第9話 ペンの貸し借り

 金曜日の放課後。

 俺はこの響きが好きだ。一週間が終わって、土日が明日に控えているわくわく感がある。

 今週はなんだかやたらと長かった。色んなことがあって、濃密な一週間だった。

 しかしせっかくの金曜日の放課後だと言うのに、今週はまだまだ終わらない。

なぜなら。

「ここの席借りちゃおーっと」

 そう言った澪は、俺の前の席に腰を下ろす。皐月もよく勝手に座っている、加藤ちゃんの席だ。いつもすまないな加藤ちゃん。

 自分のスクール鞄を加藤ちゃんの机に置いた澪は、俺へと向き合う。

「さて、涼くん。はじめようか!」

 にんまりと不敵な笑顔を浮かべた澪と共に、「潔癖症さよなら大作戦」、その一日目が始まった。始まってしまった…。

 澪はスマホを取り出し、「潔癖症さよなら大作戦」の一番上の項目を読み上げる。

「今日は、ペンの貸し借り、をやってみよう!」

 俺は心持ち姿勢を正して、ごくりと唾を飲み込んだ。

 俺の変な緊張が伝わってしまったのか、澪はからからと笑う。

「あはは、涼ってば緊張しすぎじゃない?リラックスリラックス~」

「分かってるし全然緊張なんてしてない」

「ほんとかなぁ~」と笑う澪はいつも通りで、少し緊張していた自分が馬鹿らしくなる。あ、いや緊張なんてしていないんだった。

 体裁を整えるように、俺は話題を変える。

「そういや澪、部活はいいのか?」

「え?部活?」

「部活入ってただろ、何部だったか…料理部…みたいな」

 そううろ覚えで発言すると、「ああ、お菓子部ね!」と澪が言う。

「お菓子部は別に毎日活動があるわけじゃないからねぇ。週に二回くらいかな。一回目に次何作るー?って相談して、二回目にその決めたお菓子の材料持ち寄って作る感じ」

「ふーん」

 澪に料理や、ましてやお菓子作りなんて繊細なものができるのだろうか。幼い頃から彼女を知っているが、料理のできるイメージは全くない。部活でちゃんとやっていけているのだろうか。

 そう訝しんでいたことを、澪は見透かしたように頬を膨らませて心外だと怒って見せる。

「あー、涼!私にお菓子なんて作れるのかー?とか、失礼なこと考えたでしょ!」

 ずばりその通りなので、俺は素直に頷く。

「うん」

「うん、じゃないよもうっ!こう見えても、私、料理めちゃくちゃ上手なんだからねっ」

「そうなのか?」

「そうだよ!家でご飯作ったりもするし、バレンタインにお菓子だって作ってるし!」

「…そうか」

 俺と澪は幼なじみだからか、有難いことに澪は毎年俺にバレンタインチョコをくれる。

 しかしそのチョコはいつも市販の、綺麗な箱に入ったチョコレートだった。

 てっきり澪は何も作れないから市販のチョコを買っているのだと思っていたのだが、そうか、と今更ながらに気が付く。

 俺が「潔癖症」で、他人の作った物は嫌がると思って、手作りを渡してこなかったのだ。

 他人を汚いと思っているわけでは決してないが、確かに他人の手作りには少し抵抗があるかもしれない…。それを澪は気遣ってくれていたのだ。

「…いつかは涼にも、私の手作りお菓子、食べてもらえたら嬉しいな」

 澪はそう言って笑った。俺は無言でこくりと頷いた。

「では、気を取り直して!」

「始めるとするか…」

 本題に戻り、俺達は「潔癖症さよなら大作戦」に取り組むことにする。

「前にも話したけど、涼は汚いと言われたことが原因で、過剰に除菌するようになっちゃったからね。まずは少しずつ除菌に頼らない心を作っていきます!」

 澪は掛けてもいない眼鏡をくいっと上げる動作をする。カウンセラーかなんかのつもりなのだろうか。

「ではまずは、こちらをしっかり脳に言い聞かせてください」

 澪は例のスローガンを掲げる。

「一、 自分は汚くない!はい、涼も復唱して!」

「はいはい」

 俺は適当に返事をして、脳にゆっくりと言い聞かせる。

「一、 自分は汚くない」

「二、 他人は自分を汚いと、‘‘思っていない“、はい!」

「他人は自分を汚いと、‘‘思っていない“」

「ん!おっけ!」

 澪がばっちり!と指で丸を作る。それから自分の鞄からペンケースを取り出した。その中からさらにピンクの可愛らしいシャープペンシルを取り出す。

 そのシャーペンが、俺の前へと差し出される。

「涼、触れる?」

 俺は目の前のシャーペンを凝視する。先程のスローガンをもう一度脳内で繰り返す。

 鼓動が少しずつ早くなり、息苦しさを感じる。

 大丈夫、大丈夫。俺は汚くない、澪も俺を汚いとは思っていない。大丈夫。

 そうゆっくり呼吸を繰り返しながら自分に言い聞かせる。

 大丈夫、大丈夫。

 自分の指が、そっと澪のシャーペンに触れた。それをゆっくりと受け取る。

「できた…」

「すごいよ!涼!」

 なんだ簡単じゃないか。そう、ほっと安堵した時だった。

 夕陽が眩しく教室内を照らし出して、室内がオレンジ色に染まる。その瞬間、あの日あの時の、小学校の教室での光景がフラッシュバックした。


「藤沢くん、なんか汚いんだよね。不潔そうって言うか、全然綺麗にしてないでしょ?私、そういう人は無理かも」

「触らないで!」


 あの時の、小学生の時の彼女が、俺にまたそう言った。

「………っ!!」

 俺は居ても立っても居られず、シャーペンを机の上に放り出すと、ポケットに入れていた手指の除菌ボトルの蓋を開けた。

 いつもみたいに手指を除菌して、ボトルをカチッと閉めた音で、はっと我に返る。

 澪は俺の様子を、少し寂しそうに見ていた。俺は慌てて口を開く。

「澪、ごめん!そうじゃないんだ、俺は、俺はただ…、」

 そう考えもまとまらず喚き散らす俺を、澪は優しく微笑んで頷いた。

「涼、分かってるよ。だから、少し深呼吸しよ!」

 俺は言われるがまま、深呼吸を繰り返した。

「ごめん…」

「謝ることなんてなにもないよ!最初から上手くいくとは思ってないし!」

「そうだけど…」

「それよりも!どういう心の動きがあったのか、精神的な分析をした方がいいかも!」

 そういつものように明るく振る舞う澪。彼女のことも傷つけてしまったのではないかと不安に思いながらも、一生懸命に協力してくれている澪の指示に従う。

「あ、えっとだな…」

 自分がどう感じたのか。丁寧に思い出しながら、澪に伝える。

「澪のペンを触っても、特に嫌悪感もなかったし、澪が嫌がっていないもの分かってたんだ。ただ、」

 夕陽が差し込んだ時、小学生の彼女の姿が脳内にちらついてしまった。

「急に小学生の時のことを思い出して、落ち着かなくなって、除菌せずにはいられなかった…」

 除菌をすると心が落ち着く。そう脳が思い込んでしまっているのだ。

 話し終えると、澪は「そっかぁ」と神妙な顔つきで頷いた。

「涼は過去のトラウマが根強いからねぇ」

 腕を組んで何かを考え込んでいた澪は、俺の顔を覗き込んでくる。

「どうする?今日はもうやめておく?」

「え、」

「こういうのは、無理に進めても精神的負担が大きいと思うから」

「いや、続けてくれ」

 何故だか俺は、反射的にそう答えていた。

「ほんとにいいの?」

 澪が心配そうに小首を傾げながら訊いてくる。

「ああ」

 せっかく歩み出した大きな一歩なのだ。ここでやめるわけにはいかない。

 それに。

 ちらりと澪を見やると、「分かった!」とにこりと微笑む。

 幼なじみの女子にかっこ悪いところばかり見せるわけにはいかない。

 わざわざ俺の「潔癖症」の克服のために、協力してもらっているのだ。今更、澪の中に幻滅するようなかっこいい俺はいないと思うが、それでももうひと踏ん張りしてあがいてみたい。一回できなかっただけで、俺は俺を諦めたくない。

 人に触れるとは、どんな気持ちになるものなのだろうか。

 俺は、それに興味を持ってしまった。誰しも当たり前にじゃれ合ったり、手を繋いだりして触れる体温を、俺も感じてみたい。いや、決して、下心などそんな、そんな……。

 とにかく!もう一度チャレンジしてみようじゃないか。ここで引き下がっては男が廃る。

「じゃ、いつものスローガンを念頭において、ゆっくりやってみよう!」

「ああ」

 俺は先程と同じように、深く呼吸をして、澪の差し出すシャーペンに手を伸ばす。

「涼、大丈夫だよ。涼は汚くなんてないし、私は涼のこと、綺麗だと思ってるよ」

 澪の優しい声音に、なんだか心が落ち着いていくような気がした。

 静かな教室内に、いつもより少し忙しなく動く自分の鼓動だけがよく聞こえる。

 ピンクのシャーペンに少しずつ触れて、それを受け取る。

 自分の手に握られている澪のシャーペンを意識して見つめる。

 嫌悪感はなく、早く除菌したいという、さっきのような衝動は不思議と起こらなかった。

「涼、自分のシャーペン出せる?」

「え、ああ」

 俺は言われるがまま、自分のペンケースから青のシャーペンを取り出す。

「触ってもいい?」

 澪の言葉に、俺はこくんと頷く。

 澪は俺からシャーペンを受け取り、そしてその澪の触った青のシャーペンを、俺はそのまま受け取った。

 あれほど人に自分の物を触れられると、精神が乱れていたと言うのに、今は驚くほどに心が凪いでいた。

 早く除菌して落ち着きたいといつも思っていたのに、今は何も思わない。

 澪に触れられたシャーペンのことなんて、なんとも思わなかった。

 澪は俺が触ったピンクのシャーペンを再び受け取る。お互いのシャーペンを触り合って、それは持ち主へと戻った。

 その場で少し待ってみても、除菌しなくちゃ、という衝動は襲ってこなかった。

「大丈夫だったね」

 そう言って、見たこともないくらいに澪は綺麗に笑った。

 嫌いだった夕焼けのオレンジに、彼女の顔が赤く染まる。

 澪はピンクのシャーペンを大事そうに握って、俺に笑いかける。

「ね?涼は汚くなんかないでしょ?」




・ペンの貸し借り → 大成功!!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る