緩むのを感じた。

 澪はいつもこうなのだ。

 きっと俺が不安に思っていたり、過去を思い出していたりするのではないかと気に掛けてくれていて、いつも明るく俺を勇気付ける言葉をくれるのだ。

 俺よりも小さな身体のどこにそんなパワーと優しさを秘めているのだろうと、澪にはいつも感謝しきりだ。

 いつか皐月が言っていた、『澪ちんは涼のことすげー大事に想ってるからさ』という言葉をふと思い出した。

 そんなこと俺だってよく分かっている。

 俺だってものすごく澪が大事だ。

 だからこそこの関係を大事にしたいし、けれどいつまでもこのままでいたくないという二律背反の男心に揺れているのだ。

「澪、いつもありがとうな…」

 自然と零れた感謝の言葉に、澪は戸惑ったような照れたような顔で笑う。

「ちょ、急になに?」

「いや、いつも本当に感謝の念が尽きないなーと思って、伝えた次第」

「さ、左様ですか…。えへへ、面と向かってお礼言われるのってなんか照れくさいね?」

 澪のくるくる変わる表情も魅力の一つだと思う。

「かわ………」

 可愛いな、とそのまま気持ちがだだ漏れそうになって、俺は慌てて口を閉ざした。

「川?」

 澪が不思議そうに首を傾げる。

「あーいや…、かわ、川、の魚って種類多いよな…?」

 俺の訳の分からない誤魔化しように、澪は更に首を捻る。

「なに?もしかしてアニ森の話してる?川魚なら私図鑑コンプリートしてるから、魚の生息時期いつでも教えるよ?」

「ああ、うん…ありがとう…」

 澪の好きなどうぶつとのんびり過ごすゲーム、アニマルの森と勘違いしてくれたようで、なんとか誤魔化すことに成功した…のか?、いやあまりにお粗末だが。

 危なっ……澪といると気が緩み過ぎて、危く本人に可愛いと言ってしまうところだった。

 さすがに付き合ってもいない男から急に「可愛い」なんて言われたら戸惑うよな。危ない危ない。

「で、なんの話だっけ?」

 慌てて話を戻そうにも、焦ったせいで何を話していたのかすっかり忘れてしまった俺に対して、澪はもう一度宣言する。

「「潔癖症さよなら大作戦 上級編」をやっていくよ!」

 そういえば以前そんなような追加リストを作ってくれていたような気がする。

「今、項目リスト送るね」

 澪がささっとスマホを操作すると、俺のズボンに入れていたスマホがブブっと振動した。

 メッセージアプリの通知だ。その相手はもちろん澪だった。



 『潔癖症さよなら大作戦 上級編』


・指先に触れる →成功済み

・手袋の上から手を繋ぐ

・タイツ越しに太ももに触れる

・手を直に握る

・間接キスをする

・キスをする

・身体に触れる

・〇〇〇をする



 そうだそうだ、こんな内容だった。

 澪から送られてきたメッセージの内容を読みながら、以前このあまりに過激すぎるチャレンジ内容を本当に実行するのかと、耳を疑ったものだ。

「これ、本当にやるつもりなのか…?」

 上の五項目くらいなら澪は協力してくれそうに思うが、残りはさすがに無理だろう。

 「キスをする」も「身体に触れる」も恋人以上でないとできない項目だ。

 そもそも一番下はなんだ?何故伏字???

「出来るところまでやってみよ!………その先はもしかしたら、私じゃないのかもしれないけど……」

「え?」

 澪にしては後半の言葉が聞き取りづらく、何を言っているのかよく分からなかった。

「ううん!なんでもない!涼の「潔癖症」が少しでも治って、少しでも楽に生活できた方がいいでしょ?幼なじみとして、澪ちゃん頑張っちゃうんだから!」

「お、おう?」

 幼なじみにしては身体を張りすぎなようにも思うが、これは俺にとってもチャンスである。

 少しでも澪にかっこいいところを見せて、幼なじみではなく男として意識してもらう。

 それが今の俺にできる精一杯のことだ。

「涼、心の準備はいい?」

 澪がにっと笑って、俺の目を見つめる。

 俺もそれに答えるように澪の目を真っ直ぐに見つめた。

「ああ、どんとこいだ」

 「手袋の上から手を繋ぐ」、くらいなら、なんとか頑張れば達成できそうなものだ。

 手袋は案外もこもことしているし、そこまでお互いの肌の感覚はないように思う。徐々に人に触れることを慣れさせるには、ちょうどよいのではないかと思われた。

 俺の言葉に大きく頷いた澪は自分の鞄の中から何かをごそごそと取り出した。

「この手袋を使います!」

「え…」

 澪が鞄から出してきたのは、俺の想像していた冬のもこもの手袋ではなく、真っ黒で薄手のストッキングのような生地の手袋だった。

「それ…、何の手袋だ?というか、手袋で合ってるんだよな?」

 見たことのない手袋に度肝を抜かれながら、俺は澪に尋ねる。

「もちろん!これも手袋だよ~。日よけとか、コスプレとかに使ったりする手袋なんだって。冬のもこもこの手袋じゃ、全然人の手って感覚分からないでしょ?だからこれを選んでみたの」

 澪は早速その薄手の手袋を着用すると、顔の前で手を広げて見せる。

 ストッキングのようにかなり薄手の生地のせいか、手袋をしても澪の細い白い指がはっきりと分かる。

 俺は自分の喉がごくりと鳴るのを感じた。

 これは思っていたよりもかなりハードルが高いんじゃないか?

 もこもこの手袋なら余裕だと高を括っていた自分が恥ずかしくなる。

 澪がそんな簡単な克服項目を作るはずがないじゃないか。一応上級編なわけだしな…。

 俺が予想外の手袋の登場に固まっていると、澪がにやりと笑った。

「あれあれ?涼くんどうかした?もしかして、もこもこの手袋の上から手を繋ぐものだと思ってた?」

「ぐっ……」

「それじゃあ簡単に出来ちゃうもんね?」

 澪は俺の反応を予想していたかのように上機嫌に笑う。

 くっ……俺の反応までも織り込み済みか…。

 澪はにこにこしながら俺に手を差し出した。

「はい、じゃあ、手、繋ご?」

 黒の薄手の手袋を付けた澪の手が、すっと俺の前へと差し出される。

 直接触れるわけではないというのに、すぐにその手を握ることは出来なかった。

 人に触れる、という行為は、なかなか勇気のいるものだ。

 拒絶されるかもしれない。

 汚いと思われるかもしれない。

 俺の心に根付いてしまった、その深い傷が澪の手を握ることを躊躇う。

 けれど澪は、そんな躊躇い続ける俺を見ても、急かしたり強引に手を握ってくるようなことはせず、ただただ静かに手を伸ばしている。

 俺はいつもこうだ。

 結局澪にリードされてばかりだ。

 前回は特にそうだった。

 「潔癖症さよなら大作戦」の初級も、澪が俺を引っ張っていってくれたからこそ、達成できたようなものだ。

 今回の上級編は、さすがに俺もいいところを見せなくてはならない。

「涼」

 澪の呼び掛けに視線を澪に移すと、澪は慈愛に満ちたような笑みを浮かべる。

 本当、聖母か何かなのではないかと思うよ、お前は。

 俺は意を決して、手袋をした澪の手をゆっくりと握った。

 その瞬間、澪の手の熱がはっきりと伝わってきて、俺の全身を流れる血が急に活発に動き出したような気がした。

 な、な、なんだこれは!?!?

 こんなの、直に肌を触っているのと同じじゃないか!?!?

 手袋と言うので、見た目は薄手だがそれなりに布の分厚さがあるのだ思っていた。

 しかし、実際は違った。

 ストッキングのように薄そうだとは思っていたが、まさにその通りで、直に手を握っているのと遜色ないほどに澪の体温も、澪の手の柔らかさも鋭敏に伝わってくる。

 これは直に澪の手を触っているのと何が違うというのか…っ!

 澪は、…どう思っているんだ…?

 俺がその手袋と澪の手に衝撃を受けているとき、なんと澪もまた俺と同じように戸惑ったような予想外とでも言うかのような、とにかく忙しなく目をきょろきょろと彷徨わせていた。

「え…み、澪?」

「ふぇっ!?な、なに!?」

「え、いや、なにって……」

 澪も……緊張している、のか……?

いつも余裕ありそうにからかってくる澪が、自分で提案したことにも関わらず戸惑っているようすは、実に珍しいことだった。澪もこの手袋の薄さは予想外だったのかもしれない。

 握り合った手から、お互いの温もりが伝わってくる。

 ドキドキと忙しなく流れる脈が澪にバレてしまうのではないかと、冷や冷やする。

 ああ、でも……。

 他人と手を繋いだのはいつぶりだろうか。

 幼い頃はきっと、両親と手を繋いでいたのだろうが、はっきりとした記憶は残っていない。

 人と手を繋ぐって、こんなにも温かくて、優しい気持ちになれるんだな…。

 初めて握った好きな子の手は、温かくて優しくて柔らかくて、ずっと触っていたいと思った。

 俺は無意識のうちに、握手のように握り合っていた澪の手に、指と指を絡めて、ぎゅっと握っていた。

 ああ、好きだな、澪のこと……。

 そんなことしか考えられなくなってきていた俺に、澪の弱々しい声が耳に届く。

「……涼、…手、離して……?」

 その言葉に、はっとした俺は、慌てて澪の手を離した。

「わ!悪いっ!!」

 澪は俺に触られていた手をさっと自分の胸元に持ってくると、ぎゅっともう片方の手で握りしめた。

 まずい……、何してるんだ俺は!

「み、澪!悪いっ!」

 俺の全力の謝罪に、澪も慌てたように首を振った。

「う、ううん!!私は大丈夫!涼が大丈夫なら、いいの!」

「俺は、平気、だけど…」

「な、なら良かった!!これは大成功だね!りょ、涼!上級編なのにやるじゃん!」

「え、ああ、うん…」

 あんなに他人に触れることを恐れていた俺は、澪の手にすんなり触れることが出来て、それどころか俺はきっと、もっと澪に触れていたいとさえ思っていた。

 それはもう、俺の中でほとんど答えが出ていることだった。

 澪はきっとこの先も「潔癖症さよなら大作戦 上級編」を手伝ってくれるつもりなのだろう。


 しかし、俺はどの項目も達成できると確信してしまった。


 だって、それは。

 目の前で顔を真っ赤にして照れたように笑う幼なじみに目を向ける。

 いつかに衝動的に感じたものとは違う。

 潔癖症の俺が、他人に触れることの出来ない俺が、澪にだけは触れたいと、強く思ってしまった。

 それは澪が好きで、好きな人に触れたいと思う本能的なものかもしれない。

 それと同時に、俺にはまた新たな悩みが出来てしまった。



 俺はこのまま、澪の好意に漬け込んで、彼女に触れていくのだろうか、と。



・手袋の上から手を繋ぐ → 成功


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る