Ep4_桃花の思い出


***


 そんな桃花にとって恥ずかしい過去は、秋の半ばにうまれたものだった。


 保健室の窓の隙間から吹き込む風が夏の名残を部屋の隅に追いやって、桃花の心にまで冷たい何かを注ぎ込む時期だ。

 木枯らしがびゅうびゅうと胸の内に吹き荒ぶと、自分の中身が空っぽなんだと無理やり暴かれている気分になるので、桃花はこの季節が苦手だった。


 それに加えて、ある感情がここのところ桃花を悩ませていた。空っぽな自分の中で風に弄ばれている、うてなに対する感情だ。


 春のきっかけから坂を転がるように、彼女に対する気持ちは膨れ上がっていた。そして保健室の窓から見える葉が色づく季節にもなると、随分と形を変えていたのだ。

 意識を向けずに済んだ頃は、綿菓子のように甘くてふわふわとした何かだったと思う。


 だというのに、今ではどうだ。


 それにはうてなが桃花へ与えてくれるような優しさなんてどこにもなかった。寧ろ桃花を容赦なく傷つける尖った形となっている。


 いくら他人の顔から機嫌を読み取ることに長けていても、自分の感情までも読み取れるとは限らない。ただなんとなく、これをはっきりとさせてしまうと、危うい均衡で保っていた二人の関係が変わってしまう確信だけはあった。

 その謎めいた確信のせいだろうか。不明の感情をはっきりとさせたいはずなのに、ピントをずらしているようにいつも輪郭がぼやけていた。

 そして今日も分からなかったと痛みを感じながら、同時にどこか変わらない日々に安堵していたのだ。


 だからこの日も、心のどこかで変わらない日々の一つだと慢心していたのだろう。


 いつも通り不健康な桃花は、登校できたもののクラスの自席にたどり着くよりも先に保健室へ運び込まれていた。

 保健室の主人である窕木うてなも慣れたもので、扉を開けた音に一瞬だけ顔を挙げたものの、相手が桃花だと分かるとおざなりにベッドへ案内する。案内というよりも、手をひらひらと動かして勝手に休めとジェスチャーをするだけで、すぐに元の作業に戻っていった。

 ベッドまで運んでくれた悪友たちに感謝してから、緊張の糸が切れた桃花は倒れこんだ。まだ朝一番で誰にも使われていなかったからか、シーツはひんやりとしていた。火照った頬をこすってその感触を味わいながら、小さく息をついた。

 この頃のうてなは、桃花に対する扱いが正しい意味で適当になっている。

 以前の自分なら、他人へ余計な負担を与えずに済むと胸をなでおろしていただろう。必要以上に構われても、会話するだけで体力が減ってしまう桃花には逆効果だ。そしてうてなは放置しているものの、こちらの様子をさりげなく観察しているから症状が悪化するとすぐに駆けつけてくれる。


(私は、構ってほしいわけじゃない。彼女に無視されているわけでもない。それなのに、どうして)


 どうしてか、うてなにそうした態度を取られることに、桃花はどうにも不満に感じてしまうのだ。

 互いに必要以上の労力をかけない今の状態は最善手で、喜ばしいはずなのに、桃花の心の内の渇きが収まらない。これまで自分を苦しめてきた体質とも病気とも異なる症状は、治まる気配を見せなかった。


「せーんせー、うてなせんせー!!」


 そんな二人で満ちていた空間を、慌ただしい足音と扉を開ける音が引き裂いた。


 闖入者ちんにゅうしゃの出現に、桃花の全身がびくりと震える。


 保健室の入り口から桃花の休んでいたベッドは、カーテンやキャビネットが邪魔をして誰が利用しているか分からない。そのせいかその生徒は桃花に気づくことなく、うてなに向かって話かけていた。


「せんせー、聞いてくださいよ! 一限目の体育でいきなりずっこけたんですよワタシ!」

「ずっこけたわりに元気だね、まったく……」

「すごく痛くて逆にテンションがハイになってる感じですっ! 膝とか擦りむいた部分を水道で流したんですけど、もぉーしみる! いたい! たすけて!って」

「いやホントうるさいな君は……痛いのでテンションあがるとか変態さんか。ほらもーっと痛くなるぞ、消毒液はしみるからねー」

「やだせんせーも生徒を痛ぶる変態さんってことですか、こわーい」


 二人の会話が弾んでいるようで、横入りできる雰囲気ではない。桃花は無意識に息を潜めて、相手から自分の存在を隠してしまった。

 クラスメイトでさえろくに交流ができていない桃花には、声の主が同級生なのか上級生なのか分からない。どちらにせよ、相手よりも自分がみじめに思えて仕方なくて、こんな存在がいるのだと知られたくなかった。


 体育の授業で転ぶほど運動することも、笑いながら一人で保健室に訪れることも桃花にはできない。うてなとの会話で、彼女をこんな軽快な口調にさせたこともない。

 うてなに告げれば、なんで比べてるんだと呆れたようにため息をつくだろう。彼女にとっては、桃花も見知らぬ女生徒も等しく保健室の利用者に過ぎないのだから、当たり前だ。きっと雑談に花を咲かせている女生徒だって、いきなり他人と比較されても迷惑に違いない。


 桃花だけが、勝手に相手との優劣をつけたがっていた。そして勝手に勝ち目がないと悔しがっている。どうしてと焦燥感に駆られて、桃花はこれまでぼかしていた理由を深堀してしまう。


 ――だって、私の方が先生とたくさん話してる。一番。一番だ。それなのにいきなり横入りしてくるなんてズルいじゃないか。皆は他にもたくさんいろんなものを持っているのに、どうして先生をとろうとするの。


 感情的で、何一つ正しくない主張なのに、いろんな自分がそうだそうだと大合唱している。なぜなら人生は砂上の楼閣で、桃花にとって健康も、学業も、学園生活も、どれもこれもぐらつく土台から崩れていった砂だった。そのなかで桃花は、保健室とその主人の関係性だけ絶対に取りこぼさないようにしていたのだ。


「せんせー、波恵以外から来たんですよね! ついでだし色々教えてくださいよー」

「お嬢様がたに教えられるようなものは何もないよ」

「あははワタシお嬢様って柄じゃないよ」

「それじゃ私も先生って柄じゃないってことで、さっさと帰りなー」


 それなのに普通の生徒たちは、自分が苦労して縮めた彼女との距離を、いとも簡単に飛び越していく。みんなずるい、持って行かないでと理性のタガが外れた桃花の心が幼子のように叫ぶ。


 ――先生は私のものなのに。先生だけは、私からとらないでよ。わたしの、せんせいを。わたしが、一番好きなのに。


「……ぇ」


 ついに見つけてしまった自分の本音に、桃花は身震いした。

 なんて傲慢で、幼稚で、烏滸がましい考えで、それでいて偽りがたい想いなんだろう。

 気づいてしまったから、逃げられない。けれども、この恋が成就するイメージを桃花はどうしても抱けなかった。大好きなんだと叫ぶ心を無視できないのに、この貧弱な身体では何もできないのだ。

 彼女に対する感情を自己嫌悪に変換して、矛先を自身に向けて現実逃避をする。不甲斐ない自分に対する嫌悪感はいくらだって増やせるから、簡単に自分を誤魔化せた。


 物語でしか触れたことのない恋は、自覚した途端に息も出来ないほど重い感情となって桃花の思考を麻痺させていた。治療を受けていた生徒はいつの間にか保健室を離れていたし、うてなは気配を消した桃花をいぶかしんで視線を向けていたけれど、それに気づくこともできなかった。


 吉祥桃花の初恋は、こうして産声をあげた。それは、相手である窕木うてなが桃花から逃げ出した、ほんの二ヶ月ほど前の出来事だった。









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