己を超えろ
2036年にフルダイブ技術が実現され、それから徐々に現実世界で行われていたことが仮想世界に移されていった。スポーツもその一つであり、2048年には全てのスポーツが仮想世界で行われるようになった。
スポーツが移された理由はスポーツ障害によるドクターストップを予防し、選手に快適なスポーツを行えるようにするためだった。ただし、フルダイブ技術によるアバターの作成は本人の身体分析で行われるため、筋力アップなどの基礎トレーニングは現実世界、技術トレーニングは仮想世界でそれぞれ行う必要があった。
そうして仮想世界で行われるようになったスポーツは、仮想世界になったことによる恩地を受け、仮想世界ならではの新要素を全てのスポーツに取り入れることとなった。
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2072年のオリンピックは熱気に包まれていた。特にテニス男子シングルス決勝はそれが顕著に見られた。
東條 充(とうじょう みつる)はラケットを握り締めながら、地面とするキャッチボールに神経を研ぎ澄ませていた。額から流れる汗は返ってくることなくコートを濡らす。現実世界を体現するために備えられたアバターの発汗機能によるものだ。ただ、仮想世界の気温は25℃と適温であるため、快適にテニスを行うことができている。
地面とのキャッチボールを終えると、充は向こう側のコートにいる人物に顔を向けた。
セット数1ー1、ゲーム数6ー6、タイブレーク8ー8の試合終盤。どちらかが2ポイント先取した時点で勝利となる。
ボールを天へと投げる。日の光で視界が眩むが、日頃の練習で植え付けられた体感の前では些細な問題にすぎない。スイートスポットに当たったボールは猛スピードで相手コート手前の右端を捕らえる。
相手はバックハンドで充のいる場所とは真反対の方向に打ち返す。充は難なくボールの横に立つと強いバックハンドでお返しするように相手のいる方向と真反対の位置に打ち返す。サーブの時点からこうなることを予想していたのだ。
正確なコントロールでダブルスとシングルスを隔てるラインを打ち付ける。相手は必死に足を走らせ、ラケットの先をうまくボールに当てる。不安定ではあるもののボールはネット際にイン。しかし、これもまた読み切っていた充はネット際に落ちたボールをすくい上げ、相手の走っていった方角とは逆の位置にうまく落とした。
「9ー8!」
「「……「「うぁーーーーーー!!!!」」……」」
会場にいる人たちの感情が爆発する。ここにいる全ての観客は自分を応援してくれているに違いないと充は思った。
相手はポイントを取られて悔しがることもなければ、観客の声援すらも気にすることなく自分のサーブの位置へと歩いていく。試合は長時間続いているが、充は今も目の前にいる相手の存在を見慣れずにいた。
短髪に白色のヘッドバンドをつけた好青年。まだ若いからかきめ細やかな肌をしており、髭はほとんど見られなかった。彼と比べると今の自分はすっかり老けてしまったと思う。
テニス男子シングルス決勝戦。東條 充 VS 東條 充。
スポーツが仮想世界に移されたことで加わった新要素『FCA(Fight Champion avatar)』。前回の大会のチャンピオンを模したアバターがトーナメントに加わるといったものだ。
仮想世界では常時、全アバターの行動が学習データとして蓄積されている。そのため、その時のチャンピオンの身体情報と行動情報を掛け合わせ、チャンピオンアバターとして構築することを可能としたのだ。
新要素によって『自分 VS 相手』が基本であったスポーツは、『自分 VS 自分』という新たな構図を実現することに成功した。それにより、全盛期の自分を今の自分が超える瞬間に立ち会える可能性があるということで、観客に大きな満足感を与えることができるようになった。しかし、未だに全盛期の自分を超えるものは現れていない。
充が今戦っている相手は全盛期24歳の自分であり、オリンピックを二度優勝してきた逸材だ。もはや誰も倒せるはずがないと思われたスーパースター。だからこそ、充がマッチポイントとなったこの瞬間に、会場の誰もが興奮を抑えきれなかったのだ。
多くの大人たちが今の充に感動していることだろう。もしかすると、全盛期を過ぎてもなお色褪せない今の充こそが彼らにとってのスーパースターかもしれない。
だが、まだ試合に勝ったわけではない。本当の盛り上がりはここからだ。
充はレシーブの位置に移動する。
歩く最中、身体の疲労・手足の痛みを強く感じていた。
仕方がない。現在32歳の充は老化の道を辿っている。24歳の自分とでは体力も筋力も劣性だ。唯一優れている点はボールのコントロール。それだけはこの4年間、死に物狂いで鍛え上げてきた。
痛みや疲労は仮想世界から抜け出せば消える。だがそのためには、この試合を終わらせなければならない。
次のポイントが勝負の分かれ目となるだろう。ここでポイントを取れば充の勝ち。取れなければ相手の勝ち。
レシーブの位置に立ち、相手のサーブを待ち構える。相手は先ほどの自分と同じように地面とキャッチボールをしている。地面に当たったボールのリズムがトリガーとなり、思考と集中力を研ぎ澄ましてくれる。何年経っても変わることはないほどこの音は自分にとってのスイッチになっていた。
ボールを地面に叩く動作を終えると、相手は充に顔を向ける。充はグリップをしっかりと握りしめ、相手の動きを注視した。
これまでのタイブレークは、全て自分のサーブのみでしか得点できていない。勝つためには一度でいいから相手サーブからのゲームに勝つ必要がある。
下に向けていた手が上を向く。充が体感で覚えているリズムに合わせて相手はボールを天に上げ、サーブを打った。枠左側を打ち付けるサーブはコートの外側へと伸びていく。
充はサーブを相手に返すと真ん中へと素早く走る。どの位置に打たれても、できる限り最短距離で対応できるようにするためだ。
相手はフォア側に来たボールをバックサイドギリギリに返していく。充はそれを再び相手側に返していく。下手にフォアハンドに返して相手を揺さぶると、かえって自分まで揺さぶってしまう可能性がある。バランスが取れない間は相手のいる場所に打つことで、試合の動きをできる限り小さくすることにした。
相手はそれからもうまく揺さぶってくる。だが、いずれもバックハンドのため手に掛かる負担は少なくて済んだ。
ただ、このままでは体力を徐々に奪われるだけだ。それは充にとって致命的なこと。どこかで勝負に出なければいけない。
そう思っていたのも束の間、相手が不意にフォアサイドへと切り替えて、ボールを強打する。それだけならまだしも、急に切り替えたためか、ボールはネットの上を直撃した。
充は反射的に体を前に走らせる。不意の動作で足の筋力を酷使したためか激痛が走る。しかし、それに構うことなく走る。ボールの勢いはネットに当たったことで急激に弱まっていた。おそらくバウンドはかなり小さくなるに違いない。
走るだけでは間に合わない。充は足を踏み込み、体を前のめりにしてボールを追った。
全てのモーションがスローになる。
ボールを追う最中、充は相手がこちら側へと寄ってこようとしているのが視界に入った。
相手も予測していなかった事態が起きたのだ。今この状況でボールに触れ、コートギリギリに落としたとしたら、取れないと思って動き出したのだろう。
このまま普通にネット際に返したとしても、相手に追いつかれてポイントを取られるのが見えている。それならば勝つ方法は一つしかない。
充はボールが落ちる極限まで粘り、相手が自分の方へと駆けてくるのを待った。
極限まで粘ったところでラケットを盛大に上にあげ、ボールを上へと引き上げる。ボールはロブしたように宙を舞っていった。あの体勢での力加減を充は全く把握していない。弱いロブではそのまま下がってスマッシュを打たれる可能性があるため、できる限りコートギリギリでボールが落ちるように調整した。
一か八かのかけ。コートに倒れ込みながらも充は宙を舞うボールの行方を追う。ボールは相手の頭上を通っていく。ボールの高さから取れないと思ったのか、相手は早急に方向を変え、後ろへと走っていく。
宙を舞うボールは相手の先を飛んでいく。光に照らされるボールを充は一秒たりとも見逃しはしなかった。
やがて重力に引っ張られるように下へと落ちてくるボール。充から見えるそれは白線のあるところへと落ちようとしていた。
アウトなのかセーフなのか、コートに倒れ込んだ充には判別ができない。だから『インであること』を祈るしかなかった。
ボールが落ちる。相手はボールを追いかけるのを諦めるように足を止めた。
審判のコールが告げられる。充はコールの内容に瞳孔を開く。
会場には観客の大きな声が響き渡った。
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